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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第4話 碧海の彼方
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4-56 どれを選ぶか?

 時間だけがけだるく過ぎてゆく。

 ヴィズルが目を覚ましたのは、夜が明けてさらに時が過ぎ、太陽が一日で一番高い位置にくる頃だった。

 ヴィズルはシャインの艦長室にいた。濃紺の天鵞絨が張られた長椅子に座り込み、どっかと背中をそれに預け、目の前の応接机にブーツを履いたままの足を置いて、長々と太々しく伸ばしていた。


 丸二昼夜、何も食べていないせいか少しへこんだ腹の上には、手袋を外し褐色の素肌をさらした、しなやかな両手が組まれた状態でのっている。

 シャインの執務机の背後にある船尾の四角い小窓は、外に向かって開け放たれているが、風は相変わらずそよとも吹く気配がない。

 当然、室内にこもった熱気を少しでも追い払うために開けた窓だが、一ヶ月ほど閉め切られていた艦長室は埃っぽい空気に満ちていた。それに加えて、怒りのあまり床にばらまき踏み付けた、シルヴァンティーの甘酸っぱい葉の臭いはリンゴを連想させて、空腹感を強く意識させるのだった。


 よってヴィズルは小窓から茶葉を全部海に捨てた。

 踏み付けられずかろうじて無傷だった一箱だけを残して。

 ヴィズルはそれも捨てようかと思ったが、考え直して、再びシャインの机の引き出しの中にしまった。


 ぐ~きゅるきゅるきゅる。

 

 節操なく腹の虫が鳴く。聞こえ方によってはしゃがれた鳥の鳴き声のようにも感じる。

 ヴィズルは閉じていた目蓋をゆっくりと開けて軽く息をついた。

 怒鳴り散らしわめいたせいで、空腹時に訪れる何かいらいらした感情は、すっかり治まっている。

 たが今度は、誰しもそれを想像することを止められないように、ヴィズルはグローリアス号の船長室におさまり、よく冷やした東方連国産の赤ワインを飲み干したいと、そればかり考えていた。そんな自分に笑いがこみ上げてくる。

 現実問題何か食べたいし、よく冷えたワインも飲みたいのだが。

 さて、これからどうするべきだろう。

 ヴィズルは脳裏に浮かぶワインのことを今は考えから追い払いながら、再び集中するため目を閉じた。


 シャインはこうなることを想定して、食料と水がどこにあるか確かめていた。

 だから艦長室ではなく、あの小部屋にまっ先にかけこみ、閉じこもったのだ。


 今ヴィズルに与えられている選択肢は次の三つ。

 島に帰る事は諦め、シャインの要求をのんでアドビスと話し合う。

 拒否して餓死する。

 実力行使に移り、シャインを小部屋から引きずり出して、ロワ-ルハイネス号を動かすために彼を殺す。


 ま、二番目の選択は論外だろう。

 シャインじゃあるまいし、彼と意地を張り合って、その挙げ句、餓死するなんて馬鹿げて笑い話にもならない。


 残るは一番目か、三番目だが――。

 ヴィズルは組んでいた両手を解き、すっかりぱさついた銀髪に眉間をしかめながら、指の間にからみついた髪の毛を払った。

 再び腹の中の虫と鳥が鳴く。

「うるさい……」

 奥歯をぎりと言わせて唇を噛み締めるが、虫と鳥は鳴き声をあげる。

「……くそっ」

 ヴィズルは腕を抱え込むように両手を組んだ。


『アドビス・グラヴェールを殺した所で、君の目的は果たされない……』

『真犯人はのうのうと生き長らえて、君の事を笑うからだ。スカーヴィズも君に失望し、きっと浮かばれやしない』


 シャインの言葉が胸に突き刺さる。

 自分が信じていたすべてを否定する――その言葉が。


 脳裏に忘れようにも忘れられない、あの夜の出来事が浮かんでくる。

 闇そのものから現れたような、アドビス・グラヴェールの大きな身体。

 スカーヴィズの胸から抜いたばかりで、彼女の血が滴るブルーエイジの短剣が、樫の木のようなごつい手に握りしめられていたのを確かにこの目で見た。

 あの悲惨な現場を見ているからこそ、スカーヴィズを殺したのはアドビスしか考えられないというのに。

 それを否定することなどどうしてできよう?


 確実な証拠を見せろ。

 それを見ない限り、すべては塗り込められた嘘だ。

 真実を隠すために覆われた嘘の言葉だ。


 怖かった。

 幼かった二十年前の――あの夜。

 一度捕まえられたアドビスの腕から、死にものぐるいで逃げ出した。

 夢中になってガグンラーズ号の船尾に繋がれていた小舟に飛び乗り、船から一目散に離れた。

 無我夢中で小舟を漕ぐうちに、それは島の白い砂浜にたどり着いた。小舟を押し上げて渚から離し、そこで力つきて舟の中に倒れ、そのまま眠ってしまった。


 翌朝、小舟の中をのぞきこむティレグのひげ面を見た時、ヴィズルは黙ったまま彼のたくましい首筋にしがみついていた。ティレグはヴィズルをまるで荷物のように小脇に抱えると、島の裏手にある入り江に隠された小船まで連れて行ってくれた。

「みんな殺されちまった! みんな、アドビス・グラヴェールの野郎にな」

 ティレグの少し湿った汗とむっとする酒の臭いがする胸にしがみつきながら、ヴィズルは島の真っ白な砂浜が、黒ずんだ血にまみれ汚れているのを見た。

 見張りのグロッグが片腕を切り落されてうつ伏せに倒れているのを見た。

 グローリアス号で舵手をしていた、寡黙なラウルが背中から一太刀のもとに斬り捨てられているのを見た。ヴィズルの見知らぬ海賊たちが、体のどこかしらに大きな刀傷を受け、大地に己の血を吸わせ、血溜りの中で事切れている姿を見た。

 無情に照りつける陽の下で。

 島は自分の呼吸が聞こえるほど静寂に包まれていた。

 島は死に満ちていた。


 風に乗って何かが燃えたような臭いと共に、小高い丘に建つ石造りの城塞から、白い煙が上がっているのを見てヴィズルは再び泣いた。

 だが涙は一筋も流れなかった。嗚咽まじりの声しか出なかった。

 信じられない思いで胸が苦しかった。

 昨日まで島の浜では女達が漁に使う網を広げて大きな声で笑ったり、唄を歌いながらそれを繕ったりしていたから。

 ヴィズルは同い年ぐらいの子供達と、よくその網の下をもぐって遊んで、挙げ句の果てに破いたりするものだから、女達にしょっちゅう怒られていた。

 城塞のふもとでは掘っ建て小屋のような貧相なそれが数軒連なり、唯一の酒場が繁盛していて活気があった。時折島に立ち寄る密売人やまっとうな商人。実は海賊とぐるになっている海軍の軍人――。

 とにかく、海賊以外にいろんな人がいた。様々な人に可愛がられたり、時には悪戯がすぎて怒鳴られもした。

 この島と、月影のスカーヴィズが乗るガグンラーズ号での生活。

 それがヴィズルの知る世界のすべてだったのに。


 それらは一夜のうちに消え去った。

 ただ一人の男。あの男のせいで、何もかもが壊れてしまった。

 砂浜に築いた城が波を受けて崩れ去っていくように。


『俺は何が何でも力をつけて、アドビス・グラヴェールをこの手で殺す』


 その想いを抱き、エルシーア海軍からティレグと共に逃亡する生活を送りながら十五才になった時、ヴィズルは自分の決意を兄代わりであり、父代わりでもあるティレグに告げた。

『俺は再びエルシーア海賊を立ち上げて、アドビス・グラヴェールを殺す為にエルシーアに戻る』

 ティレグは酒を飲む量が以前より増え、酔っている時間も長くなったが、ヴィズルの言葉を餓鬼のたわ言とは受け止めなかった。

 彼は信じられないことに、あのブルーエイジの短剣をヴィズルに差し出したのだった。

 アドビスが持っていたそれをいつ取り戻したのか、ティレグは言おうとはしなかったが、その代わり別の事実を話してくれた。

『やはり自分の中にある血が騒ぐか? ヴィズル。お前は四百年の間、エルシーアの海で海賊をしてきた『月影のスカーヴィズ』一族の流れを汲む女の息子なんだから――これを持つ資格がある』

 ヴィズルはこの日から初めて、あのスカーヴィズを、尊敬していた船長ではなく、自分の母親として認識した。



 彼女の顔を思い出そうとしたことがある。

 ティレグに彼女が自分の母親だと告げられる前は、あの恐ろしい夜の記憶をできるだけ早く忘れようとした。忘れる努力をした。あまりにもあの光景は凄惨すぎていて、夜中何度も目を覚まし、闇に怯え、朝が来るまで一睡もできない日々を多々過ごした。

 その甲斐あって……すべてを忘れる事はできないが、二十年たった今、スカーヴィズの顔はどんな風だったのか思い出せなくなっていた。自分と同じような銀髪の持ち主だったこと以外は。


 ヴィズルはふとまどろみそうになり、思わず両手で目蓋をこすった。

 だが違和感を覚え指先を見つめる。

 どうしたのだろう。こすった指が湿っている。

「ふっ……」

 ヴィズルは再び両手を腹の上で組んで、頭を振った。

 証拠がない限り、誰が信じるものか。

 アドビス以外に誰が一体彼女を殺す?

 彼女を捨てたあの男以外に、誰が。


 ヴィズルは唇を噛みしめた。

 残る選択肢は二つ。

 島に戻る事を諦めてシャインの言う事を信じ、アドビスと話し合う事にする。

 もしくはシャインを小部屋から引きずり出し、船を動かす為に彼を殺す。


 腹がすき過ぎているせいか、乾燥した部屋の埃で喉がいがらっぽいせいか。

 だがそれらより甘い自分の思いに気付いて、その不快さにヴィズルは唇をきつく噛みしめた。


 俺は奴を殺せない。

 今は……まだ。


 シャインの命を守るように、ツヴァイスと交した約束のせいではない。

 シャインにはツヴァイスが言っていたように、最後の切り札としてまだ利用価値があるのだ。


 ツヴァイスが去り際にシャインの指輪を渡してくれた。それをアドビスに見せれば、彼の船をただ一隻にすることができると言って。

 半信半疑だったが、それはツヴァイスの言う通りになった。

 あの泣き虫のクラウス坊やが無事にアスラトルに着き、あの指輪を見たアドビスが、一隻でこちらに向かっている知らせを二日前に受け取ったのだ。

 ツヴァイスとの連絡に使っている、ヴィズルの愛鳥『ツウェリツーチェ』が、子供ならすっぽりと覆ってしまうほどの翼を広げて飛んできたから。

 かの鳥は人語を解し、簡単な伝言なら数回言い聞かせるだけで内容を覚えた。

 東方連国で手に入れたのだが、おそらくヴィズルより二十才以上、年上の彼女は、すらりとした首と、翼の先にいくにしたがって赤味が増す羽根を持った美しい鳥だ。

 そしてツヴァイスからの知らせの他にも、アドビスがアスラトルを発ったことを、見張りに当たらせている仲間の海賊船から報告を受けていた。だからあの男がただ一隻で、こちらに向かっていることは間違いない。


 ツヴァイスが言っていた事が本当なら――。

 アドビスが本当にシャインの身を案じているのなら。


『あの男がシャインを見殺しになどできるものか。私ですら、消し去りたい罪をシャインの存在で思い出してしまうのに……あの男にとっては、それ以上の思いがあるはずだ。いや、ないなど言わせない』


 まだシャインは手元に置いておかなければならない。

 アドビスに対抗する為の、最後の切り札として。


 ヴィズルは眉間を押さえてうつむいた。

 三番目の選択もこれでなくなった。

 ふっと、安堵にも似た息を吐く。

 シャインを殺さずにすむ言い訳が見つかって、何故かほっとしている自分に、ヴィズルはぎょっとして目を見開いた。

 馬鹿じゃないだろうか。

 不意に笑いがこみ上げてきて、ヴィズルは乾いた笑い声をあげた。

 自分の甘さに反吐が出そうだ。

 でも、どうしてもできないのだから仕方がない。

 シャインは殺したい男の息子なのに、どうしても憎む事ができない。

 外見や雰囲気が、アドビスとまったく似つかないせいだろうか。

 それとも、うっとおしいほどに他人には優しすぎる、その事に気付いてしまったせいだろうか。


『ヴィズル。君は君自身の目で、何が偽りで何が真実なのか……それを確認する義務がある』

 

 他人であるシャインに、どうしてこんなことを言われなければならないのだろうか。

 まったくもって屈辱だった。

 胸くそは悪かったが、ヴィズルは言い返さなかった。

『お前に何がわかる。何も知らないくせに』――と。

 言えなかった。

 炎上するファスガード号の甲板で対峙した時とは違う。

 ロワ-ルハイネス号で出会ったシャインは銃を手にしていた。

 シャインを牢から出した人間が渡したにしろ、シャインが奪ったにしろ、彼が手下の誰かと接触したのは間違いない。

 そして知ったのだ。

 自分で動いて自分で情報を集めて。それを得るためにきっと代償を支払って。

 二十年前のスカーヴィズ殺しで、ヴィズルが未だ知り得ない何かを。

『真実を』

 自分のためではなく、赤の他人であるヴィズルのために。


『でたらめじゃない! 俺はある人からあの夜の真相を聞いて……』


 悔しかった。

 まるで自分が、真実を知る為の努力を怠ったようではないか。

 完璧な現場を見てしまった故に、自分はそれがすべてだと思っていた。

 どうして――疑う事などできるだろうか。

 けれど。

 信じたくない内容だが、笑い飛ばせるものでもないと、今ならそれがよくわかる。

 シャインは本音を隠して建前ばかり言う人間だが、自らの命を奪われるかもしれない時に、冗談を言う愚かさは持ち合わせていない。

 今にも途切れそうな意識を保ちながら、こちらを見るシャインの瞳に余裕はなかった。


 嘘ではないと感じた。彼が言う『真犯人がいる』話は。

 ただ悔しかったのだ。すぐに認めたくなかったのだ。

 本当に他に真犯人がいるのなら、自分はただの道化師だ。

 あまりにもそれが悔しいので、素直にシャインの言う事に同意したくなかった。

 だから言ってやった。

 真犯人をでっちあげたのはアドビスだろう――と。


 心ない言葉だ。

 実に心ない言葉だ。

 温和なシャインを怒らせた結果が、このざまだ。


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