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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第4話 碧海の彼方
162/332

4-50 帰路の航海で

 これは驚きだ。

 ロワールハイネス号の艦長室に一ヶ月ぶりに戻ったシャインは、しばし部屋の入口で立ったまま中を眺めた。

 ロワ-ルハイネス号は一時ヴィズルの手下が乗り込んでアジトの島まで航海しているはずだが、部屋の中はどこにも荒らされたような形跡がなかった。

 金目のものなど最初から置いてはいないが、シャインは長椅子と机、肘掛け椅子を並べた応接家具の間を擦り抜け、自分のどっしりした執務机の前まで歩いた。

 ずっと部屋は閉めきられていたのか、息を吸うとほこりで鼻がむずむずする。

 机の上にはうっすらと白くて細かいそれが積もっている。念のため引き出しを開けて中を確認してみるが、なくなったものはない。ただ右側の一番下の、鍵をかけていたそれには、鍵穴に無数の引っ掻き傷がついていた。この引き出しには海軍の命令書などをしまっているのだが。


 シャインは艦長室の向かって左側にある自分の寝台へ向かった。ここも特に物色されたあとはない。あまり横になっていない寝台も、ちゃんと掛け布団がたたんだままになっている。

 シャインは寝台の枕の下を探り、数個の鍵がつけられた鎖を見つけて安堵した。それを引っぱりだし、小さな小指ぐらいの長さの鍵を選ぶ。そして艦長室に戻り、執務机の施錠を外した。

 引き出しの中には濃紺色の表紙がつけられた書類入れが入っている。それを取り出してシャインは、一番最近の任務だったノーブルブルーに連絡文書を届ける命令書を探した。

 誰かがこれを見たのは間違いない。書類の順番が違うのものになっている。

 けれどロワールハイネス号が奪われたのは、すでにノーブルブルーの待機している海域に到着した後なのだ。海軍の動向を探ろうとしたのだろうが、この書類に重要性は全くない。


 シャインは書類入れを再び引き出しに戻し施錠すると、右舷側のクローゼットから真鍮製のランプを取り出した。

 それに火を着けて、部屋から出る。目の前の階段は上甲板に出るもので、昇ると船尾の後部ハッチに出られる。シャインはちらりとそれを見上げてから、左手にランプをかかげて前方を見た。

 外はすっかり日が昇って明るくなったが、窓がない下甲板は薄暗いままだ。

 シャインは天井に頭をぶつけないよう、腰をかがめて船の中央部まで慎重に進むと、ランプの持ち手を口にくわえて、更に下層部へ降りる梯子に体を滑らして行く。

 下層部は積荷を入れる船倉が大半を占めている。艦長室よりもずっとカビ臭く、木材のすえた臭いが鼻についた。下層部には甲板や錨鎖庫に格納されている錨、鎖についた海水が流れ込み、汚水として何時も一定の量が貯まってしまう。それらが放つ悪臭は乗組員の健康を脅かし、病気を流行らせる元になる。

 近いうちに換気をしなければならない。

 シャインはたまらず小さくくしゃみをして、眉をひそめながら傍らの樽の上にランプを置いた。ランプのなげかける光の中で、天井まで積み上げられた大小の樽が浮かび上がる。


 シャインは側面に栓のついた樽に近付いた。白いチョークで『水』と書いてある。それを抜くと、木の臭いが強く発せられる濁った液体が流れ落ちた。

「やっぱり駄目になってるな」

 シャインは再び樽に栓をした。ここにある水樽は、ヴィズルの手下たちが自分で入れ替えない限り、一ヶ月以上も前のものなのだ。

 他の樽を数個確かめてみたが、どれも黄色く濁った臭いの強い液体になっている。シャインは一縷いちるの望みを託して、船倉の反対側に並べられている樽を確認しようと振り返った。

「……」

 十数個の樽が船壁に沿って並べられていたはずだが、それらは嵐の海で船が揺さぶられ、その衝撃でばらばらになってしまったかのように足元の床に転がっていた。すべてぽっかりと開いた口を見せて。

「……海賊達め」

 シャインは大きくため息をついて、かぶりを振りながら樽を見つめた。

 こちらの樽には三種類の酒が入っていたのだ。一日一回水兵達に配給する並のランクの赤ワインと、荒天時のとき体を暖める生のクトル酒。年若い士官候補生でも飲める甘めのリンゴ酒。

 ロワールハイネス号を持ち帰る時、ヴィズルがどんな指示を出したか知らないが、酒に目のない海賊達は、こぞってそれらを飲み干したに違いない。

 酒樽の奥には塩漬け肉やパンなど食料をいれた樽があるが、こちらも大半が口を開いて転がっていた。何も手をつけられていないものもあるが、蓋を開けたとたん強い腐臭がただよってきて、シャインは何度か咳き込んだ。

 船倉の水と食料はすべて駄目だ。

 シャインはランプの柄を口にくわえて、先程降りてきた梯子を再び昇った。

 後は船首にある調理室に、どれほどの物が残っているかを見なくてはならない。


 下甲板に戻ったシャインは大船室を通り過ぎ、食堂を抜け、その前の右舷側の小部屋――調理室に入った。中は火を起こせるかまどが一つと、壁に鍋などがかかっている。調理室のかまどの隣には、船倉から持って上がった食料や水を一時的に置いておく小部屋がある。夜中など水兵達が盗み食いをしないよう、この小部屋には小さいががっしりした鍵がかかっている。

 シャインは航海服のポケットを探り、先程取り出しておいた鍵のついた鎖を引っぱりだした。


「頼むよ……。いくら三日でアスラトルに帰れるといっても、風がなくなってしまったらそうはいかない。そうなったら日干しだ」

 シャインは祈るような気持ちで、小部屋の鍵を外して中に入った。

 良い予感はしていた。小部屋の鍵は手を触れられていなかったから。

 人が一人壁にもたれて座れるぐらいの狭いその部屋は、向かい合うように棚が天井までそそり立ち、そこに二十本ほどクトル酒の瓶が横向きに並べられていた。シャインは舌打ちしつつ、他に飲み物はないか棚を見回した。クトル酒はアスラトルの丘陵地帯で育つククトールという植物の茎を煮詰め、琥珀色の糖蜜状にして、それを発酵させたのち蒸留して作る強い酒なのだ。

 だが他に見つかったのは、赤ワインの瓶が一つだけだった。水の代わりになりそうなものはこれらしかない。


 シャインはかがみこんで今度は棚の下段を見た。薄い鉄製の、小脇に抱えられるぐらいの大きさの箱が四個並べられている。

 箱には蓋の部分に赤色の細長い紙で封がしてある。これが破れていない所からみて、未開封だと分かる。

「食料はこのダフィーのみ……か」

 シャインは食料があって安心しつつも、ついにこれを食べる事になろうとはと、皮肉めいた笑みを思わず浮かべた。


 ダフィーは麦をひいた粉に水と塩と少量の油を混ぜ、何度も堅焼きすることにより水分を飛ばし、未開封なら三ヶ月はもつ非常食で、常に常備しておくことが義務付けられている。ただし、好んでこれを食べたいと言う船乗りはいない。とにかく堅いのだ。一つの大きさは小口大になっているが、とても歯で噛むことなどできない。食べる時は水や酒でふやかすか、ダフィーを布でくるんで、上から金づちで砕く。砕いたそれをスープなどに入れれば旨味が増すが、ダフィーそのものには味がほとんどないので、まったく美味しくない。

「……これもアスラトルに戻るまでの辛抱だな」

 シャインは小部屋から出て調理室を後にした。

 取りあえず食料の心配はない。ダフィー三昧だが。


 船内を一通り点検して何の異常もないことを確認した時、島から離れてすでに二時間以上が経過しようとしていた。

 シャインは艦長室に立ち寄り、ランプを机の上に置いて火を消した。

 ロワールにずっと舵を任せっきりにしている。そろそろ代わらなければ。

 何だかんだ言うが、ロワールも休む時間が必要だ。

 シャインは航海服のポケットを探り、ふと思い出して、ストームからもらった銃を取り出すと、空になった弾倉に予備の弾を詰めた。

「ヴィズル……目を覚ましたら、何て言うかな」

 シャインは迷った末、再び銃をポケットにしまいこんだ。

 海に出ている以上どんなことが起きるかわからない。無事にアスラトルへ帰り着くまで、気を抜くわけにはいかない。


 シャインはうつむいていた面を上げた。滑り落ちてきた前髪を左手で払いのけ、艦長室の扉を開けて外に出る。正面の階段を昇って後部ハッチの扉を開く。

 外の白く輝く光が、暗がりに慣れたシャインの視力を一時奪った。まぶしさに目を細め、しばたきながら、シャインはそろそろと外へ足を一歩踏み出す。

 だがそのシャインの肩を、突然誰かが荒々しく掴んだ。

「なっ……!」

「シャイン!?」

 頭上から聞こえたロワールの叫び声で、シャインは目を見開いた。

 シャインの正面に誰かが立っている。

 切れ長の目を半眼にして睨み付けている、銀髪の、褐色の肌をした精悍な男。

「ヴィズル……!」

 目が合ったと思った瞬間、ヴィズルはシャインの肩を物凄い力でつかみながら、後部ハッチの壁にシャインの体をぶつけるように押し付けた。

 肩と背中に衝撃が走り息が詰まる。

 シャインは口を開こうとしたが、それは何時の間にかヴィズルの手に戻った、あのブルーエイジの短剣によって阻まれた。

 背中を後部ハッチの壁に押し付けられた時、腰に差していた短剣をヴィズルが素早く奪ったのだ。

 美しいまでに光り輝く刃はシャインの喉元へ、水平に押し付けられている。


「ちょっと! シャインを離しなさいよ!」

 叫びながらロワールが舵輪の傍らから、真下の甲板に舞い降りる。

「ロワール、邪魔するなよ」

 低く唸るようにシャインを睨んだままヴィズルは言った。

「すぐ島に引き返せ、シャイン。殺されたくなければな!」

「なんですってー! 冗談じゃないわよそんなこと!」

「ロワール、黙っていないと奴の首をかき切るぜ」

 ヴィズルの言葉に、ロワールは両手を胸の前にあわせて、それをぎゅっと握りしめた。

「島には戻らない。君は俺と一緒に、アスラトルへ行くんだ」

 喉元に押し当てられた刃に違和感を覚えつつ、シャインは口を開いた。

「何だと?」

 ヴィズルは不快さを露につぶやく。

 シャインは黙ってヴィズルを見つめた。

 彼の要求には応じられないし、応じる気もなかった。何があっても。

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