1-16 黄昏の再会
「偶然はそう何度も起きないか」
全く同感だ。
自室に戻ったシャインは、執務席の前に置かれた応接用の長椅子に体を横たえ、天井を見上げていた。
水樽を積み込むために滑車を取り付けた水兵のエリックは、事情を尋ねると「俺は何もヘマしてません!」と大声で主張し部屋を出ていった。
まだ耳の中で甲高い彼の声が響いているような気がする。
シャインは右手を上げて額につけた。
――瞼が重い。
そういえば、昨夜は失った主錨と錨鎖の再艤装の作業に立ち会ったのでほとんど寝ていない。
作業に立ち会ったのは、錨鎖がちゃんと取り付けられているかこの目で確認しておきたかったからだ。何らかの不手際で同じことが起きたらたまらない。
その前は命名式の前日で、船大工たちと一緒にロワール号の仕上げの作業に追われていた。
命名式に間に合わせるためずっと働きづめだったし、よく考えたらこの一週間、寝台で眠った記憶がない。
やらなくてはならないこと、考えなければならないことは沢山ある。
そう。
一番の問題はジェミナ・クラス港へ五日以内に到着することができる航路の確認だ。
シャインは瞼を閉じ嘆息した。
不可能だ。そんなに足の速い船、アスラトルでみたことがない。
アドビスの前では動揺を隠したが、これが正真正銘、心からの本音だ。
潮流を利用し陸風を利用し肝心のロワールハイネス号が、どんな走りを見せてくれるのか。
南風が五日間ずっと休まず吹き続けない限り、期日までにジェミナ・クラスに行くことは無理だ。
「……」
シャインは唇を噛みしめた。
何か手立てがあるはずだ。
いや、その見込みがなければ、利己的なあのアドビスが自分をロワールハイネス号の艦長に強引な手法を使ってでも据えるはずがない。
そう、思いたい。
ロワールハイネス号がまだ設計図の状態だった時から、彼女に乗ることを夢見ていたのだ。
こんな理不尽な命令のせいで、ささやかな自分の望みを失いたくはない――。
シャインははっと我に返った。
艦長室の四角い窓から差し込む日の光は黄昏色だった。
体を横たえていた長椅子から身を起こし、シャインは瞼をこすった。
うっかり少し眠ってしまったようだ。
このままふかふかで居心地のよい長椅子に座っていたら、また眠ってしまうだろう。
シャインは立ち上がった。艦長室の扉を開け、後部甲板に上がるための階段を上る。
「流石ジャーヴィス副長だな」
後部甲板から突堤を見やると荷馬車が置いて行った積荷の山があと三つばかりになっている。
あれから水兵たちに発破をかけて、何とか作業を急がせたのだろう。
甲板には人の気配がなかった。積み込み作業をしている下の倉庫の方も物音ひとつ聞こえない。
シャインは軍服のポケットに手をやり、銀の懐中時計を取り出した。時刻を確認してみると16時半を示している。作業の目途がついたので、ジャーヴィスは水兵達に休憩を命じているのだろう。
シャインは視線を背後の鐘楼へと向けた。
向かい合う波の形に金色の真鍮でかたどられたそれには、鏡のように光る銀色の船鐘が吊り下げられている。
シャインは鐘楼の前に立つと、夕日を浴びて煌めく船鐘を見つめながら優しく語りかけた。
「今なら誰も邪魔しない。出てきてくれないか、レイディ」
「――私は、ここにいるわ」
シャインは息を飲んだ。
背後から聞こえた声は紛れもない『彼女』の声だ。
振り返るとそこには黄昏色の長い髪と白い花びらのようなドレスを海風にふわりと揺らして佇む少女が立っていた。
澄み切った水色の瞳が一直線にシャインを見つめている。
「レイディ」
声をかけると少女はほっそりとした両腕を伸ばし、シャインに向かってそれを広げると、弾むように首筋へ飛びついてきた。
「会いたかった。あなたに、会いたかった――シャイン」
「それは俺もだ。レイディ」
シャインはそっと彼女の背中に両手を回した。
頬に紅の髪が柔らかく触れるのを感じた。半年前、アイル号をアスラトルまで帰港させるのに、繋いだ互いの手の温もりが一瞬で思い出された。
「君は命の恩人だ。こうしていられるのも君のおかげだ」
「……」
少女――レイディはそっと顔を上げてシャインを見上げた。
気の強そうな細い眉がぐっとしかめられ、悲しみとも怒りともどちらともつかない複雑な表情だ。
「どうしたんだ?」
「どうしてなの?」
シャインは戸惑った。明らかにレイディが怒ったような口調で答えたからだ。
「どうして『船鐘』をこの船につけたの?」
「それは――」
「すぐに外して、人目のつかない所に隠して。いいえ、いっそ海に捨てて! お願い!」
「……レイディ、それはどういう意味だ。事情があるなら教えてくれ」
紅髪の少女はシャインから離れ、その背後にある鐘楼を冷ややかに見つめた。
「私はここにいてはいけない存在なの。シャイン、あなたも『見た』でしょう?」
「見た……とは?」
「命名式の時に、会ったはずよ」
突き放す口調でレイディがつぶやいた。
シャインはそっと手首をさすった。
誰かに手首を強く握られたように感じたのだ。
いや。
シャインのこめかみにじわりと冷たい汗が浮いた。
「アレは……なんだったんだ。君と同じ顔をしていた――」
レイディは目を伏せ眉間を険しくしながら首を横に振った。
「私の中に『存在もの』よ。私であって、私ではない。私は『彼女』の力を制御することができない」
「なんだって?」
レイディは船鐘から距離を置くように左舷の舷側へと歩いた。
船縁へ近づくと足を止め、シャインの方へくるりと振り返った。
あどけない少女の柔らかな微笑――。
命名式で見たもう一人の『彼女』と、その印象は真逆に思うほど遠くかけ離れている。
「シャイン。私もあなたに会いたかった。こうしてまた出会えたのなら、あなたと一緒にこの船で海原を駆けたかったわ。でもそれはダメ」
「どうして駄目なんだ? あの存在は確かに恐ろしいが……君は俺の目の前にいるじゃないか!」
レイディは寂しげに微笑んだ。
「私と『彼女』の意識は常に拮抗しているの。ちょっとでもバランスが崩れたら、『私』は二度と表に出てこれない。そうなったらこの船はどうなると思う?」
シャインは頭を振った。
「……考えもつかない」
「なら教えてあげる。こういうことよ!」
さっとレイディが右手を上空に向かって差し上げた。
何か重いものが風を切るような音がする。
シャインの目は信じられないものを捉えていた。
ロワールハイネス号の上げ綱という上げ綱が、帆桁にぶら下がる滑車という滑車が右に左に一斉に揺れ出したのだ。
そこだけ暴風が吹いているかのように綱が跳ね回り、人間の頭ほどの大きさの滑車が、がしゃんがしゃんと音を立てて振り子のように激しく揺れている。
「――これでわかったかしら。シャイン・グラヴェール」
レイディが右手を静かに下ろした。
何事もなかったかのように、上げ綱と滑車の揺れは収まっていた。
シャインは喉元を手で押さえ、生唾を呑み込んだ。
「つまり、君の宿る『船鐘』をつけていれば、勝手に船が動いてしまう危険があると、そう言いたいのか」
「ええそうよ。私の存在がどんなに危ないか、これで理解できたかしら」
レイディの顔には意味深な微笑が浮かんでいた。
「あの水樽の落下はその警告よ」
「――なんだって?」
レイディは肩を流れる紅の髪の一筋を手で弄りながらシャインを見上げた。
「そう。私が落としたの。あなたに私のことを気付いてもらうために」
シャインは腕を組んだ。
「本当に……?」
「だからそうだと言ってるでしょ?」
シャインはため息をついた。そういえば船に戻ってきた時、帆桁に人影を見たような気がしたのだが、やはり見間違いではなかったのだ。
「一つだけ教えてくれ。君は、一体何者なんだ?」
レイディはシャインの顔を見据えたまますぐに口を開かなかった。
彼女が何者か。
半年前、アイル号で出会った時は、思わず『船の精霊』と呼びかけてしまった。
けれどそれ以外には考えられないのだ。
レイディはシャインを澄み切った瞳で見つめ返した。
「――私は『船の精霊』。この船鐘に宿りし『船の魂』」
シャインは静かに頷いた。
聞きたかったのはその答えだ。それが分かれば気持ちはもう揺らがない。
彼女が何者であっても。
シャインはそっとレイディに歩み寄り、彼女の前で膝をついた。
「『船鐘』を海に捨ててと言ったね」
「そうよ。構わないわ。そうしなければ……私はきっとこの船を……」
シャインはレイディの瞳を見つめながら首を横に振った。
「俺に君を殺せというのか? だったらお断りだ。あの時君は俺に助けを求めた。俺に呼びかけなければ、今頃君はアイル号と共にアスラトル港の海底に沈んでいる」
「それは――」
シャインはレイディの顔を見据えながら華奢な彼女の肩に両手を置いた。
「君は生きたかったんだ。だから、俺を呼んだ」
「私……は……」
レイディの声が震えた。彼女の瞳からすっと一筋の涙が落ちた。
シャインはレイディの小さな手を握りしめた。
繋いだ手を通してレイディの心の揺らぎが感じられた。
彼女は心からロワールハイネス号のことを案じている。
『船鐘』に封じられているもの。
片方は船と乗組員を守ろうとする存在。
もう一方は恐ろしい意思で船を操ろうとする存在。
「レイディ。俺では頼りないかもしれない。でもこの船は何があっても俺が守る。いや――俺の居場所はここしかないんだ。だから俺を信じてくれ」
「シャイン――ごめんなさい。あなたでも『彼女』を止めることはできない。だから、『船鐘』を海に捨てて」
「――嫌だと言ったら?」
「シャイン! なんでそんなことを言うの? あなた、この船の艦長なんでしょ? いつ制御できなくなるかもしれない状態の船に乗組員を乗せて航海に出るなんて正気の沙汰じゃないわ!」
「『君』はそんなことをしないと信じている」
「私はっ……私だってできるならそうしたい。でも――」
「君は俺を助けてくれたじゃないか。君の中のもう一人の『彼女』が邪魔をするのなら、何故アイル号をアスラトルに帰港させたんだ?」
「それは……」
「レイディ?」
顔を上げたレイディの表情は蒼白だった。淡い水色の瞳が妖しげに煌めき、その瞳を覗き込んだシャインは胃が急に重みを増し、とてつもない恐怖に突き落とされるのを感じた。
温かさを感じていたレイディの手からぬくもりが消えた。
まるで氷を握りしめているみたいに。
目の前にいるのが、もう一人の『彼女』だと頭の片隅で気づきながらも、シャインはどこまでも深く青みを増したレイディの瞳から視線を逸らすことができなかった。
紺碧の海に落ちて深淵を覗き込んでいるようだった。
深く――深く――。
そう。
この感覚は覚えがある。
深く、深く。どこまでも深く、暗く冷たい海の底に落ちた記憶。
水は刺すように冷たく手足の感覚は鈍り、浮上するための力は失われた。
『君は生きるんだ』
耳元で誰かの声が聞こえた。
シャインが助けようとして差し伸べた手を自らすり抜け、暗い闇の底へと落ちていく人影――。
『……めだ。生きることを諦めたら駄目だ!』
「――駄目だ!」
シャインは膝をついたまま右手を前方へと伸ばした。
「グラヴェール艦長!」
シャインは我に返った。
目の前にジャーヴィスがいて、シャインの顔を何事かと覗き込んでいる。
「……俺は……」
シャインは両手を甲板について座り込んだ姿勢のまま顔を上げた。
どきどきと心臓が早鐘を打ち、荒い呼吸をしているのがわかる。頭から水を被ったように嫌な汗が額に浮いていた。
「部屋におられなかったので甲板に出るとあなたの叫び声が聞こえたのです。一体、何があったのですか?」
ジャーヴィスの蒼い瞳が鋭さを帯びた。
「また誰かに襲われたのですか?」
「……違う。そうじゃない」
シャインは息を整えるため深く呼吸した。
口ではそう言いつつも、両手が細かく震えていることに気付いた。
何故あんな昔のことを唐突に思い出したのだろう。
いや、思い出したのではない。
彼女の瞳を覗き込んだ瞬間、記憶を無理矢理引きずり出された感覚がある。
シャインは右の拳で額の汗を拭った。
「顔色が悪い。まずは部屋に行きましょう」
「すまない」
シャインは心ならずもジャーヴィスの手を借りて立ち上がった。
視界に入った鐘楼には、夕日の残照を浴びて沈黙を守る銀の船鐘がぶら下がっていた。