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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第4話 碧海の彼方
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4-57 一時休戦

 ぐーきゅるるる……。

 腹の虫が現実を思い出させるかのように鳴いた。

 ヴィズルは黙ったまま応接机の上に伸ばした足を下ろした。

 長椅子の肘当てに手をかけてゆっくりと立ち上がる。

 一瞬目の前がゆらいだ。空腹のせいか視線が定まらない。情けない事に。


「くそっ。こうなりゃ、アドビスに会って白黒つけてやろうじゃねえか!」

 ヴィズルは大きく息を吸って、半ばすがりついた艦長室の扉を開け放った。

 その時、背後から感じた風が、ぱさぱさのヴィズルの長髪を揺らした。

 振り向いたヴィズルは開け放たれた窓の外で、今まで青く晴れ渡っていた空が消え失せているのを見た。

 空はどんよりと曇り、厚い灰色の雲が立ち込めている。

 やがて海面が大きくうねりだし、空から落ちてきた雨粒がそれを激しく打ちだすのに時間はかからなかった。

 ヴィズルは喜色を顔面一杯に浮かべた。まさに天の恵みである。

 急いで空になった樽を甲板に並べることを考える。

 上手く行けば一週間分の真水を得られるかも知れない。

 それをすませてから、気は進まないが、シャインの所に向かえばいいだろう。

 馬鹿な意地の張り合いを終わらせる為に。

 アドビスに会うまでは死ねない。死んでたまるか。

 ヴィズルは船倉に走った。まずは貴重な飲み水をためる、空の樽を取ってくる為に。



  ◇◇◇



 雨の気配がする。

 短時間に降りしきる類いのそれだろう。

 シャインは薄暗い部屋の中で、船や海に打ち付けるその静かな音を聞いていた。

「ねえ、シャイン。どうしてあなたまで、そんな意地を張らなくちゃならないの?」

 小部屋の中に座り込み、ずっと目を閉じている自分を心配しているのだろう。ロワールが近付いてきて、そっと左腕に触れるのをシャインは感じた。

「ねえ……」

 ロワールが軽く腕を揺さぶる。

「あなたまでヴィズルの馬鹿に付き合って、絶食することないじゃない。シャイン……」

 シャインはようやく目を開けた。

 窓がないこの部屋は目を開けていようがいまいが、どっちにしろ同じ事だ。


「……ヴィズルが生きることを選べば、彼は必ずここに来る。それまでは俺も同じ条件で付き合うべきだ」

「シャイン……」

 ロワールが絶句して大きく水色の瞳を見開いていた。辺りが明るければ、彼女が全身を震わせているのがわかっただろう。

 だが、すっかり気力の失せているシャインは再び目を閉じていた。自分の声が思った以上に覇気と明瞭さがないことに気付いたからだった。

 無理もない。水分をとらない口の中は乾いていて、唾もろくに湧いてこない。舌が腫れぼったくなっていて、上手く言葉を発音できないのだ。


「嫌よ。このままじゃ、本当にシャインが死んじゃう。あんなわからずやの男のせいで、私はあなたを失うわけにはいかないのよ。お願い、今すぐこんな馬鹿げた事はやめて! シャイン!」

「……ヴィズルは来るよ。きっと、来る」

 シャインはロワールを安心させようとして口を開いたが、またもやそれは喉を潰された家鴨のような声だった。

「……」

 軽くため息をつき、シャインはしかたなく目を無理矢理開けた。

「ロワール?」

 彼女の姿がない。先程まで闇の中でうっすらと微光を放ちながら、唯一の明かりのように側にいたのに。

 その時だった。


「おいこら! シャイン、聞こえてるか!」

 どすっと扉を殴りつける重い音と、ヴィズルの不機嫌な声――。

 よかった。思ったよりずっと元気そうだ。

 最も、まだ一日そこらしか経っていないのだが。

 シャインはうっすらと頬に笑みが浮かぶのを感じながら声に応えた。

「ああ、聞こえている。どうだい? 一緒にアドビス・グラヴェールの所へ、大人しく行く気になったかい?」

 どすどすっ! と扉を殴りつける音が間髪入れず響いた。

「ああ行ってやるさ! 行ってアドビスの喉笛をかき切ってやるぜ!!」

 シャインはそろそろと両側にある棚に左手をつき、ゆっくりと立ち上がった。


「――それはだめだ。いいか、紳士的に話し合うと誓ってくれ」

 再び間を置くことなく、扉をヴィズルが殴った。

「なんだと! 馬鹿野郎。下手にでてりゃあ、勝手なことばかり言いやがって! お前は俺を殺す気か」

 シャインは思わず失笑した。

 そうかもしれない。

 どちらかが譲歩しなければ、互いを待つのは死のみだ。

「大丈夫。君は一人では死なないよ。そうなった責任は取るから安心してくれ」

 そう返事をすると、鉄の扉の外で、ヴィズルが低く唸る声が聞こえた。

 そして、何かを叩くような鋭い音。


「ロワール! なんで俺ばかり叩く!!」

 ロワールの名を呼ぶヴィズルの声を聞いて、シャインは思わず息を飲んだ。

「このわからずや! いいから黙ってシャインの言うことを聞きなさいよ! でないともっと叩いてやるから!」

 扉の外から聞こえてきたロワールの声は、今にも泣き出しそうな悲愴感に満ちていた。

「あなたもシャインも大馬鹿者よ。子供じゃないんだから、ちゃんと話し合ったらどうなのよ! ヴィズル、シャインはね、あなたに付き合ってぜんぜん食事をとってないのよ。もしもシャインが死んじゃったら、私はあなたをここに閉じ込めて、そのまま海の中に沈んでやるんだから!」

「……なんだと?」

 狼狽するヴィズルの声。

 すべてを理解したように、とても静かな声だった。

「シャイン――おい……」

「早くして! ヴィズル!!」

 ロワールが泣いている。激しく泣きじゃくっている。

 シャインは小部屋の板壁に頭と肩を寄り掛からせながら、ロワールの嗚咽混じりの声に思わず目を伏せうつむいた。

 気力が再び萎えそうになる。無意識のうちに鍵を持った左手が上がり、扉の取っ手にかかる。早くそれを開けて部屋から出て、彼女を抱きしめてやりたいと思った。

 だが……。


 シャインは伸ばした左手をじりじりと引っ込めた。

 駄目だ。

 ヴィズルと約束を取り付けなければ駄目なのだ。

 そうしなければ、ここに籠城した意味がない。


「おいシャイン! まだ生きてるんだろうが、お前に生きてもらわなければ、俺がロワールに殺されてしまう! いいか、良く聞け。俺はお前の言うことを聞くことにした。だから、お前はさっさとこのいまいましい扉を開けて、早くそこから出て来い! 食料と一緒になっ!!」

 シャインは扉に寄り掛かりながら、温もった空気を吸った。すっかり淀んでいるそれに頭がくらくらする。シャインはやっとの思いで声を出した。

「ならば……君の信じるものにかけて誓ってくれ。あの人とは紳士的に話し合うと。それを誓ってくれたら……扉を開ける」

 どすっとヴィズルが扉を蹴飛ばした。

 罵声混じりの声が響く。


「しつこいな! ええい、くそっ! じゃあ、俺にかけて誓う。言っとくが、俺は俺を信じて今まで生きてきた。それを否定することは、すべてを否定することだ」

 シャインはうなずいていた。ヴィズルらしい言葉に。

「いいだろう。君が誓ったからには、俺も約束を守る。そして、何があっても君の命を守ろう……」

 アドビスの横顔が脳裏に浮かんだ。もはやその存在は目の前の扉のように、冷たい鉄壁となってシャインの前に立ちふさがるだろう。

 シャインはそっと自分に言い聞かせるように付け加えた。

「……俺の命に代えても」

 シャインは小部屋の鍵を外し扉を開けた。

「うっ……」

 いつもは暗く感じるランプの明かりがまぶしい。

 シャインは左手を顔に当ててひさしを作り、何度もまばたきを繰り返した。


「まったく、お前のせいでひでえ目にあったぜ!」

「シャイン!」

 シャインの正面でランプを持ったヴィズルが心なしか左頬を腫らして睨んでいた。同時にロワールがヴィズルの横から飛び出して、シャインの左腕にすがりつく。

「ロワール……すまない」

 シャインは再びすすり泣きだしたロワールに、どう接しようか戸惑いながらしばしその場に立ちつくした。


「シャイン、いつまでこんなじめっぽい所にいる気だ。呆けてないで食料を早く出せよ。言いたいことはいくらでもあるが、とにかく今は何か食べる事が先だ」

 餓えて目つきだけが異様に光っているヴィズルが言った。

「ああ……食べ物ならこの部屋の棚の下にある、ダフィーだけだ」

「……なんだと……!」

 ヴィズルは悔しさに眉間をしかめ、深々とため息をついた。

「チィッ! しけてるな……でも、まあいい」

 シャインはそう言ったヴィズルが、いきなり自分の前に左手を突き出したのでそれに驚いた。ヴィズル自身も、どこか照れくさそうに見えるのは気のせいだろうか。


「一時休戦だ。こいよ。今、甲板で雨水をためている。ついでに、その垢まみれの顔と体を洗うんだな。今なら真水が使い放題だぜ」

「……」

 シャインが左手を動かすと、ロワールはそっとシャインから離れた。

 目の前に差し出されたヴィズルの手を取る。

 ヴィズルの顔に微笑は浮かんでいなかったが、その暗い色の瞳は穏やかだった。暖色の明かりを放つ、ランプが見せた幻影だったのかもしれないが。


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