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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第4話 碧海の彼方
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4-65 金色の悪魔

「ジャーヴィス中尉だ。グラヴェール中将閣下に報告をしに来た」

 船尾の奥まった扉の前には、同い年ぐらいの海兵隊員が一人、長銃を右手に持ち歩哨に立っていた。海兵隊員は軽く頷くと扉から体を横にずらし場所を開ける。ジャーヴィスは扉に近付くと拳で二度叩き、少しだけそれを開けた。

「中将閣下、ジャーヴィスです」

「……入れ」

 扉の奥から久方ぶりにきく、アドビスのややかすれた重々しい声が聞こえた。

「失礼します」

 ジャーヴィスはそう応えると、扉を押し開き、シャインが先に入るよううながした。

 アドビスの声の調子でその機嫌がどうなのか、皮肉な事にシャインはわかるようになっていた。

 どうやら今回はあまりよくない様子だ。

 ジャーヴィスも室内に入ったところで、見張りの海兵隊員が扉を閉める。

 エアリエル号のサロンであるこの部屋は、外へランプの光が洩れないように、厚いカーテンが下ろされた奥と左右両側に四角い窓が並び、質素な趣の小さな棚がその下に置かれているだけで、椅子等の家具が一切ない。これから起こる戦闘のために、余分な家具はアスラトルの軍港で取り払ったのだろう。


「先に連絡が行っていると思いますが、ロワールハイネス号に乗っていたご子息をお連れいたしました」

 ジャーヴィスの言葉にアドビスは身じろぎ一つせず、背中を向けたままだ。

 室内は息をするのも憚れるくらい、重苦しい沈黙に覆われている。

 シャインは部屋の影と一体になったようなアドビスの背に向けて、取りあえず詫びの言葉を口にした。


「あなたの手を煩わせてしまい、申し訳ありませんでした。中将閣下」

 黒い影が、アドビスが。ようやく緩慢な動きでこちらを向こうとする気配がした。

 岩肌をのみで荒削りに彫り、彫刻したような堅いアドビスの顔。通った鼻梁の暗い影がそこに落ち、そのせいで表情がまったく読み取れない横顔が覗く。

 普段は後ろに手櫛でかきあげている金色の前髪が、苦悩を刻んだような皺の目立つ眉間と、秀でた額の上に、いく筋も垂れ下がって揺れている。

 傍らのランプの明かりに照らされた、水色であるアドビスの鋭い眼光が、今は鷹を思わせるような――猛禽の類いのように黄色く光るのを見て、シャインはいつも以上に、アドビスの存在を遠くに感じずにはいられなかった。


 長身ゆえか、高みから見下ろすその視線、引き締められた厳しい口元。まるでちっぽけな虫でも見るように威圧するアドビスの態度には、様々な感情が嵐のように吹き荒れているようだった。

 怒りともいら立ちともとれるような、憮然とした顔がついにこちらへと向けられた時、シャインには目の前に立っているアドビスの顔が髑髏に変わり、落ち窪んだ二つの眼孔の中で灯る金色の光だけが、らんらんと輝いているように見えた。

 いつものアドビスでない者が、そこにいるような気がする。

 完全に正面を向いたアドビスは、すぐに言葉を発しなかった。ただ、じっとこちらを見据える眼光だけでも、シャインをおののかせるには十分な迫力がある。

 押し潰されそうな、息が詰まるような緊張がシャインを襲った。

 この沈黙が重苦しい。

 それに耐えきれずシャインは再び口を開いた。


「あなたが、自らここに出向いた理由は知っています。そして、あなたがずっと、俺に話そうとしなかった――母の死のてん末も……」

 舌が口蓋に貼り付いて上手くしゃべれない。

 アドビスはシャインを見つめたまま、まだ何も言おうとしない。

 シャインはゆっくりと頭を振り、左手を握りしめて気持ちを奮い立たせた。


「あなたがこれから向かう、ヴィズルの島のアジトに俺はいました。ほんの二日前までです。あなたを恨むヴィズルが何を考え、そしてあなたを倒すためにどんな罠を張っているかも……俺は知っています」

 後半部分は真っ赤な嘘だ。はったりだ。

 しかし落ち窪んだアドビスの眼光に、別の輝きが生まれたのをシャインは見た。今まで沈黙を守っていたアドビスの唇が動き、声を発するため息を吸う音が聞こえる。


「お前が何を知り、何を見たのか。今の私には関係ないし、興味もない。だが」

 重々しいトーンのアドビスの声が部屋の中で静かに響いた。

「……ヴィズルに関する話は別だ。今、あの島がどうなっているのか。それをすぐに話せ」

 シャインは黙ったまま、ゆっくりと一歩後ろに後ずさった。

 ここからが肝心なのだ。

 こちらの要求をアドビスに飲ませるために、慎重に話をすすめる必要がある。

 シャインが後ずさった事で、傍らに控えていたジャーヴィスが眉をひそめた。


「ただでは話しません」

 きっぱりと言い放ったシャインの言葉に、アドビスの眉間に落ちる影が濃さを帯びた。ぎりっと奥歯を噛み締める音が聞こえそうなほど、アドビスは口元を歪めている。ここまで敵意ともいえる表情を、シャインに見せつけたのは初めてのことかもしれない。

「ならばお前と話すことは何もない。ジャーヴィス中尉!」

 不意にアドビスに名前を呼ばれて、ジャーヴィスは何時もの冷静な彼らしくなく、ぶるっと体を震わせた。

「はっ、何でしょうか、閣下」

 アドビスはシャインを金色の眼で睨み付けたまま命じた。

「これを即刻部屋から連れ出し、出て行くのだ。そして船首の最下層にある錨鎖庫に入れて、両手両足を鎖で繋ぎ、二十四時間監視をつけろ。話をしたくなるまでそこから出さぬし、水一滴たりとも与える事は許さん。わかったら早くしろ!」

 シャインは一瞬呆然としてアドビスの顔を見つめた。信じられない思いで体が強ばり、頭の中が真っ白になっていく。

 最下層の錨鎖庫は錨とその鎖をしまっておく場所で、いつも床には汚水が溜っている。海水の腐った臭いと鉄の錆びた臭気が混ざり合い、胸が悪くなるような場所だ。よってそこは大罪を犯した者――例えば脱走や謀反を働いた罪人を、閉じ込める場所として使われている。


 アドビスがそこまでするとは思わなかった。

 あの男は自分をどんな風に見ているのか。

 果たして本当に息子だと思っているのだろうか。

 死んだ妻の面影をシャインの中に見ているような、甘い幻想じみた考えをあの男が本当に持っているのか――。

 わからなくなった。

 あの男は、アドビスは――。


「閣下。私には、そのような理不尽な命令には従えません」

 あまりの衝撃に呆然としていたシャインは、目の前に立ち塞がったジャーヴィスの背中をただ見つめていた。ジャーヴィスはシャインを庇うようにすっと右手を伸ばしている。

 その横顔は権力には媚びない、自分の信念を貫く姿勢に満ちあふれ、アドビスに対する抗議で青い瞳が細められていた。

「逆らう事は許さぬ」

「いいえ。そんな扱いを今のご子息にすれば死んでしまいます。ご子息はただ一人で奪われた船を取り戻し、自力でここまでやってきたのです。それがどんなに大変だったか……ご子息の様子を見ればおわかりになるはずです」

 だがアドビスは一層顔をしかめただけだった。

「――ならばシャイン、もう一度だけお前に聞く。話す気はあるのか?」

 シャインはゆっくりと首を横に振った。ごくりと生唾を飲み下し、重々しく息を吐いた。

「……いいえ」

「艦長!」

 ジャーヴィスが振り向き、冗談じゃないと言わんばかりに叫んだ。

「では、きまりだな」

 アドビスはゆらりと上体を揺らし、シャインの方へ足を進める。

「お待ち下さい、中将閣下! 何故そんな仕打ちをされるのですか。閣下は、あれほどご子息の身を案じて……ぐっ!」

 シャインはうなだれていた顔をジャーヴィスの呻き声で思わず上げた。

 アドビスが右手一本でジャーヴィスの襟首を掴み上体を持ち上げている。


「何かお前は、勘違いをしているぞ。中尉」

 冷めた口調とは裏腹に、ジャーヴィスを半眼にした目で睨むアドビスの顔は、怒りで赤黒く引きつっていた。がっしりとしたアドビスの手が、ジャーヴィスの首元を締め付けている。

「何をするんです!」

 シャインは驚いて叫んだ。だがアドビスはシャインの言葉を無視してジャーヴィスに話しかける。


「お前はもう少し有能だと思っていたが。策士としての基本を忘れおって」

「閣下……私はっ……」 

 ジャーヴィスの顔から血の気が引き、額に冷や汗が浮かぶ。それをアドビスは冷めた目でながめながら言葉を続けた。

「あれは一人でロワールハイネス号に乗っていたそうだが。何故お前はそれを怪しもうとはしない? ヴィズルに囚われていたあれが、わざと解き放たれたと考えるのが普通であろう!」

「ぐっ……」

 息苦しさに耐えかねて、ジャーヴィスが呻き声を漏らす。

 シャインより背の高いジャーヴィスが、アドビスに締め上げられてつま先立ちになっている。

「ジャーヴィスに何の非がある! その手を放せ!」

 シャインはアドビスの右腕に左手を伸ばした。だが樫の木のように堅いアドビスの右腕の筋力は強く、シャインが片手で握っただけではびくともしない。

 アドビスは見下したようにシャインを眺めた。

「自分の息がかかった人間を海軍の船に送り込むやり方は、ヴィズルの常套手段だ。お前がヴィズルの手駒でないと、どうして言いきれる――? 私に偽りの情報を教え、ヴィズルが有利な海域までこの船を連れ込む……。それがお前に与えられた役目ではないのか? シャイン?」

 シャインはアドビスの口から発せられたその言葉に、体中の血液が沸騰するような強烈な怒りを覚えた。体の奥が熱くなる。目の前に血色に彩られた霞がかかって目眩を起こしそうだ。


「あなたって人は、どうしてそんな事を――!」

 シャインはすがりついたアドビスの手を揺さぶった。

「ジャーヴィスを放せ! 放すんだ!」

「ならばお前がすべてを話すのだ。知っている事を、全部、すべて!!」

 シャインを見下ろすアドビスの金色の瞳が冷徹さを帯びた。

 今はうっすらと口元に笑みさえ浮かべている。

 胸が悪くなる。アドビスは人の皮を被った悪魔だ。残忍な行為に酔いしれるアドビスの姿に、初めてみせるその姿に、シャインは思わず顔を背けた。

「どうした。お前のつまらない意地のせいで、忠義ある部下が命を落とそうとしている。お前は見殺しにするのか?」

「――卑怯者!」


 シャインはジャーヴィスをつり上げているアドビスの右腕を、自らの左腕を絡め体重をかけて引っ張った。流石のアドビスも二人分の青年の体重を腕一本では支えきれない。ぎりと奥歯を噛みしめて、アドビスはたまらずジャーヴィスの襟首から手を放す。

 シャインとジャーヴィスはもつれて部屋の床に倒れ込んだ。

 げほげほと咳き込み、ジャーヴィスが横向きに倒れたまま背中を丸める。

「ジャーヴィス!」

 シャインは痛めた右手首に走った痛みに顔を一瞬しかめ、それでも何とか身を起こすとジャーヴィスの顔をのぞきこんだ。

「……大丈夫です……」

 大きく肩を上下させながら、冷や汗に前髪を額に貼り付かせたジャーヴィスの青白い顔が見えた。

「ジャーヴィス……」

 ジャーヴィスは微笑していた。シャインを心配させまいと。

 その姿に胸が詰まってシャインは唇を噛みしめた。

 ジャーヴィスは何も知らない。

 何も知らないのにアドビスの言う通り、シャインがヴィズル側の間者であるかもしれないという疑惑を一切抱かず、彼はそれが当然のように自分の無事を喜んでくれた。

 そんなジャーヴィスが、どうしてこんな目にあわなければならない?

 それは言うまでもない――自分のせいだ。

 その場に膝をついたシャインの頭上で、追いうちをかけるアドビスの声が聞こえた。



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