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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第4話 碧海の彼方
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4-23 レイディ・グローリア

 クラウスを思い出させるような、丸くて澄んだ緑色の瞳が、二、三度とまばたきを繰り返す。褐色の肌の上からでも容易にわかるほど、頬を桃色に赤らめた少女――船の精霊レイディは、シャインの正面に座り込んだままようやく硬い表情を崩して、年相応の無邪気な顔になった。


 多分彼女は、わざと大人びた口調をしていたのだろう。人間達に、威厳と畏怖の念を抱かせるために。

 先程襲ってきた赤銅色の髪とヒゲ面の、熊みたいな四本指の大男の怯え方から察するに、彼女の存在はこの船の誰もが知っていると思われる。


 船の精霊は船の守神でもある。

 だからこそ『船の精霊を怒らせると船が沈められる』という迷信を、船乗り達は信じ、自分の船に宿っているかも知れない彼女を密やかに恐れる。しかし、大きな嵐を無事に乗り切れた時は、彼女の加護をありがたく思い、感謝の念をこめて敬うのだ。


「本当にさっきはありがとう。俺はシャイン。……君の名前は?」

 海原を走る動きで揺れる船の側面――板壁に背中を預けたシャインは、膝の上に置いた右腕を上げようとして眉間をしかめた。指が動くので、神経まで痛めていない事にほっとしたが、枷がはめられている手首のすぐ下で折れた腕は、じわじわと熱を帯びて痺れるような疼きを繰り返している。

「……すまない。この状態で握手は無理みたいだ」

「当然でしょう! あなたって人は……まったく……」

 あきれたように、だがほのかな笑いをこめた目で精霊が静かに見つめ返してくる。

「面白い人。私は……グローリアよ。……今は、ね」

「――今は?」

 その言い方に、なんとなく引っ掛かるものを感じてシャインはつぶやいた。

「えっ、ええ……」

 精霊、グローリアは大きくうなずいて、シャインからそっと視線をそらした。

 右手の親指を口元に当ててうつむいている。

 何か訳ありな雰囲気を感じる。だが触れて欲しくない事を暴く趣味はない。


「それじゃあグローリア。実は、君に聞きたい事があるんだけど……」

「私、あなたの知りたい事なんか何も知らないわ」

 即答。

 なるべく穏やかな口調で話しかけたというのに、丁寧に編まれた二つのお下げが円を描くほどの勢いで、グローリアは首を振った。

 何か都合の悪い事を聞かれると思ったのだろうか。だが、シャインとしては少しでも情報が欲しい。はいそうですか、と引き下がるわけにはいかない。

 シャインは肩をそびやかし、小さく身を震わせた。


「怖いんだよ。さっき殺されかかったから。俺はあの男とは初対面で、誰なのか知らない。なんでこんな目に遭うのか……知りたいじゃないか」

 ちらりとグローリアの顔色をうかがうようにながめると、彼女は安堵したように肩の力を抜いた。どうやら、彼女が恐れていた質問ではなかったらしい。

 グローリアがシャインを気遣うように、憂いを帯びた視線を向ける。

「……そうね。本当、粗野で野蛮な男――。なんでスカーヴィズがあんな大酒飲みの飲んだくれを、副船長にしているのかわからないけれど……」

「スカーヴィズ? エルシーア海賊の頭だった彼女は、二十年前死んだはずじゃあ……」

「何言ってるの? それは先代の話よ。ま、今の船長は昔、ヴィズルって名前だったけれど……」

 シャインは眉をひそめた。

 予想していなかったわけではない。先程襲ってきた男がヴィズルの名を口にしたのを聞いていたから。疑問が確信に変わったせいで手が震えているのか、枷についた鎖に振動が伝わって小さく鳴り響いている。


「じゃあ、ここは海賊船なのか」

 シャインはなるべく大きく驚いてみせて、精霊の注意をひこうとした。

「そう。船長スカーヴィズが指揮するグロ-リアス号。ちなみに現在アジトに向かってエルシーア海を航海中よ」

 グローリアは思いのほかあっさりと答えた。シャインは今自分が乗っている船と状況を知ることができて、少し気持ちが落ち着いてきたのを感じた。そこで、さらなる情報を得るために言葉を続ける。

「それじゃあ、俺を殺そうとしたあの男も海賊なんだ」

 グローリアがあきらかに嫌そうな目つきでシャインを見た。

「言ったでしょ? ティレグは副船長で、大酒飲みで、粗野な男だと」


 ティレグというのか。あの熊のような大男の名は。

 ……やはり、知らない名前だ。

 首をひねりながらシャインは軽く息をついた。グローリアはあの男の名前を言わなかったぞ、と心の中で思いながら。

「あら、あなたヴィズルを知っているみたいだったから、てっきりティレグも知っているかと思った。だから言わなかったのよ?」

 シャインは息を詰めた。グローリアの淀みない緑の瞳がひたと見据えている。

 心の奥底まで見通すような。

 彼女は船の精霊。その気になれば人間の心を読む事ができる。

 シャインは観念して苦い笑みを唇に浮かべた。初めから嘘をつくつもりはまったくなかったから。


「ああ。ヴィズルの事は知っている。むしろ、俺は彼に会わなくてはならないんだ」

 グローリアは一瞬言葉に詰まったように、ただ口を開けたままシャインを凝視していた。

「船長に? ……そんな事、できないわ」

「できない? どうして?」

「できないからできないって言っているの」

「グローリア。どうして君にそんなことがわかるんだい? ヴィズルが来ないのなら、俺はヴィズルに会いたいということを、君から伝えてくれるように頼まなくてはならない」

 グローリアが立ち上がった。ふわりと膝上までの丈の白いドレスが花びらのように舞う。


「無理です。私……本当はあなたに近付く事を禁じられています。ティレグの行為を放っておけなかったから出てきただけで……」

 グローリアは戸惑った表情を浮かべながら、一歩一歩シャインのそばから後ずさっていく。

「待ってくれ、グローリア。君を困らせるつもりじゃなかったんだ。俺は……」

 シャインはそこで思わず口をつぐんだ。グローリアの瞳は今にも泣き出しそうに潤み、これ以上詮索される事を拒絶せんばかりに唇をかみしめている。だが、そんなことに気付いたのはもう少し後になってからだった。


 ――あれは一体何だ?

 シャインは目をこらした。

 天井から滑らかな光沢を帯びた、赤い紐のようなものが垂れ下がっているのが見えたのだ。その行方を目で追うと、それはグローリアに向かって幾重にも伸びている。始めはただのリボンかと思ったその紐は、彼女の両手両足首と、華奢な首に、イバラのように絡み付いている。

「……やっぱり、見えるの?」

 グローリアの静かな声にシャインは我に返った。声に出す必要はないのだろう。彼女はすでにシャインの心境を察している。寂し気な微笑を浮かべてグローリアがシャインの前に立っていた。その様子は何だか先程よりずっと頼りなく、周りの闇の中にその白い体が溶けていくような透明感を感じる。


「船長の言葉の意味がわかったわ。精霊が見えるあなたならこれに気付くから、私を近付けたくなかったんでしょうね」

 グローリアの口調は冷めていた。

「それは一体何だい? あの紐は、まるで君をこの船に無理矢理縛り付けているみたいだ……」

 シャインの言葉に、グローリアはそっと右手を上げると、天井に伸びている赤い紐をつまんだ。

「……そう、私は船長の術でこの船に縛られている。いいえ、私だけじゃない。あの男は需要のある船の精霊を捕らえてきては、依頼のあった船に術を施し、精霊を強制的に縛るのです」

「……需要って……!」

 シャインは絶句した。グローリアがいう言葉の意味がすぐに理解できない。

 思わず拳を握りしめ、疼いた右手の痛みに顔しかめつつ、シャインは納得がいかないようにつぶやいた。

「そんなこと……できるものか。船の精霊を捕らえるなんて……!」

 グローリアは穏やかに微笑んだ。

「あの男はその力を持っているのです。精霊を魂の器――大抵は船鐘ですが。それに封じ込めて新たな船に連れていき、あの男の力が込められた、血の縛りで、船と私達――魂の固定をはかるのです」

「――それじゃあ、君は」

 グローリアに名前を聞いた時に感じた違和感。あの時見せた彼女のよそよそしい態度の理由が何となくわかってきた。


「ええ。私はこのグローリアス号の船の精霊ではありません。船長の気分によって、また別の船に行くかもしれません。それに……私が生まれた船はどんなもので、どんな人達が私に乗っていたのか……もう随分昔の事だから忘れてしまった……」

 シャインから視線を外したグローリアの瞳は空虚のようだった。きっと、この船に連れてこられた時に、過去の記憶をすべて失ってしまったのだろう。

「ヴィズルがそんなに力ある術者とは知らなかった……」

 シャインは思わずため息をついた。彼が船の精霊を見ることができるのはロワールから聞いて知っていたが、それだって、自分と同じように精霊と同調しやすい体質のせいだと思っていたのだ。

「そう。あの男の力は強い。彼には船を動かすための人員はいりません。私達精霊さえいれば、たった一人で、思いのままにどんな船でも操る事ができるのです」

「……」

 まったく予想もしなかったヴィズルの正体。そして、それこそヴィズルが、スカーヴィズの跡目を継いで、エルシーア海賊の頭にのし上がった所以だろう。


「じゃあ……ヴィズルは……。自分が船を操るために、精霊達を捕らえて船につけているということなのかい?」

「それだけじゃありません」

 グローリアは静かに首を振る。

「私達には様々な特性があります。足の速い者、頑丈な者、波を乗り切る能力に優れた者……。船の精霊の宿っている船は、その特性が強く反映されます。だから、商船で積荷を早く届けるための速力が欲しいと思ったら、足の速い精霊を船につけることで、その船の速力を上げてやることができるのです」

「……」

 グローリアからこんな話を聞く事になろうとは。

 シャインはすっと血の気が引いていく感覚に襲われた。

 右腕の痛みは、腕を切り落としたい程になりまいっているが、そのせいではない。

「それは……間違っているよ。船の精霊は、船を愛する人々の想いで命を与えられるんだって、俺に教えてくれたレイディがいた。だから自分は存在するのだと――。船の精霊は望まれて生まれるんだ。だから、その人達の想いから離れた時、船の精霊に訪れるのは……」

 辺りの闇に溶けてしまいそうなくらい、はかない印象を感じるグローリアの体。シャインはロワールを思い浮かべていた。同じ船の精霊であるはずなのに、グローリアの生気を感じない様は何故だろう。

 その理由はただ一つ。

「君を愛してくれない船に留まれば、いつか消えてしまうよ。グローリア……」

「……」

 グローリアはそっと両手で顔を覆った。そのほっそりしたむき出しの肩が震えたかと思うと、彼女は滑り落ちるように両膝を床についた。

「グローリア、すまない。君にはわかりすぎている事だよね。君が触れて欲しくないことを、無理矢理聞いて本当にすまない……」


 グローリアは依然両手で顔を覆ったまま体を震わせていた。

 どうすれば彼女の傷ついた心を慰めることができるだろう。シャインは息をついた。

 船の精霊を、まるでパーツの様に扱うヴィズルのやり方は許せない。何がなんでもヴィズルに会って、話をしなくてはならない。シャインは考えるより先に口走っていた。

「グローリア、希望を捨てては駄目だよ。俺がヴィズルと交渉して、何ならこのグローリアス号を買い取ってもいい。その後で、君が生まれた船を探し出して元に戻してもらうか、もしくは君の事を大切に扱ってくれる人に、船を預ける事だってできる。俺はあきらめないから、君もあきらめないでくれ」


 おずおずとグローリアがうつむいた顔を上げた。その頬には真新しい涙の跡が筋を作っている。

「待っててくれ。がんばってみるから」

 今はそう言うだけで精一杯なのが悔しいし虚しい。必ずそうしてあげられるかの確証だってない。

 そんなシャインの不安を感じ取ったのか、グローリアの表情は相変わらず強ばったままで、丸い緑の瞳は暗い光をたたえている。

 きっと彼女はシャインの言葉を、これっぽちも信じていないのだろう。それは当然といえば当然だ。シャインだって彼女と同じく囚われの身なのだから。

 シャインは寄り掛かっていた壁板に頭をもたせかけて目を閉じた。

 腕が痛い。腫れてきた右手が、手枷を内側から圧迫しているのだ。ティレグが立ち去ってからどれ程の時間がすぎただろうか。もはやその存在すら忘れていた料理らしき皿を置いていった事を思い出しながら、次の食事の時間になって誰か来たら、腕を冷やすために水桶を用意してもらえないか頼もうと考えた。

 もっとも、次もティレグが来たらその要求は通らない可能性があるが。


「……ごめんなさい」

 グローリアのか細い声がすぐ近くで聞こえた。冷たい空気みたいなものが右腕に触れる気配がする。

 シャインはゆっくりまぶたを開いた。先程まで自分の正面にいたグローリアが、何時の間にか右隣に座り込んでいる。

「私がもっと早くティレグを止めればよかったのに。ごめんなさい」

 グローリアの細い若木のような両手が、シャインの枷がはまった右手首の上に覆うように乗っている。それはとてもひんやりしていて、火照った腕の熱をとってくれるようだった。

「ありがとう。すごく楽になったよ」

「……」

 グローリアは首をふった。その視線はシャインの腕に向けられたままだ。

「どうして――私にあんなことを言ってくれたの?」

 暫しの沈黙の後、シャインの腕に両手をのせたまま、ぽつりとグローリアが言った。

「どうしてって……それが、船の精霊の本来あるべき姿だと俺は思っているからだ。違うかい?」

 シャインがそう答えると、グローリアは黙ってうなずいた。

「私、あなたのその気持ちがうれしかった。すごく……。それだけで救われた気になりました。だから、私のことは気にしないで下さい。多分、大丈夫……」

「グローリア?」

 グローリアは目をこすって穏やかな笑みをシャインに向けた。


「あなたはまず、自分の船の元へ帰ることが先決ですよ。本当はあなたをマスターに持つあの子がうらやましいけれど」

 シャインははっとした。

「君は、ロワールを知っているのかい?」

 グローリアは大きく目を見開いて、身を強ばらせた。気まずそうに。

「あ、あの……私、あなたが眠っている時のぞいてしまったんです。あなたが見ていた夢を。そうしたら、船長が捕らえてきた精霊の顔と同じだったから……それで」

 シャインは肌が粟立つ感覚に襲われた。つかんだロワールの消息を手放したくない一心で叫んでいた。

「それで、ロワールは無事なのか? 知っていたら教えてくれないか!」

 グローリアは眉間をしかめて悲しそうにシャインを見上げた。

「それは――わかりません」

「どうして? さっき君は言ったじゃないか。ヴィズルが捕らえてきたロワールを見たって」

 グローリアはかぶりを振った。

「彼女を見たのはもう数週間前になります。それに船長に捕まった以上、遅かれ早かれ、元の船から離されて、私のように売られるのが運命――」

「……!」

 シャインはやり場のない怒りに体の奥が熱く燃えるのを覚えた。何より悔しいのは、ヴィズルがこの船に乗っているというのに、彼と話すことができないからだ。

「俺は、ロワールのいないロワールハイネス号を取り戻しにきたんじゃない!」




 まどろんでいた時に見た夢の光景が脳裏に浮かんだ。

 夕焼け色の鮮やかな長い髪を風になびかせながら、青い海原の彼方を眺めている彼女がゆっくりと振り返る。


『あなたは、“ロワールハイネス号”さえあればいいんでしょ?』



 これは先の未来を暗示しているのだろうか。

 ロワールならこんなことを言うはずがない。

 誰よりもシャインの心を知る彼女が――。


 ひやりとしたグローリアの細い指が、汗に濡れたシャインの額にかかる前髪を払ってくれた。シャインはされるまま再び目を閉じた。

 今はどうすることもできない。

 取りあえず当初の目的通り、ヴィズルの船に乗る事はできたのだ。後はヴィズルに会うチャンスを見極めて、それを逃さないようにしなければならない。

「グローリア」

「……なんですか?」

 落ち着き払った少女の声が答える。

「君のこと……俺はあきらめないから……」

「……」

 精霊の気配はしばらく消えなかった。

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