4-29 金鷹、動く
「これを知っているのか? ジャーヴィス中尉」
アドビスに声をかけられ、ジャーヴィスは一瞬視線を宙に彷徨わせた。
「はっ……」
膝の上で握った両手に、冷たい汗がにじんでくるのがわかる。
「知っています。ご子息が……艦長がいつも右手にそれをはめていたのを見ていましたから……」
アドビスの目を直視することができず、うつむいたジャーヴィスの傍らで、クラウスが喘ぐように嗚咽をもらした。
「そんな……そんなことってないよ!!」
クラウスはばっと両手で顔を覆った。ふわりとした明るい金髪の髪を、乱さんばかりに激しく振る。
ジャーヴィスは思わずクラウスの肩に手をかけた。
「クラウス、落ち着け」
自分も心穏やかではないが。
だがクラウスは涙を堪えきれず、顔を覆った手の間からそれをぽたぽたと滴らせている。
「だって、だって僕……。僕がアスラトルへたどり着けなかったら、ヴィズルは艦長を殺すっていう事だったんですよ! どうしようジャーヴィス副長! もうあれから何日たちました? 早くしないと、艦長が――」
クラウスは覆った手を下ろし、肩を掴むジャーヴィスにすがりついた。
「クラウス。落ち着け。閣下の御前だぞ」
ジャーヴィスはすすり泣くクラウスをなんとかなだめようとしたが、クラウスと同様に、その心境は激しく乱れていた。クラウスの肩を抱えながら、考えがまとまらず、頭の中が真っ白になっていく。
「クラウス士官候補生」
アドビスがいつもの掠れ気味の声音でその名を呼んだ。怒ったり、咎めたりしていないその口調に、安堵したのかすすり泣きながらクラウスは、おずおずと顔をあげる。
「お前は間に合った。だから、シャインの事は心配しなくていい」
アドビスは落ち着き払った……それでいて、動揺の欠片一つない穏やかな笑みをその顔に浮かべていた。
先程まで光っていた、射ぬくばかりの鋭い瞳さえも、今はほっとするような温かみを帯びた輝きでクラウスを見つめている。
クラウスは驚きのせいで思わず泣き止み、目をしばたいた。
「で、でも……」
「礼を言う。ヴィズルの指定した期限までまだ余裕がある。これだけあればなんとかなる。後は私の仕事だ」
アドビスはすっと応接椅子から立ち上がった。慌ててジャーヴィスとクラウスもそれに倣う。
もしもシャインがこの場にいれば、先程アドビスがクラウスに見せた微笑は奇跡だと思うだろう。
だがそれはあっと言う間に消え去り、そこには元の厳格な海軍参謀部の長として、海賊を狩る狩人の油断のない表情に戻っていた。
「ジャーヴィス中尉、クラウス士官候補生。ご苦労だった。もう下がっていい。二人とも少し休むがいい」
ジャーヴィスはまだ鼻をすするクラウスの肩を抱きながら、「閣下」と、意を決して口を開いた。
アドビスは再び応接椅子に腰を下ろし、机の上に置いたままの指輪をつまみ上げていた。うんざりしたように、首を左右に振りつぶやく。
「ジャーヴィス中尉。お前の働きには満足している。ツヴァイスとヴィズルのつながりもこれで明らかにできる」
アドビスはさり気ない仕種でつまんだシャインの指輪を、そっと左手の小指に滑らせた。
「お前の仕事はもう終わった。早く下がれ」
「――いいえ」
アドビスが顔を上げた。明らかに煩わしいといった感情をむき出しにした目で睨まれて、ジャーヴィスは一瞬大きく身震いした。だが。
「いいえ。閣下、お忘れですか? 私がご子息の副官になったのは、他ならぬ閣下の頼みだったからです。それが私の仕事でもあります。ですから、私はその職務を全うする義務があります」
アドビスは頬杖をついて、面白そうにジャーヴィスをながめた。
「解任を命じれば、その必要はなくなるが」
ジャーヴィスは息を飲んだ。
アドビスの一存で自分の立場など、天と地ほどにたやすくひっくり返るということを思い知って。
だがジャーヴィスはあきらめなかった。
「たとえ海軍統括将の命令でも、理由なき解任は認められません。軍規にそうあります」
アドビスは肩をすくめた。
「理由など、どうとでもつけられる」
「中将閣下……私は……」
アドビスは応接椅子に背中を預け、両腕を組んで瞳を閉じた。
「その可哀想な士官候補生を、部屋に送り届けてやる事が先だ。そして、まだ私に報告する事が残っているなら、一時間後、ここに来るがいい」
「中将閣下……ありがとうございます」
ジャーヴィスは深々と頭を垂れた。
アドビスは黙ったままうなずき、早く出て行けといわんばかりに手を振った。
「さ、クラウス、失礼するぞ」
「はい……」
ジャーヴィスとクラウスは連れ立って扉の前に行った。クラウスの背中を軽く押して先に出させ、振り返りざまにアドビスの様子を一瞥した。
アドビスは応接椅子から立ち上がり、再び執務席に移動して机の上に置いてある調書を手にしている所だった。
「それでは失礼いたします」
アドビスの返事はなかった。
◇◇◇
執務室の扉が閉まるこすれた音がした途端。
アドビスの執務席の奥――藍色のカーテンで仕切られたそこから人影が現れた。
大理石の床を引きずる鋭い衣擦れの音に、アドビスは執務机に寄り掛かって調書を見つめながら小さく嘆息した。
「――怒っているか?」
「いいえ」
もとより読む気のなかったそれを机の上に置き、アドビスはゆっくりと振り返った。
フードがついた光沢がある濃紫色のマントに、白い同じ素材のドレスをまとったリオーネが、しずしずとアドビスの前に歩み寄ってきた。ジャーヴィス達が来たので、奥の別室に控えていたのだ。当然、先程の話は聞いていただろう。
アドビスはちらりとリオーネを見たが、すぐに視線を机上にそらせた。
「私は怒ってなどいませんわ。確かにシャインは、私と共に屋敷で過ごす約束を破って、一人で行ってしまいましたけれど。でも……」
リオーネは瞳を細め、アドビスの浮かない顔をのぞきこんだ。
「怒ったらあの子を責める事になります。シャインは――自分の船をとても愛していましたから。それを取り戻したくて、敢えて海賊に近付く危険を冒したのでしょう」
――船。
そんなもののために?
シャインに対する理解しがたい感情が、アドビスの胸の奥に広がった。
「ロワールハイネス号といったか。自ら建造にまで携わっていたが……。たかが船ごときに、あんなもののために……私の手を煩わすとは……」
アドビスは疲れたように額に右手を添えた。
そんなアドビスの様子を見て、リオーネがくすぐるような笑い声を上げた。
「何がおかしいのだ。リオーネ」
目の前にいるリオーネも何を考えているのかわからない。
アドビスはますます眉間に皺を寄せ、いらだってきた心を何とか懸命に抑える。
「アドビス様ったら。船に妬いてらっしゃるんですもの」
「リオーネ、それはどういう意味だ」
「言葉通りに受け取って下さいませ。シャインは、何よりもあの船が必要なんです。私達なんかより、ずっとあの船と共にいたいと思っているんです」
「……」
両腕を組んで黙ったままでいるアドビスは、大きくかぶりを振った。リオーネはふわりとした笑みを浮かべたまま言葉を続ける。
「お分かりになりませんか? あの船はきっと、誰よりもシャインを優しく見守ってくれる場所なのです」
アドビスがぎこちない動きでリオーネに視線を向ける。
リオーネはそのがっしりとしたアドビスの右手を取ると、まるで子供に諭すような口調でささやいた。
「あなたが意地を張らず、しっかりシャインの思いを受け止めてやれば、あの子の居場所はあなたの側にあったのです。リュイーシャの事だって、隠さず話していれば、きっと……」
「それはどうかな」
アドビスは先程左手の小指にはめた、亡き妻の形見の指輪――シャインに渡したそれが、淡く光るのを目に止めながら意味ありげにつぶやいた。
「私は間違っているとは思わん。真実を話したところで……つまらぬことであれが悩むのなら、いっそのこと、私への憎しみに変えてやる方がよい」
「アドビス様。シャインは――あなたが思っているほど、そんな心の弱い人間ではありません」
アドビスは指輪を眺めながら、唇の端にうっすらと微笑を浮かべた。
「そうだな……。嫌になるくらい、そういう所がリュイーシャに似ている」
シャインは何事にも割り切るということができない。
そのくせ頑固で強情で一途すぎる心が、リュイーシャのように、いつか命取りになるかもしれない。
死よりも、己にとってかけがえのないものを失う方の痛みに、耐えられなかったリュイーシャ。
だからこそ、言えなかった。
シャインに彼女の死の真相を。
「心が弱いのは私の方なのだ、リオーネ。私は……シャインに知られるのを恐れている」
「それは」
アドビスはリオーネの手を振り解き、応接椅子がある出窓の方へゆっくりと歩み寄った。リオーネに背を向けたままつぶやく。
「リュイーシャが私を選んだ事だ。あのひとはシャインと共に生きる道もあった。だが彼女はそれを捨てて、私を助けるために己が死ぬ道を選んだ」
「アドビス様……」
息を詰めたリオーネの声が背後から聞こえる。
アドビスは傾きだした日の光を疎ましく感じ、出窓のカーテンを閉じた。執務室が薄暗くなる。
日の光が嫌だったのは、今の自分の顔をリオーネに見られたくないせいからかもしれない。
「アドビス様、お言葉ですが、リュイーシャはあなたとシャイン……そのどちらかを選んだのではなく、自分の愛する人を守りたい一心だったのです」
アドビスは大きくため息をもらすと、ようやくリオーネの方に顔を向けた。
恐らく、すべてはリオーネの言う通りなのだろう。
わかっていても、それを認めるわけにはいかない。
あのひとを死に追いやったきっかけを作ったのは、紛れもなく自分の不実な行動のせいなのだから。
けれど、リオーネがまるで自分の事のように、いつまでも心を痛める姿を見るのもつらい。
この話題は早々に終わらせる必要がある。
「リオーネ。とにかく、私があれから母親を奪った事に変わりはない。そなたに心苦しい思いをさせるのは不本意だが……私にもう少しだけ時間をくれ。私が、シャインと向き合える時がくるまで……」
リオーネは黙ったまま静かにうなずいた。
「シャインもきっとそれを望んでますわ。だって、この世で二人だけの親子なのですから……」
アドビスは口の端をわずかに動かして微笑してみせた。
だが、それはほんの瞬きをするくらい短い時間だった。
アドビスは口元を噛みしめ、再びその鋭い瞳に油断ならない光を灯らせる。
「何はともあれ……準備を急がねばならん。明朝には出港できるように」
はっとリオーネが息を飲んだ。
「アドビス様。海賊の根城に心当たりがあるのですか?」
「ああ。あの士官候補生――クラウスといったか。アスラトル南方の海上をボートで三日かけて北上してきた。その距離で海賊の根城になるような場所は、あそこしかない」
脳裏に光景が蘇った。恐ろしい嵐の夜ではなく、茂る緑が美しい、淡い色の海に囲まれた小さな島。
「あの島を見る事になるとは……二十年ぶりに」
懐かしさと、けれど耐え難い悲しみに彩られた思い出が眠るあの海に、行かなければならない。
その時がきた。
「本当に、その島にシャインを捕らえた海賊がいるというのですか?」
アドビスはゆっくりうなずいた。
「おそらくな。ヴィズルはクラウスに、一週間以内に私に言づてを伝えるように命じた。言い換えれば、一週間あればヴィズルの準備は整うと言う事だ。だから私は明日にでも出港準備を整え、急ぎ奴の元へ向かわねばならん」
リオーネは白金の髪をゆらしながら、アドビスの腕にすがった。
「お待ち下さい。出港準備といっても、召集をかけている外洋艦隊はあと一週間以上到着に時間がかかります。それに、アスラトルの警備艦も昨夜、何者かに火をかけられ動かす事が出来ません。一体どこに、すぐ動かせる船があるとおっしゃるのですか。ああ……シャイン……」
リオーネは両手で顔を覆った。
「リオーネ、私の話を良く聞くのだ。そして力を貸してくれ。シャインを助けたくば」
アドビスの声は自信に溢れて力強いものだった。
「船は一隻あればそれでいい。王都にある陛下の護衛艦をお借りする。文面を用意するから、王都に駐留中の海原の司・ストラージュに念話を飛ばしてくれ」
リオーネのように術者は、術者同士なら遠く離れた間柄でも会話をすることができた。字のごとく思った事を相手に伝えるように念じるので、念話というふうにいわれている。
うなだれ、途方にくれかけていたリオーネの青白い顔に、みるみる生気が蘇ってきた。
「陛下の護衛艦を? わかりましたわ。でも、一隻だなんてアドビス様。それではあまりにも心もとない……」
アドビスは応接机の上に転がしていた、真鍮の金属の筒を取り上げた。指を差し入れ、中にしまっていた紙を取り出し、リオーネに手渡す。
彼女は思わず右手で口元を押さえて、悔しそうにうめき声をあげた。
「卑怯者! あなたを孤立させるためにシャインを利用するなんて!」
『この手紙を託した日より数えて一週間以内に出港すること。貴様が乗る船一隻でくること。そのどちらかが破られた時には、貴様にとって一番大切なものの命を奪ってやる。心当たりがないのなら、同封の指輪に目を止めよ』




