4-44 ただ一つの想い
何度目かの呼び掛けで、ヴィズルの閉じていたまぶたが震え紺色の瞳がシャインを射た。一瞬戸惑い細められたその目は、自らの状況を理解した途端、突き放すような冷たい敵意に満ちていく。
再び怒りを露にしたヴィズルの表情にシャインは身を強ばらせたものの、彼の青ざめた唇がかすかに紡ぐ言葉は聞き漏らさなかった。
「……やはり、できないのか。この偽善者が」
罵りたければいくらでも罵ればいい。
偽善者だろうが憶病者だろうが度胸がないとか、そんなこと今はどうだっていいのだ。
シャインはヴィズルの側に膝をついたまま、憎々しげに見上げる彼を黙って見つめた。
「勘違いしないでくれ。俺の目的はロワールハイネス号を取り戻すことであって君の命じゃない」
甲板に足を伸ばして体を横たえたままのヴィズルが小さく舌打ちした。
その左手には魔鉱石ブルーエイジで作られた三日月の形をした短剣がしっかりと握りしめられている。
けれど動かそうとする気配はない。
シャインは手を伸ばしてヴィズルが握りしめる短剣を取り上げた。
指に力が入らないのか、あっさりとそれはヴィズルの手から外れた。
射るような目線だけがシャインへ抗議の意志を伝えてくる。抵抗しようにも、体がいうことをきかず、ただなすがままの状態が悔しいのだろう。
「これを使って何をやっていたんだ? どうやら君にはしばし休息が必要のようだが」
「……うるさい。それを、返せ」
額に脂汗をにじませて、肺から空気を押し出すようにヴィズルが唸る。苦しくても余裕だけは見せたいのか、口元には歪んだ笑みを浮かべている。
シャインはヴィズルの腰のベルトに手を伸ばし、あざやかな青色と、絡み付く植物の文様を銀で彩った短剣の鞘を取り上げた。ふと、ティレグが語ったスカーヴィズ殺しの事を思い出す。スカーヴィズはこの短剣でティレグに胸を刺されて死んだ。ブルーエイジは持ち主に破滅をもたらすという。あの有名な呪いは本当なのだろうか……。
月光を受けてきらりと輝く、曇り一つない美しい刃には、ただの一滴も血で穢れていないようにみえる。複雑な心境でシャインは短剣を鞘に収めた。その様子をヴィズルの目が焦がれるように追っているのを意識しながら。
「返してもいいが条件がある。ロワールを解放してくれ」
ヴィズルが大きく息をつく。依然、彼の視線は短剣に注がれており、シャインは無理矢理自分のそれを割り込ませて語気強く付け加えた。
「ここで、今すぐに!」
「……」
一時周囲は船腹や暗礁にぶつかる波の音だけが響いていた。その静けさを破るように、ヴィズルの押し殺した含み笑いが木霊する。
「は……はは……」
苦しいヴィズルの笑い声はしばらく続いた。
「お前って奴は……船虫一匹殺せないような顔をしてる……くせに」
足を縮めて背中を丸める。
「は……嫌だね。冗談じゃ……ない」
シャインとてヴィズルが今、著しく体力を消耗しているのは分かっている。
弱っているヴィズルは、ロワールを解放することができるのだろうか?
しかしここにいつまでも留まることはできない。ティレグの追跡がかかる前に、何が何でも船をこの崖の隙間から出して、アスラトルに帰らなくてはならないのだ。
ヴィズルが青白い顔のまま、けれどシャインの心境を察して楽しそうに鼻で笑う。
「残念、だったな。お前の頑張りも……ここまで……だぜ」
「ヴィズル……俺は」
ヴィズルはなおも不敵な笑みを浮かべて、唇をかすかに動かした。
「何? 聞こえない」
シャインは身をかがめてヴィズルの口元に耳を寄せ、やっとその言葉を聞き取った。
『もう……遅い……』
「……何だって?」
思わず顔を上げたシャインは、ヴィズルの言う事が信じられず彼の顔をまじまじと見つめた。だがヴィズルがシャインを見返す事はなかった。
シャインを拒否するように、すでに意識を手放してしまっていたから。
ヴィズルは疲労感からくる深い眠りに陥ったのか、先程より安定した呼吸を繰り返している。
シャインがそんなヴィズルの様子を茫然と眺めていたのは、ほんの短い時間だった。すぐさま立ち上がり、視線を鐘楼へ向ける。波をかたどり、それをアーチ状になるよう向き合わせた鐘楼には、うっすらと埃が積もった銀色の船鐘がぶら下がっている。
船の精霊が宿る、『魂の器』が。
シャインの足は鐘楼へと歩き出した。
月の光を受けて冷たく銀色に輝く『船鐘』を見据えながら。
俺に、できるだろうか。
ロワールを取り戻すことが――。
自分はヴィズルのような「術者」ではない。
けれどロワールを想う気持ちは誰にも負けない。
沈黙を守る船鐘からは、シャインが感じたことがないくらいの不穏な気配が漂っている。
そこからひたひたと、身も凍るような冷たい空気が流れ出ている。
『俺にできることは、ただ一つ』
シャインは船鐘の前に歩み寄るとその場に膝をついた。シャインの顔よりやや小さめの銀の船鐘に目線を合わせる。鏡のように滑らかだった鐘の輝きはすっかり見る影もなく失せている。表面を磨いていないため、銀が黒ずんでしまったのだ。
シャインは両手で鐘を包み込むようなイメージを頭の中で描き、左手をゆっくりと伸ばした。
金属特有の無機質な冷たさが、手のひらから直に伝わってくる。
シャインは軽く呼吸を繰り返して、そっと瞳を閉ざした。心を海の底を行くように、深く深く沈み込ませ、何事にも動じない静けさへ導いていく。
『今から君の所へ行く』
母は風を操る『術者』だった。
けれどシャインにその力は受け継がれなかった。
その代わりかどうかはわからない。
術者ではないが、何故かシャインは幼い頃から、船に宿る精霊達の姿を見る事ができた。
それがどうしてできたのか、今なら何となくわかるような気がする。
それを自分が望んだからだ。自分が思っている以上の強さで望んだからだ。
シャインの存在を疎ましく思っているくせに、決して自由にさせてくれないアドビスや、優しいけれど、母親のことが絡むといつも誤魔化し、本当の事を教えてくれないリオーネ。
なんとかアドビスとの縁故を作ろうと、こちらの都合も構わず近寄ってくる大人達。貴族だか富豪だか知らないが、断ると彼等はみな態度が豹変し、殴られて怪我をしたこともある。
士官候補生時代も似たようなもので、船に乗り合わせた同じ年の候補生達から、シャインがアドビスの息子であるために、艦長にひいきされているのだろうと言い掛かりをつけられたりもした。
こんな人の嫌な面ばかり見てきたせいか、子供の頃のシャインは、他者と関わる事が本当に嫌で恐ろしかった。
だからこそ望んでしまったのだろう。
自分に利害を求めず、うわべだけの付き合いじゃない友人の存在を。
傷つく事を恐れ、人と関わりを持つ事を拒絶する自分に、それを望む資格がないのはわかっていたけれど。しかし、一人で生きる孤独感に、耐えられるほど強くもない――。
そんな日々に、苦しくてもがいたシャインの手を取ってくれたのは、人ではなく、人の優しい想いで命を与えられた存在である、船の精霊だったのだ。
『――俺にできる事は、君の存在を強く想う事。そして、共にあることを願う事』
シャインは目を閉じたまま、そっと船鐘に額を寄せた。
『例えば、エルシーアの碧海を映したその船体が、白い波飛沫を空に舞わせ、風を一杯に受けて、陽の光に帆をきらめかせながら走る君も――。
空一面を真っ赤に染めて、すべてが黄昏の光に満ちた海で、その色より鮮やかな髪を揺らして振り返る君も――俺は今はっきりと心に描く事ができる』
『もう一度、俺は君と共にこの海を駆けたい』
『君が許してくれるのなら、どうか俺の呼びかけに応えて欲しい』
『君の往く道が暗いのであれば、出口を見失ってしまったのなら、俺は両手を伸ばし、光を掲げ、君をあらんかぎり呼び続ける』
『無駄よ』
何も見えない漆黒の闇の中から声がした。
否。
闇だった空間には徐々に青味を増した光が満ちている。
シャインを取り囲むように、じわじわと、その気配が近付いてくる。
『あの娘はもういない。消えてしまった』
『嘘だ』
途端、ざわざわとした笑い声――数人ではない数多のそれがシャインの頭上から降り注いだ。
『いまいましいあの娘』
『我らの意思を外へと出さぬように立ち塞がりおって』
『でも今はもうおらぬ』
『消えていった』
『たった一人で、我らを抑えようなど無駄な事――』
あらゆる想いを否定し、押しつぶし、消し去ってしまう敵意――。
それらがシャインをぐるりと取り巻いていた。
『彼女は――ロワールは消えていない!』
シャインは自分を見下ろすように輝く青い光に向かって叫んだ。
『ロワール! どこだ。俺はここにいる!』
額と手に当たる鐘の冷たさが増した気がする。まるで空気中の水分までもが凍りつくような冷気がそこから流れてきて、体が急に動けなくなった。
けれどシャインの意識は闇の中の一点に向けられていた。
頭上に光る不気味な青い光とはまた別のそれに。
初めはただの点だった。しかしそれは朧げな影となり、ゆらゆらと不安定に揺れながら、見覚えのある小柄な人の形を取り始めた。
息も凍りつく冷気の中でシャインは口を開いた。期待に胸が熱くなる。
『そう……そうだ。こっちだ!』
人というにはあまりにも不安定な存在のそれは、じりじりと、けれど迷う事なくシャインの呼びかけに応じるように、闇の中をこちらに向かって近付いてくる。
ただその道は平坦ではないのか、あるいは何か行く手を遮るものがあるのか、霞のような人の形をとったそれは、今にもかき消えそうな明滅を繰り返しながらも、確実に前に進んでいる。
ざわざわと声が再び響いた。
『あの娘を呼び覚ますつもりか』
『あの者は……消えたはず』
シャインは思わず手を差し伸べた。
右手は今使えない事も忘れて前方へ差し出していた。
けれど立ち上がることはできなかった。
いつの間にかシャインの膝まで氷がびっしりと張りつき、地面に固定されていたからだ。
足は動かない。
でも彼女の――ロワールの形を帯びたそれは、シャインの方へ向かっている。
非常に緩慢な動きだが、一歩一歩、近付いてくる。
『もう少しだ。俺は君の所へ行く事はできないけれど、君の前から消える事はない!』
差し出した両手から白くて淡い光がいつしか灯り、始めはほんのりと、そしてだんだんその強さを増して溢れてくる。
『ありえぬ』
『……これ以上は危険だ』
『止めさせろ』
『はっ!』
シャインは両目を見開いた。
頭上からぞっとするような敵意に満ちた青い光が襲いかかる。
『あの娘の記憶を呼び覚ます……お前から取り込んでやる!』
幾重にも広がる水にも似た青い光がシャインを飲み込む。
その質量に息ができない。
同時にシャインは頭の中が真っ白になるのを感じた。
真っ白というか、唐突に、ロワールの記憶がごっそりと抜け落ちたのだ。
『……嫌だ……』
胸の奥に風が通り抜けた。
シャインはそれを必死で捕まえようと手を伸ばす。
理由もわからない恐ろしいまでの空虚感に体が支配されていく。
これは、何だ?
胸が、心が、痛い――。
その耐えがたい痛みのせいか。
シャインは定まらない視界をともすれば朦朧とする意識で前方を見つめた。
『――』
誰かに呼ばれた気がした。
よくわからないが、何かがこちらへ近付いてくる気配がする。
金色の幻――?
どこか温かな気配を伴ったそれは光の風となって、シャインを取り巻く青い闇へ向かっていった。
ざわめく頭上の悪意を持った気配がその金色の光に照らされると、彼らは驚愕の声を上げた。
『諦めないで。想いとはあなたから溢れるもの。あなたの心から生み出されるもの』
シャインの耳に誰かの声が囁いた。
『さあ、手を伸ばして。呼びなさい!』
シャインは金色の光が胸に空いた隙間へ入り込むのを感じた。
脳裏に浮かび上がるのは、黄昏の中で紅の髪を潮風に靡かせ、自分に微笑むロワールの姿。
『ロワール!』
シャインは思わず叫んだ。
自分の体を包む青き闇を振り払うように風が舞い上がる。
立ち上がり、両手を前方へ一杯に広げた。
ぽう……。
シャインの両手にはいつしかあの金色の光が灯っていた。
始めはほんのりと、そしてだんだんその強さを増して全身へと溢れてくる。
『俺はここにいる!』
両手を広げたシャインの体を飲み込む程大きくなったその光が、ついに空間一杯に広がり、周囲にたれ込めていた闇を駆逐しだした。
風が前から吹いている。
温かくてやさしくて、どこか自分を守ってくれるように。
『彼女の記憶は俺の魂に刻まれている。誰にも、それを奪われはしない!』
シャインは風が運ぶ空気を胸一杯に吸い込んで、再び彼女の姿を思い描いた。
海の水よりも透き通った水色の瞳。鮮やかな黄昏色の髪が、小柄なその体を包み込むようにうねり、風の声に耳をすまして真っ直ぐな笑みを浮かべているその姿を。
消え失せていく闇の間から、白く細い手がシャインに向かって伸びてきた。
闇が最後の抵抗を続けるように、その細い手を飲み込もうとしている。
シャインはその白い手に向かって自分の手を差し伸べた。
足が重い。
シャインの動きを再び氷が張りだして止めようとしている。
あと少しで手が届く。
シャインは体を前に倒し、あらん限り左手を伸ばし、闇に押し流されようとするその手を掴んだ。
絶対に、離さない。もう二度と――。
『迎えに来たよ。ロワール』
耳元で何かガラスのようなものが砕ける音が聞こえたかと思うと、シャインの歩みを押さえていた強力な力が一気に消失して、一陣の風が通り過ぎていった。思わずその場に膝をつきながらも、肩で息をしながらも、うつむいたシャインは、体が震えるのを抑えることができなかった。
喜びのあまり。
掴んだその手は、シャインの手の中に確かにあった。
手のひらの中にすっぽり収まってしまうその持ち主は、沈む夕日より鮮やかな黄昏色の髪をさわりとゆらしてシャインに向かって微笑んだ。
シャインはまだロワールの右手を握りしめていたが、それに視線を落とした時、普段と違う感覚に戸惑いを覚えた。
そう。ロワールの手を通して自分の手が透けて見える。
シャインはいつになく精霊としてのロワールを意識した。
とても痛いほどそれを意識した。
彼女は人の姿をとるが、決して人ではない。
人ではないけれど――握り返してきたその手はとても温かかった。
その温かさに触れたせいだろうか。シャインは急に全身に伝わる寒さを感じた。
「シャイン」
名前を呼ぶロワールの声が聞こえる。
あれからたった一ヶ月程しか経っていないと言うのに、彼女の声はもう何年も聞いていないような気がする。
そんなに寂しかったのか、自分は。
ロワールの水色の澄んだ瞳に、苦笑するシャインの顔が映っている。ロワールが空いている左手をそっと伸ばしたかと思うと、シャインは彼女が自分の肩を抱き寄せているのを朧げに感じた。
人ではなく精霊だろうが、ロワールはここにいる。
「あなたの声、はっきりと聞こえたわ。シャイン」
「ああ……」
シャインは心地よい温かさに誘われるまま目を閉じた。
折られた右手の疼きも、鈍く淀む体の中の疲れも、ともすれば自分を内から苛む痛みも、まるで水の様に溶けて消えていく。
――あともう少しだけ。
もう少しだけこうしていよう。
目が醒めた時、彼女の優しさに溢れた温かさを、ちゃんと覚えていたいから。




