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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第4話 碧海の彼方
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4-51 心底に眠る想い

 ヴィズルが目を細めたかと思うと、喉に押し当てられていた刃が熱を帯びてくるのがわかった。まるで血が通っているように、刃自体が脈打っている。刃から伝わるその無気味な感覚に、シャインは肌が粟立つのを感じた。

「お前の強情さはよく知っている。だが今回は、俺の言う事を聞いてもらうぜ」

 ヴィズルの言葉にシャインは断固反論する。

「君こそ俺の言う事を聞いてもらう。アスラトルへ戻って、そしてあの人……アドビス・グラヴェールの話を聞くんだ」

 アドビスと聞いてヴィズルが銀の眉をひそめた。みるみる表情が険しくなる。

「今更奴とする話なんてないね!」

「いや、しなければならない。君は間違った話を今まで聞かされてきたんだ。だから、あの人自身の口から、本当の事を教えてもらうんだ!」

「……本当の事? 何だそれは」

 明らかにシャインを侮蔑する口調でヴィズルはつぶやいた。

「それはもちろん……スカーヴィズ殺しのことだ。あの人は、スカーヴィズを殺す事なんて、絶対にできな……」

 シャインの肩を押さえ、左手にブルーエイジの短剣を持ったヴィズルの紺色の瞳が瞬時に血色を帯びた。唇を噛みしめながら言葉を吐き出す。

「お前の指図など受けたくない」

 

 音が聞こえる。

 怒りの色に染まるヴィズルの目を見つめながら、シャインはそれに耳をすませた。

 金と銀をこすりあわせるような透き通った声。ささやき声にも似たそれは。

 すごく近くから聞こえてくる。

 ブルーエイジの短剣――あの短剣が、歌っている。


 一瞬耳を疑った。短剣が歌うはずがない。

 だが熱を帯びた金属の塊が襟飾りの上の素肌へと、シャインの喉にじりじりと食い込んでくる。

 それは表皮を切り裂き温かな血潮が滲み出て、三日月を象った刃へと伝っていく。

「うっ……」

 誰かが耳元で歓喜の声をあげながら、刃が生きているようにどくどくと脈動する。


「お前はなんでブルーエイジが、“青き悪魔”と呼ばれるか知ってるか? シャイン」

「……」

 シャインはどこか遠いヴィズルの声で我に返った。

 どうしたのだろう。日は昇っているはずなのに、辺りが夜の闇に包まれたように暗い。

「ブルーエイジなんて、今はどうだっていい……」

 大切なのはヴィズルに、スカーヴィズ殺しの真実を知るよう働きかけることなのだ。

 シャインはそう自分に言い聞かせた。

 だがヴィズルは余裕があるときに見せる、人懐っこい笑みを浮かべていた。

 目を細め、大きめの唇を歯を見せずに吊り上げて、うっすらと微笑みながらシャインを見つめている。


「そんなこと言っていいのか? シャイン。こいつは生きていて人の血を求めるんだぜ? そして魂をも喰らう。ブルーエイジが持ち主を破滅させる『呪い』は本当なんだぜ? なにしろこいつが持ち主を喰っちまうからな」

「そんな……馬鹿な」

 ヴィズルが低く笑い声を上げた。

 彼の話を肯定するように、シャインの喉に喰らいついた短剣の刃が、どくんと体を震わせた。


「こいつは可哀想に餓えてやがる。しっかり働かせたからな。そろそろ上質な魂を喰わせなければ……俺がこいつに喰われちまうんだ」

 シャインは唐突にヴィズルの言っている意味を理解した。

 刃が傷つけた首の痛みは感じない。だが何かが自分の中に入って来る。

 容赦なく皮膚を喰い破って入ってくる。

 それは狂おしいほど飢餓に満ちている意識。荒々しくシャインの心の中に入り込み、手当りしだいにあらゆる感情を貪り喰らい――それでもまだ満たされぬ思いが嘆きが、シャインの頭の中で不協和音のように鳴り響く。


 この感覚は――知っている。

 ロワールハイネス号の『船鐘』に閉じ込められたロワールを助け出そうとした時。

 あの時もシャインの心に干渉してきた数多の存在を感じた。

 この短剣に封じられている意識の数は『船鐘』とは比べ物にならないが、感じるのは恐ろしいまでの『飢餓』の心。


 ヴィズルの短剣に宿る『青き悪魔』ブルーエイジの意識は、自らが穿ったほころびから大きな穴を開けて無理矢理シャインの中に心の奥へと入っていく。

「……やめろ」

 唇をかすかに動かし青緑の瞳を見開いたシャインは、怒りを覚えながら声にならない声でつぶやいた。

 これ以上好き勝手に心の中をのぞかれるのは嫌だ。

 思い出したくない事を、再びほじくり返されるのも嫌だ。

「ならばロワールに命じろ。島に向かえと。お前がそう言えばやめてやる!」

 耳元でヴィズルが叫ぶ。

 それを聞きながらシャインはぼんやりとヴィズルの言葉の意味を考えていた。


 ロワールハイネス号の舵輪は今、ロワールの支配下にある。そして彼女はシャインの言葉にしか従わないし、シャインの指示なくては、船を目的地まで動かす事ができない。

 よってヴィズルは、ロワールハイネス号の向きを自分で変えることが不可能なのだ。

 シャインはじりじりと左手を上げて、短剣を握るヴィズルの手首をつかんだ。

 荒くなった息を吐き出して、けれど明瞭に拒否の言葉を呟く。

「断る」

 ヴィズルが顔を歪め小さく舌打ちした。

「馬鹿野郎……本当にこいつの餌食になるぞ、いいのか!」

 肩を揺すられるが、シャインはうなだれたまま返事をしなかった。

 ブルーエイジの邪悪な意識が、また一つ胸の奥に封じていた思いを掘り起こしていたから。

 それは流れゆく映像として脳裏にのぼり、シャインの目の前で再び見せつける。



 淀んだ黒い海面にちろちろと、赤い小さな炎が漂っていた。

 炎だけではない。船の残骸と思しき木片と、それにひっかかって白い何かが浮いている。シャインは黄色い明かりを灯すランタンをかかげ、その脇を雑用艇で通り過ぎながら手を伸ばす。

 一人でも多く助けたい。

 だがシャインがつかむ前に力尽きたそれらは、次々と黒い海に沈んでいくのだった。


『味方がいるとわかっていて、シャイン・グラヴェールはエルガード号を撃ったんだ。俺の兄貴が乗っていた、エルガード号を……』

『黙れ!』

 怒鳴り声と共に、男を殴りつける鈍い音が響く。男の叫び声が絶えた。

 埋葬地へ向かうため出入り口にいた遺族が、その騒ぎに驚いて皆立ち止まり、ひきずられていく男の為に道を空けた。彼等の顔にはあきらかに動揺した表情が浮かび、その視線は祭壇近くにいる白い礼装姿の海軍士官達に向けられた。


『どういうことだ?』

『エルガード号は海賊に襲われたんだろ?』

 五十名あまりの遺族達が祭壇の方へ、ぞろぞろと歩み寄って来る。


『生存者がいるのに、船を撃ったんですって?』

『シャイン・グラヴェールって、あの参謀司令官の息子だろう!』

『ここにいるのか?』

『いるんなら出てこい! どういうことか説明しろ!』


 事実を偽る気などなかった。けれど、遺族の前に出る勇気もなかった。

 視界が真っ白に霞む。

 どこにも逃げ隠れできる場所はない。

 どんなに深く心の奥底に封じ込めても、自分だけは知っているのだ。

 自分は――人殺しなのだと。


『……だから言ったのだ。式には出なくて良いと』

 白い世界の中で汚点のように黒い影が伸びる。

 シャインにそう言い残し、黒い影は背を向けてその場から立ち去って行く。

 シャインは右手を上げて、その影を呼び止めようとした。

 だが舌が口蓋に貼り付いて動かない。口を開けても息が吸えない。


『……』


 ――待って下さい。

 ただそれだけを言う事ができない。

 自分の何かがそれを止める。アドビスに対する恐れがそれを止める。

 言っても拒絶されるとわかっているから口にすることなどできない。

 アドビスが振り返ることなどない。

 自分のために。

 立ち止まることは……。




「……やめろ。俺に、構うな……」

 シャインは呻いた。ブルーエイジの歌声を聞きながら。

 邪悪な力の意識は、餌食となる人間のより暗い感情に喜びを感じるらしい。

 体が寒くて冷くなっていく。風が吹けば通り抜けていくような、空虚がじわりじわりと広がっていく。これが魂を喰われるという感覚なのか。

 自分というものを構築する血肉、感情、考え方、記憶――それらが次々と、神々しく輝く青白い光の中に吸い込まれて……。

 光の中から伸びた手が、シャインのさらなる胸の内に封じていた思いの扉に手をかける。

 もっとよこせと。

 その思いのたけを味わせろと。

 扉がこじ開けられる。

 シャインは唐突に顔を上げた。

 かつて感じたことがないほどの恐れが、そして怒りが、足先から脳天に一気にこみ上げてきて体が震えた。

 これだけは誰にも見せない。奪われたくない。


「……ぐっ」

 ヴィズルが歯を食いしばった。シャインはブルーエイジの短剣を離そうと、ヴィズルの手首を握る自分のそれに、力をきつくきつく込める。

 ブルーエイジの短剣が声を震わせてさらに歌う。

 シャインを嘲るように。

 新たな糧を見つけて高らかに――。


「それに触れるな!」

 シャインは大きく上半身をよじり、ヴィズルが押さえ付けている手を肩からふるい落とす。

 だが短剣はシャインの喉元に吸い付いて離れない。

 もっともっともっと――。

 ブルーエイジはついにシャインが一番大切にしまっていた思い出に、青白く細長い手を幾重にも伸ばした。



『そんなに知りたいのなら、教えてやろう。私がお前の母を死に追いやった。私があのひとを殺したのだ。だから彼女の事を聞かれるのは、非常に不愉快だ。けれど……』

 ベッドの傍らへ膝をついたアドビスが、そっとシャインの額に手を触れ、節くれたごつい指で髪をすいていく。


 その時、アドビスが何かをシャインの手の中に握らせた。

 冷たい金属の輪の感触がする。――指輪。


『今回だけは私の負けを認めよう。リュイーシャの形見だ。お前が持つがいい。だが、二度とこんな手が、私に通じると思うな』


 きつい口調とは裏腹に、触れているアドビスの手はとても温かかった。

 あの冷たいワイン蔵へ引っ張っていった時のような、荒々しいそれとはまったく違う、大きくて優しい――父親の手。



「――!」

 シャインは短剣を持つヴィズルの手首を掴んだ。

 それをじりじりと自分の首から離す。

『思い出させるな。一瞬でも、そう、思ったことを』

「ぐっ!」

 ヴィズルが小さくうめき声を上げた。

 シャインは構わずヴィズルの手首を握り締める手に力を込めた。

 ブルーエイジがすすり哭いた。

 赤い筋がついたシャインの喉元から短剣が外れる。

 短剣がすすり哭く。

 己の飢餓を満たすための上質の糧を、目前で取り上げられて。

 シャインは無意識のうちに体を前にのめらせ、ヴィズルが後ろによろめく程の力で、彼の手首をつかんだ左手を振り上げていた。


『あの人を、父親だと思ったことを』


「くそっ!」

 ヴィズルが上半身を大きくのけぞらせてたたらを踏む。一方シャインは、前方へ体が傾く勢いを止めることができずに、彼の足元に倒れた。

 痛い。

 甲板に打ちつけた右肩が腕全体に衝撃を伝えてしびれている。

 シャインは大きく肩で息をしながら、すぐさま目を見開いた。

 先程までの霞がかかったような、夢でも見ていたような、ぼんやりとした感覚は消え失せている。


「戻れって言うなら戻るから。だからこれ以上シャインを傷つけないで!」

 震えているが、毅然とした声が甲板中に響き渡った。

「ロワール」

 シャインは左の肘を動かして上半身を持ち上げた。

 夕焼け色の鮮やかな髪が目の前で揺れて、体を起こしたシャインの肩を、ロワールが庇うように抱き締めている。

「……ロワール、大丈夫だよ」

「シャイン」

 ロワールが大きく水色の瞳を見開く。彼女の辛そうな表情は見たくなかった。

 シャインは未だ乱れる息を整えながら、ぐずぐずと哭き続ける短剣を左手で握りしめているヴィズルを見据えた。

「大丈夫だから、ヴィズルの要求に従うな」



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