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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第4話 碧海の彼方
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4-78 While there is life, there is hope

「一体どこへ逃げようっていうんだ。ははは……!」

 背後からティレグの嘲笑が追いかけてくる。

 シャインはもどかしい思いを堪えつつ、船尾にある上甲板へ上がる昇降口を目指して、天井の低い砲列甲板を走った。ただ上を意識しないと頭をぶつけて倒れてしまう。


 実際ティレグが一度、逃げるシャインを追う事に夢中になるあまり、木槌で梁を殴ったような鈍い音を立てて頭をぶつけ、その場にすっ転んだ。

 だがシャインは倒れたティレグに構わず、船尾の昇降口の階段の下までたどりついた。

 心臓が早いペースで脈打ち、呼吸しているにも関わらず、息苦しさに目の前が暗くなる。緊張のあまり過呼吸を起こしかけている。

 シャインは左手に銃をきつく握りしめ、階段に足をかけると、頭上から差し込む外の光と澄み渡った青空を見上げてそれを昇った。


「まちやがれ!」

 ドタドタと重い靴音を響かせて、ティレグが昇降口へようやくたどり着き、ぜいぜいと肩で息をする音が聞こえた。

「くっ……」

 シャインは前につんのめるようにして、ようやくエアリエル号の甲板に出た。

 目の前にはエアリエル号のミズンマストが、根元から十リールぐらいの所でへし折れて、左舷側の船縁を一部砕いて倒れ先端は海中に没している。

 そこら中、上げ綱のロープや滑車が散乱して、足の踏み場がないほどだ。

 ミズンマストが倒れているので、前方の視界は開けていて、海賊と水兵や海兵隊たちが狭い甲板で斬りあっているのが見える。


 けれどシャインはそれらに注意を払うひまがなかったし、余裕もなかった。

 即座に昇降口へと向き直り、自分を追って出てくるティレグを待ち伏せようと思った。

 それが反撃する唯一のチャンスだから。

 乱れる呼吸を整え、左手の銃を構えようとして、シャインは不意に背後の右手の指揮所へ上がる階段に、人の気配を感じた。


「何故お前がここにいる!」

 聞き覚えのあるかすれ声がしたかと思った途端、シャインは物凄い力で左腕を掴まれ後ろに引っ張られた。誰だと問う必要はないが、振り返ってシャインは愕然とした。

 斬り捨てた海賊の赤い血でまみれた軍刀を、右手に持った黒い将官服姿のアドビスが、濃い金色の髪を振り乱し、青灰色の瞳を細め、怒りに唇を震わせながら、シャインをひたと睨みつけている。


 アドビスの姿を見てシャインは一瞬思考が止まるのを感じた。

 頭の中が真っ白になり、何をしようとしていたのかわからなくなった。

 腕を掴まれるほどに強くなる痛みが、アドビスから受けた昨夜の忌わしい出来事を呼び覚まし、ただその時の恐怖感だけが鮮やかに蘇ってくる。

「は、放せ!」

 シャインは顔を背け、腕を掴むアドビスから逃れようと身をよじった。

 しかし樫の木のようなごついアドビスの手は一層強く締め付ける。


「あなたに構っている暇はないんだ。放せ!」

 シャインは両足に力を込めて、前方へ歩き出そうとした。

「はははははっ! そこにいやがったか」

 ティレグが狂ったように笑いながら、昇降口から出てくるのをシャインは見た。振り返ったアドビスが、ティレグの姿を目にして小さく喘ぐ。

「死にやがれ!」

 ティレグの手には撃鉄を起こした銃が握られていた。

 それをシャインが目にしたのと、アドビスが軍刀をその場に落とし、自分の懐へシャインの体をひき寄せたのはほとんど同時だった。


 アドビスのがっしりとした手がシャインの肩に回された。アドビスのかすかに潮の香りがする胸元へ、シャインが思わず額を押し付けた途端。

 乾いた銃声が、後部甲板に響いた。

 シャインの頭を抱えたアドビスの手に力がこもる。

 噛みしめた歯の奥から漏れる苦悶の息を、シャインは信じられない思いで聞いていた。


『どうして――』




「けっ!」

 ティレグがいらだったように、弾が切れて役に立たなくなった銃を投げ捨てた。腰に帯びている最後の銃を抜いて、その狙いをアドビスへとつける。

 シャインはアドビスが、足に力が入らないのかぐらりとよろめくのを感じ、その大柄な体を支えようと咄嗟に背中へ左手を回した。

 アドビスの将官服がぐっしょりと濡れている。

 シャインを庇った際に、左の腰のあたりを撃たれたのだ。

 だがアドビスはシャインの肩を抱えたまま、その手を放そうとはせず、首だけティレグの方にゆっくりと向けた。


「ティレグ、貴様……っ……」

 唸るように押し殺した声が、憎しみを帯びた声がアドビスの口から漏れた。

「へっ……アドビス。どうした。てめえともあろう者が!」

 アドビスが痛みに耐えかねてその場に膝をつく。シャインはアドビスの背に手を回したまま同じように膝をつくと、ティレグをきっと睨みつけた。

 ティレグがおどけたように、下の歯が欠けた口を開いて笑みを浮かべながら肩をすくめた。

 かちりと撃鉄を起こす。


「そんな顔するなって。安心しな、俺は優しいからな。ちゃんと親子そろってあの世に送ってやるよ」

 凄絶ともいえる狂気を宿した瞳を細め、ティレグはアドビスへ銃口を向けた。

「やめろ!」

 声にならない声でシャインは絶叫した。何も考えずに叫んでいた。

 前のめりになったアドビスの体を右肩で支え、左手に持った銃をティレグへと向ける。

 その時、ティレグの背後にある昇降口から、何者かが飛び出して来た。


「待て! ティレグ!!」

 ティレグはその声に気を取られ、ぎごちなく動きを止めた。

 シャインも聞き覚えがあるその声に、かろうじて引き金を引くのを自制し、アドビスを抱えたまま前方を見つめた。

 ヴィズルが、ティレグの首に剣を突き付けて立っていた。

 ざんばらの銀髪を風になびかせ、黒いベルトをしたズボンとブーツ姿で、上半身は褐色の素肌を陽の下にさらしている。


「へっ……へへ。やっぱり、裏切りやがったか、ヴィズル」

「何?」

 ヴィズルが訳が分からないという風に、眉間を寄せた。

「てめえは、全部知ってるんだろうが。だから、アドビスの船に乗っていやがったんだろうが」

 ティレグが首だけ後ろに向けて、苦々しくヴィズルにつぶやく。

「……ティレグ? どういうことだ。全部って、一体」

 その時シャインは、アドビスが身じろぎするのを感じた。はっとアドビスに視線を転じると、彼は右手を腰のベルトに差し入れ、何かを手にすると、振り向きざまにティレグへそれを投げ付けた。


「うがあっ!」

「……ティレグ!」

 ヴィズルがのけぞったティレグの肩を咄嗟に持つ。

 見ると、ティレグの左胸にはヴィズルのブルーエイジの短剣が、刃の半ばまで深々と突き立っているではないか。


「思い知るがいい。貴様が与えた、彼女の……痛みを……」

 アドビスが右手を床について大きく肩で息をしながら、苦悶の表情を浮かべたティレグを凝視していた。

「ぐあああっ……アドビスっーー! あああっ!!」

 ティレグはヴィズルの手を振りほどき、両手で赤銅色の髪の毛が生えた頭をかきむしる。

 ごとりと銃が落ちて甲板に転がった。


「ティレグっ! アドビス……貴様、貴様よくも」

 ヴィズルが右手に持った剣をひきしぼり、白日の下にその刃を鋭く光らせながら、アドビスに向かって斬り付けようとした。

「殺してやる!」

「ヴィズル、待ってくれ!」

 シャインは立ち上がり、ヴィズルの前に立ち塞がっていた。

 からからになった喉を震わせてヴィズルに叫んだ。


「スカーヴィズを殺したのはティレグなんだ!!」






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