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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第4話 碧海の彼方
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4-77 錨鎖庫

 第二甲板はアドビスに会うため一度降りた事があるが、やはり天井が低いのが辛いかもしれない。

 階段の下で待っていたジャーヴィスと合流し、シャインは頭を屈めながら、船尾側正面に見えた大砲がずらり並ぶ砲列甲板が、思ったより暗くないことに気が付いた。大砲を使ったため砲門蓋が開いており、外の光が差し込んでいるからだった。

 そのおかげで、船尾の奥までおぼろげだが船内が見通せた。遥か百リール程先に、アドビスと会見したサロンの扉があるのが見える。


 左舷砲列はすべて砲門蓋が外に向かって開かれていたが、右舷砲列は、真ん中の10門ほどしか開いていなかった。そして、5、6人の白いシャツを着た水兵が血を流して床に倒れていた。重傷者はこのさらに一つ下の甲板に運ばれて、軍医が治療に当たっているはずだから――。

 シャインとジャーヴィスは水兵達のそばにいき、やはりすでに事切れていることを確認した。海賊にやられたのか、皆一様に一太刀で斬り倒されている。


「艦長、行きましょう。錨鎖庫へ降りる階段はこちらです」

 ジャーヴィスがシャインに声をかけ、二人は再び昇降口まで戻った。昇降口の船首側には、予備の帆布をしまったり、それを管理する掌帆長の部屋や、調理室がある暗い通路が見えるが、今はそこに用はない。

 昇降口の下にはさらに降りる階段が続いていた。

 今度も同じようにジャーヴィスが先に降りる。シャインも用心深く、周囲を見渡して下に降りようとした。階段に視線を向けた時、視界の端に何かが動いたような気がした。

 シャインは階段に向かって踏み出そうとした足を引っ込め、何かが動いたように見える薄暗い右手の船首側の通路を見た。


 誰かが突っ立っていた。

 荒い呼吸を繰り返して、そしてシャインに気付いたのか、足をひきずるようにこちらへとやってくる。

 重い足音。金属がチャリンと鳴る音。

「けっ……やっと見つけたぜ……ははは……」

 シャインはしわがれたその聞き覚えのある声に、思わずぞっとした。

 背中を悪寒が走り抜ける。シャインは身を固く強ばらせ、こちらへ歩いてくる男を見つめた。


「……ティレグ」

 暗がりから出て来た男――その明るい赤銅色の髪の色から『赤熊のティレグ』と呼ばれている海賊は、右手に先端がゆるいカーブを描いた剣を握り、黒い上着とズボンに赤い腰帯を巻き付け、そこに四丁の銃を無造作に差していた。

 顔は酒と返り血を浴びたせいで赤く染まっており、下の前歯をシャインに叩き折られたせいで、そこだけ欠けた歯茎を見せて下卑た笑いを放っている。


「は……はは……ここで会ったからには、てめえをぶっ殺してやる!」

「グラヴェール艦長?」

 一向に降りてこないシャインに、ジャーヴィスが階段を上がって来た。

「ジャーヴィス、来るな!」

 シャインはジャーヴィスに向かってそう叫ぶと、いきなり奇声を上げて斬り付けてきたティレグの剣を、後方に後ずさる事で躱した。

 シャインは船尾の方へ、大砲が並ぶ砲列甲板へさらに後退した。

 ティレグが曲刀を構えてその後を追う。


「艦長!」

 階段から頭をのぞかせたジャーヴィスが、目の前の状況にはっとして、右手に銃を持ちそれをティレグの背中に向けた。

「ジャーヴィス、駄目だ! 撃つな!」

 シャインは叫んだ。

「な、なんですって!?」

 ティレグがうるさそうに不意に後ろを振り返ると、左手で腰の銃を抜いて何も言わずに発砲した。だがジャーヴィスは下へ降りる昇降口へ、かろうじて頭を下げてそれを避けた。


「海軍の犬め。後でてめえも殺してやる! でも今はすっこんでな!! はははははっ!」

「艦長っ。何故駄目なんですか!」

 シャインは階段に潜むジャーヴィスに向かって言った。

「今はだめだ。それよりジャーヴィス、君はヴィズルを探してくれ」

 ティレグがスカーヴィスを殺した。

 それを証明するためには、何が何でも直接ティレグ自身の口から、ヴィズルに話させる必要がある。

 だからティレグはまだ殺せない。


「行ってくれ。そして早くヴィズルを連れてきてくれ! 彼がいないとだめなんだ。頼む!」

「……わかりました」

 ジャーヴィスがやりきれない思いで叫ぶのが聞こえたが、シャインはティレグの繰り出される、剣の軌跡をかわす事に全神経を集中させていた。

「ははは! どうしたどうした。てめえの持っている銃はおもちゃか? それとも弾ぎれか?」

 ティレグは何故か発砲しないシャインに気を良くし、右手に持った曲刀で容赦なく突きを放つ。

 シャインはティレグの動きを止めようと、彼の足に狙いをつけようとするが、ティレグの意外にも早い剣先がその邪魔をする。

 銃を握る左手がじんじんした。

 剣の切っ先がかすめて、シャインの手の甲や指に幾つも切り傷を作っている。

 ティレグの放つ息は酒臭かった。

 浴びるように酒を飲んでいるはずなのに、そのせいで足元もおぼつかないはずなのに。

 戦いの空気のせいか。血の臭いのせいか。ティレグの剣は冴えていた。

 この床に倒れている水兵達を斬ったのも、きっとティレグの仕業だろう。

 シャインは歯がゆい思いでチャンスをうかがっていた。

 右手が使えれば、ティレグの足を撃ち抜くのは雑作もない。だが慣れない左手で、しかもティレグの剣を避けながらでは、至近距離でないと命中させるのは難しい。


 シャインは息が上がり、再び体が熱を帯びてくるのを感じた。

 ジャーヴィスがヴィズルを解き放ち、ここに連れてくるまで時間稼ぎなど到底できそうにない。

 甲板に上がり誰かに加勢を頼んで、ティレグを捕えなければ殺されてしまう。

 シャインは一発だけ、いきなりティレグの顔――正確には頭上に銃口を向けて撃った。

 それに驚き、ティレグが思わず動きを止めて硬直する。

 その瞬間、シャインは踵を返して船尾の方へ駆け出した。脇目もふらずに駆け出した。

 通路の奥にはサロンに入る扉の前に、船尾から上甲板に上がる昇降口がある。そこを上がれば、船尾の後部甲板に海兵隊の一人や二人いるだろう。彼等に協力してもらいティレグを捕えるしかない。

「ま、まちやがれっ!」

 怒気を含んだ声と共に、何かがシャインの耳元をかすめた。ティレグが撃ってきたのだ。さらにもう一発が、左手の大砲に当たって火花を散らした。

 だがシャインは構わず、目の前に見える階段を目指して走り続けた。




  ◇◇◇



 ジャーヴィスはやりきれない思いで昇降口をかけ降りた。

 シャインから聞いた話を思い出し、身体的特徴から、あれが月影のスカーヴィズを殺したという、『赤熊のティレグ』であることを認識する。

 シャインが何故あの海賊を生かすのか、その理由が実はよくわからない。

 が、シャインはヴィズルを連れてくるよう、必死にジャーヴィスに訴えた。

 シャインにとってそれが重要な事だというのはわかる。わかってはいるが。


 彼の身を案じながら、ジャーヴィスは歯がゆい思いで、暗い第三甲板を見回した。早くヴィズルを連れ出して、早くシャインの所へ戻らなければならない。

 シャインは気丈に振る舞っているが、熱で衰弱した彼の体は長時間の切り合いには耐えられない。それをシャイン自身わかっているから、武器は重い剣をやめて銃を選んだ。そしてジャーヴィスの同行を許した。

 シャインの側を離れるわけにはいかないのだ。絶対に。


 焦るジャーヴィスの耳に、左手の船尾方向から、多数の人間の苦悶を帯びたうめき声が聞こえてきた。

 負傷した者を甲板に放置していれば、周りの人間の士気が下がる。よって特に重傷者はここへ担ぎ込まれるのだが、傷の重度によって治療の順番が決まっているので、軍医一人に助手が二人しかいないということもあり、すぐに処置をしてもらえるわけではない。

 ジャーヴィスはぞっとするようなその声に背を向け、むせ返る血の臭いと、下層部特有の腐った空気と汚水の臭いに胸が悪くなるのを覚えた。


「くそっ。ヴィズルの奴……」

 ジャーヴィスは天井にランプが一つだけ灯された右手船首方向を眺めた。

 この奥が錨鎖庫だ。

 ヴィズルは海賊だし、尋問するにはうってつけの拘束具もあそこには揃っている。十中八九こちらに繋がれていると思っていいはずだ。

 ぎしぎしとしなる船体の音をききながら、ジャーヴィスはさらに階段を十段ばかり降りて前に進んだ。じゃばじゃばと水音がする。垢水が床にたまっている。それはブーツのくるぶしまでかかるほどだから、エアリエル号は船体に穴は開いておらず、浸水はしていないようだ。


 ジャーヴィスはそこから三リールほど、人一人が通れる通路を歩き、前方で鎖が鳴る音を聞いた。垢水をはねながら左手で壁を伝い前へ進む。

「……ヴィズル……」

 格子状に木材が組まれた天井から二本の鎖が垂れ下がり、その下で長い銀髪の青年が、うなだれたまま手首を繋がれて座り込んでいるのが見えた。

 頭がわずかに動き、青年は顔をゆっくりと上げた。

「ジャーヴィス?」

 間違いない。ヴィズルだ。

 ジャーヴィスは黙ったままヴィズルに近付き、右手に持っていた短銃の引き金に指をかけた。

「死にたくなければじっとしていろ」

 そう鋭く言い放つと、ジャーヴィスはヴィズルの手首を繋いでいた鎖を二本とも即座に撃ち抜いた。

「……つっ」

 ヴィズルは鎖の支えを失い、体を前のめりに倒れ込ませ、垢水に顔を突っ込む寸前で両手をついた。腰にとどくほどの灰色を帯びた銀髪が流れ、引き締まった肉付きの背中が見えた。


「どういうことだよ、ジャーヴィス」

 ヴィズルは疲れたように、だが安堵に満ちた声でつぶやいた。

 しかしヴィズルの問いにいちいち答える時間が惜しい。

「うるさい。艦長がお前を必要としている。だから私はお前を解き放つだけだ」

「……シャインが?」

 ジャーヴィスはうなずいてみせ、ヴィズルに早く立ち上がるよう催促した。

「ジャーヴィス。足にも枷がはまってるんだよ。こっちも頼むぜ」

 ヴィズルはおもむろに左足を上げてみせた。手首と同じように鉄枷が足首にはまっており、それは鎖で床に固定されている。

 ジャーヴィスはすぐさま銃弾で鎖を切った。

 ヴィズルは口元に笑みを浮かべ、うれしそうにジャーヴィスを見つめた。


「さ、早く上の甲板まで上がるぞ。赤熊のティレグという海賊に、艦長が……」

 ジャーヴィスははっと息を飲んだ。

 ヴィズルの顔が何時の間にか正面に見えたかと思うと、不意に突き出された彼の手に喉元を掴まれて、左舷側の船壁に押し付けられた。

 後頭部を壁に打ちつけ、一瞬目の前が暗くなった。

 だがかろうじて意識ははっきりしている。ジャーヴィスは自らの不覚を呪いながらヴィズルを睨み付けた。


「……ぐっ……ヴィズル、貴様っ!」

 ヴィズルは右手でジャーヴィスの首を押さえ付けながら、ざんばらの銀髪をいく筋も顔に貼り付かせたまま、夜光石の瞳を細めた。

 そして左手でジャーヴィスのベルトを探り、携帯していた剣の柄に当たると、それを握りしめて鞘から引き抜いた。

「悪いな。俺は行かなくてはならない所がある。お前やシャインの指図は受けない」

「ヴィズル……貴様というやつは……!」

 ジャーヴィスは右腕を上げて、短銃をヴィズルに突き付けた。が、それが火を吹く寸前で、ヴィズルは身を翻して暗い通路の奥へと姿を消していた。

 ばしゃばしゃと、水をはねる音が聞こえ、遠ざかっていく。


「ゴホッ……くそっ、ヴィズルの奴め!」

 ジャーヴィスは首を押さえ息をついた。

 乱れる呼吸を整えながら、ジャーヴィスは急ぎ錨鎖庫を後にした。

 シャインのことが気掛かりだったし、ヴィズルを捕まえなければと思った。

 ヴィズルは復讐を遂げるために、アドビスの所へ向かったのだ。

 アドビスとヴィズルを会わせてはならない。

 アドビスが甘んじてヴィズルの剣を受けてしまったら。命を落としてしまったら。

 シャインは永遠に、アドビスの心を知ることができなくなってしまう。

 アドビスはそうなる事を望んだが、それが一番いい方法だとは思えない。

「ヴィズルを止めなければ……!」

 ジャーヴィスははやる気持ちを抑えつつ、上の甲板に続く昇降口の階段を一気に駆け上がった。

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