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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第4話 碧海の彼方
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4-46 生きる力

 その光を目にした時とほぼ同じく、シャインは突如襲われたその感覚に驚き、思わず舵輪にすがって体を支えた。そうすることでかろうじて甲板に膝を付くことだけは免れる。

「……くっ……」

 光を目にした途端、まるで両肩をがっちりと押さえ込まれるような重圧感がシャインを襲ったのだ。

 戸惑いつつも、シャインはロワールハイネス号の船首から突き出た舳先が、左右から迫る崖と崖のちょうど真ん中にくるように舵輪を回して、船の向きを修正する細やかな作業にかかった。

 シャインは額から流れてきた汗に目をしばたき、ふと前方の光景が一変したことに気が付いた。舵は最後尾の船尾にあるため、シャインの目の前には三本のマストが、一直線に連なるなるように見えていた。だが今は、まるで船首の舳先に立っているように、前を塞ぐ障害物が一切なく、両側から迫る崖の黒い岩肌と、その隙間から夜の海が見えるのだ。



 海賊達の怒気を含んだ声も銃声もシャインの意識からすでに消え去っていた。

 彼等の存在は今の脅威ではない。

 シャインの敵は、波に侵食されて鋭利な肌を向ける、左右両側の崖と波の合間にのぞく暗礁だ。

 船は前後にはたやすく動くが、左右に動くことができない。幸い今はロワールが船を前進させているので、帆走時のように、風向きを意識する必要はないが、水路に入り込む波の動きに気を付けなければ、あっという間に船は左右どちらかに寄せられて、岩にぶつかり穴が開いてしまうだろう。


 シャインは崖と崖の間にできた、この短くてけれど長く感じる狭い水路に自らの意識を集中させた。

 脳内に理想的な針路を描く。

 するとロワールハイネス号は、舵輪を回す前に緩慢ながら、しかし確実に月の光が降り注ぐ外海に向かって、シャインの望む方向へ進んでいくではないか。

「進め、進め!」

 シャインと再会したうれしさか、少しはしゃぎ気味のロワールの声に合わせて船が前進していく。

 シャインの視界に始めは遠く、洞窟のように見えた水路の出口が、小さく見えた海が、徐々に大きく間近に迫ってくる。それにつれて、水路に入り込む波が、ロワールハイネス号を左右に、あるいは前後に激しく揺さぶりをかけてきた。


「こんなところで座礁してたまるか……」

 予測できない波の動きが、片手で舵輪を握るシャインの体勢を崩させる。

「ロワール、波が一旦沖へ引く時に、船を前進させるんだ」

 シャインは舵輪を回すことより、自分が船をどう動かしたいか思うことの方が、がぜん船の反応が良いことに気付いた。

「面白いね。ホントに」

 笑う余裕なんかまったくないのに、心の中から熱いものが込み上げるような、久しく忘れていた感情が満ちてくる。

 

 

 崖の下のごつごつした岩場に波がぶつかり、真っ白な波の花が水面に舞うのを見て、ロワールが叫んだ。

「もう少しで水路を抜けるわ! 横波が強いから気をつけて。シャイン!」

 ロワールハイネス号は島の磯場に砕ける波を乗り越えるように、細身の船体を崖と崖の間から滑り出した。

 ロワールにとって、一ヶ月以上ご無沙汰だった広大な海へ。

 ロワ-ルの警告のおかげで、シャインは船が磯の方へ再び寄せられ、岩場にぶつかる危険に備えることができた。ロワールが前進する力を継続してくれなければ、そこから脱することは難しかったかもしれない。


 進め。

 もう一度、ロワールと海を往くために。


 外海に出たことで波はうねり、舵輪の柄を回すのにも力がいる。船尾の舵に海草が絡み付いてしまったようにそれがとても重く感じる。

 精神力でシャインは舵輪を回す。自分が望む方向に船が応える感覚がとても楽しい。

 そう。処女航海でロワールと共に船を動かした、あの時以来の感覚。

 

 シャインは乱れた呼吸を整え、後ろを振り返った。

 黒い崖と岩に覆われた島がそこにあった。崖の上にある山かと思った黒い影には、ぽつぽつと赤い火が瞬いている。

 数十分前まであそこの城塞にいたのが嘘のようだ。


 シャインは左手の裾で額に浮いた汗を拭い、南から吹いてくる潮風に、解いた髪がなびくのにまかせた。

 やはり、気持ち良い。

 海に出て船上で風を感じるのはとても好きだ。

 風にもいろんな種類があるが、なぜだろう。この海域の風は優しくて、自分に好意的な気がする。

「ロワール、もう充分だ。帆を上げて帆走に切り替えよう」

 ちかちかと、船首に灯っていた青白い光が応えるように明滅した。

「わかったわ」

 幾分疲れたようなロワールの声と共に、それはふっとかき消える。

 途端、シャインは両肩を押さえ付けていた圧力がすっと抜けていくのを感じた。

 自分の体が重力に引っ張られるような、予想もしない重さが足にかかったので、今度は思わず舵輪から手を離して座り込んだ。

「……」

 筋肉を酷使した時に感じる、強い疲労感だけが残っている。


 ――戻ってきたんだ。


 シャインはふと先程まで感じていた、あの不思議な感覚――自分がロワールハイネス号であったような感覚を思い出し、小さく肩を震わせて微笑した。


「シャイン、大丈夫?」

 座り込んだシャインの傍らに、ヴィズルの短剣を手にしたロワールが立っていて、心配そうに顔をのぞきこんでいる。

「――忘れていた。君に意識を合わせた後は、三晩連続で徹夜したような気分になるってこと」

 シャインは出かかった欠伸を噛み潰し、ロワールから短剣を受け取ると無造作に航海服のベルトへ挟んだ。

「それはお互い様でしょ。私だって自分の力で船体を動かすのは疲れるんだから」

 シャインはぎくりと身をすくませた。

「ごめん」

「ううん。私はどうだっていいの。ずっと『船鐘』の中でじっとしていただけだから。でもあなたは違う」

 ロワールはシャインの隣にそっとしゃがみこむと両膝を付いた。

 船の精霊としてまだ若いロワールは、どうあがいても外見の上限年齢が十代止まりだが、静かにシャインを見つめるその瞳は、人外の者が備える神秘的で無垢な輝きがある。水のように透き通ったその内面から溢れる美しさに、シャインはいつしか魅入っていた。



「ごめんなさい」

「えっ」

 ロワールはシャインの顔をうかがうように、そろそろと手を伸ばした。

 すっかり薄汚れた白い布で巻かれた、シャインの右手に触れようか、どうしようか一瞬ためらう。結局ロワールは透ける両手をシャインの腕にのせたが、うつむいて、長い紅髪を揺らし首を振った。

「シャインは私に生きる力を与えてくれるのに、私はあなたの痛みを和らげることができない。あなたがどんな思いでここまで来たか、それをちゃんと感じるのに、あなたが受けた苦しみを癒すこともできない」

 シャインは黙ったまま、透けるロワールの手に自分の左手を重ねた。

 肩を小さく震わせて、ロワールが顔を上げる。彼女の潤んだ瞳に、シャインはそれをとがめるように小首を傾げてから静かに微笑した。


「ありがとう。その言葉で俺は君に救われているよ」

 ロワールは納得がいかないように、今度は大きく首を振った。

「そんなの嘘よ。言葉だけで痛いのや辛いことは消えない! 私は人間じゃないけど、それぐらいわかるわ!」

 シャインは困ったように眉間を寄せた。どう言えば彼女に伝わるだろう。

 体の傷や心の傷は、時間はかかるが、何時か癒えるものだ。シャインはそう思っている。

 大切なのは……。

「ロワール。俺が嘘をついているかどうか、それは君が一番よく分かっているはずだ」

「そ、それは、そう……だけど……」

 シャインの腕にすがりついたまま、ロワールは端切れの悪い口調でつぶやく。


「うれしいことや楽しいこと、辛いことや嫌なこと……それらの思いをすべて受け止めて、気持ちを返してくれる人が俺にはいない。それがどんなに寂しいことか、君にはわかるかい?」

「……」

 戸惑いがちに伏せるロワールの瞳を見つめながら、シャインはそっとささやいた。


「俺の気持ちを知ってくれる者がここにいるから、俺はどんなことがあっても前に向かって歩いていける。その力を与えてくれたのは、他ならぬ君だよ。レイディ・ロワール」



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