4-22 四本指の男
波の音がする。
船が後方の斜め後ろから順風を受けて、軽やかに海原を駆けていく時に聞こえる心地よい音。
一定のリズムを刻むそれを聞いていると、まるで船が自分を包み込んで守ってくれるような気がして落ち着くのだ。
ぎしぎしと船板が軋む音もそう。快調に船が走っている証拠だ。船が体全体で喜びを表している。
『ねえ、海軍で一番足が速い船ってどれ?』
『そうだな……。あんまり比べたことがないからわからないけど、君と同じクラスのスクーナー、トレース号は、ジェミナ・クラスまで六日間で行った記録を持っているよ』
『そうなの。じゃ、私が今、海軍で一番足が速い船よね! 私は四日で行ったんだから』
『それはそうだけど……ちょっと違うな』
『何が違うの?』
『だってあの時は、君自身の力で船を動かしたから四日間で行けたんだ。帆走なら確実に六日かかってた』
『うう……。な、なによ。私だって舵が壊れていなかったら、五日間でいけたわ。あ……つまりシャインは、私がいなくってもいいって言うのね?』
『それは違う』
『え。だってそうじゃない。私がいなくても、船はそれだけの速度を出せるんだもの。だから、私の存在なんか、あるようで実はないのと同じだわ』
『ロワール。違う、俺が言いたいのは……!』
『あなたは、“ロワールハイネス号”さえあればいいんでしょ?』
『ロワールハイネス号さえあれば!』
「……違う!」
シャインは目を開いた。
右の頬を固い床板に押し付ける、痛いほどの感触が伝わってくる。
眠っていた?
さっきのは……夢……。
シャインは肺の奥に溜まった空気を吐き出して、その場に体を横たえたままぼんやりと辺りを凝視した。
うす暗い部屋。汚水のすえた臭い、木の腐食したような臭い。ぎしぎしとしなる音。ここは船の下層部で、それも、積荷を置く船倉であることは容易に見当がついた。
けれど何故こんな場所で眠っていたのか。
夢見の悪さも相まって、気持ちの悪い冷たい汗が額に浮かび、前髪がぴったりとそこにいく筋も貼り付いている。
シャインはそれを払おうと右手を上げかけた。
チャリン……何かが擦れ合う金属音が鳴る。
そして動かしたのは右手だけのはずなのに、左手も同じように引っ張られた。
「何だ……これ……?」
両手首がずっしりと重い。手を動かしてみて、シャインは前で合わせる形で鉄の枷がはめられていることに気付いた。そしてそれは、シャインの小指ぐらいの太い鎖がついていて、船倉の天井にある鉄の輪に通され、固定されている。
「……」
シャインはしばし自分の身に何が起ったのかわからず、ただうす暗い船倉の中をじっと見据えた。頭の中が呆然となりそうになる。
そこで目を閉じた。こういう場合は記憶を辿るのだ。落ち着いて、今まで何をしていたか、順番に思い出していくのだ。
そう……。
確か、ウインガード号の艦長室で、ツヴァイスと話をしていた。とても大切な話で……昔の話。アドビスが決してしてくれなかった、母リュイーシャの死の真相だ。
――それで?
シャインは顔にまとわりつく髪を、頭を振ることで除けながら、さらに記憶のページを繰った。
そうだ。ツヴァイスは、シャインが亡き母親によく似ていると言った。そして思ったのだ。それが、アドビスに避けられる理由ではないのかと……。
すっと顔から血の気が引いていく。唇が無意識のうちにふるえて、シャインは横になったまま背中を丸めた。再び高まってきた感情を抑えようと、きつくきつく両手を握りしめる。
そしてその後は。
シルヴァンティー。作り直されたそれは何故だかとてもエグかった。
舌がしびれるような苦味を覚えている。だが、それ以外何も思い出せない。
記憶はここで途切れてしまっている。
どうやら考えるだけ無駄のようだ。シャインは再び目を開けて、うす暗い船倉の中をながめた。
ここはウインガード号の船倉だろうか。そして手枷をはめて、ここに閉じ込めたのは誰だろう。
言うまでもない。きっとツヴァイスの仕業だ。口封じのためそうしたのだろう。
シャインは小さく鼻で笑った。
確かに自分は彼の弱味を握っている。ツヴァイスがヴィズルと組んで、ノーブルブルーの船を沈めた事実を知っている。それを口外しない事をたてに、ノーブルブルーへ転属させてもらう約束をとりつけたはずだが。
どうやら利用されたのは自分の方らしい。
以前、ヴィズルをロワールハイネス号の航海長に紹介された時と同じように。
その時、シャインは前の扉に人が立っている気配を感じた。はめこまれている板と板の間が5ミリほど開いていて、外のランプの光が筋状にもれていたそれが不意に遮られたのだ。
ガチャガチャと鍵の束が鳴る音がする。
シャインはそのまま目を閉じて、眠っているふりをした。すべての意識を耳に集め、集中して。
木が軋むこすれた音と共に扉が開き、重いブーツが床板の上を歩く足音が響く。
「……」
どうやらここに入ってきたのは一人。ぷんと酸っぱい酒の臭いが漂う。安酒のような類いではなく、上等なワインのような。それらに混じって、なにやらシチューのような、こってりとした料理の臭いもする。
「はっ! まだ眠ってやがるぜ。とっくに日は昇ったっていうのにな。ツヴァイスの野郎、薬の量、間違えたんじゃあねぇだろうな?」
野太い、しかも知らない男の声だ。だがエルシーア語のイントネーションはどこかで聞いた事があるような気がする。そう、東方連国の人達が話す、少しなまったエルシーア語……。
ランプが自分の顔に向けられる気配。シャインは目を閉じたまま、眠ったふりを続けて様子をうかがう。
男が自分の側に近寄り、その場にかがみこむ。料理の臭いと、男が発する酸っぱい臭いがより一層強くなって、顔をそむけたくなる。
男がランプと料理の皿を置く小さな音がしたかと思うと、次の瞬間、シャインは思わず身を強ばらせて、目を開けたくなる衝動を必死でおさえた。
硬い、指先がたこになっているような男の手が、いきなり頬に触れたのだ。
「――アドビスの息子……か。なるほど……奴よりあの女の方に似てやがるな。……あの女……くそっ」
男は低く舌打ちして悪態をつきつつ、頬に触れた指で頤をなぞり、そのまま首筋へと下りていく。
「あの女のように……このガキも風を操るんじゃねぇのか? 冗談じゃねぇ!」
シャインは息を詰めた。
首にかけられた男の手に大きな違和感を覚えたのだ。
男の手は小指を欠いた四本しかなかったから。
一体何者だろう。しかも、この男は母リュイーシャを知っているようだ。
男は口の中で呪文を言うように、何事かを低くつぶやいている。シャインは男の正体を見極めるため目を開けようと思ったが、そうすれば男は、独り言をいうのをやめてしまう。
シャインは手首に冷たくくい込む鉄の枷がはめられた両手を握りしめ、何とか落ち着こうとした。男は大事なことを口走っている。
もう少しだけ……辛抱しなければ。
「俺だったら今ここで、このガキを絞め殺してやるんだがな。ヴィズルはあの嵐がどうして起きたか知らねぇ。あの女の血を引いたこのガキを生かしておくことが、どんなに危険かわかってねぇんだ!」
「……」
男の硬い指先に力が徐々に込められていく。
どくどくと波打つ自分の脈と、気道を押しつぶさんとする圧力が喉にかかる。
息ができない。
「あの夜、俺がすべてを手に入れていたはずだったんだ!!」
男が既にシャインの首にかけていた右手の上へ、左手を乗せた。
「……ぐへぇっ!!」
鎖が鳴る音と共に、男が驚きながらひしゃげたうめき声を上げた。
シャインの首にかけられていた手の力が一気に緩む。
「てっ……てめへ……!」
シャインが握りしめた両手で、思いっきり男の顔面を殴りつけたのだ。
それが、見事に男の下顎に入ったらしい。
シャインは荒い息を整えながら立ち上がった。息を吸う度に喉に鈍い痛みが走り、ひゅーひゅーと音が鳴っているような気がする。男の顔面を殴った感触が気持ち悪く両手の拳に広がっていく。
男は再びシャインに向かって手を伸ばしてきた。ランプの光に照らされたその顔は赤銅色のヒゲ面で覆われていて、唇から血をいく筋も滴らせている。
シャインは枷についた鎖を手繰りよせて握ると、反動をつけてそれにぶら下がり、男の手をかわした。そして、飛びかかってきた男の首を両足ではさみこみ、体重をかけて床にその体を叩き付けた。
「……ぐはっ!」
頭をぶつける鈍い音が、チャラチャラ鳴る鎖の音と混じって辺りに響く。
肩で息をしながら、シャインは男を見下ろした。その首を足で挟んだまま。
「……お前は一体、何者だ……」
つぶれてかすれた自分の声に驚きつつ、シャインは床に倒れた男を睨んだ。
この男は二十年前、母リュイーシャが起こした嵐の事を知っている。
ならば、スカーヴィズの死について何かを知っているかもしれない。もしもそれを聞き出す事ができたなら、ヴィズルの誤解を……アドビスが本当にスカーヴィズを殺したのか、知ることができる。
「……ケッ!」
男が口をすぼめて何かを吐き出す。どうやら折れた前歯のようだ。
「手前のツラなんぞ……二度と見たくねぇんだよ!!」
「……!」
男が信じられない力で上半身を起こした。
両手で鎖を持っているため、空いているシャインの右脇腹へ拳を突き出す。
シャインは慌てて男の首から足を放した。
だが鎖が邪魔をして間を広げる事ができず、男の拳が腹に食い込んだ。
息が詰まる。幸い肋骨には当らなかったものの、熱い痛みの本流が一気に押し寄せてきて、シャインは握っていた鎖を思わず手放した。
胃液が逆流してそれが喉まで上がってくる酸っぱい味に、吐き気がこみ上げてくる。
その刹那。
距離を詰めた男の足が目の前に迫り、シャインはやむを得ず、枷のはめられた両手でそれを受けた。
鉄の棒で殴られたような重い衝撃が右腕に走る。
バキッという乾いた音。
一瞬頭の中が真っ白になって、気がついた時、シャインは床に倒れていた。
身を起こそうとしたが、体重を乗せた右手が疼いて力が入らない。
「ゼイゼイ……手こずらせやがって……ゼイゼイ……」
チャリンと鎖が鳴る音がしたかと思うと、荒い息づかいの男が、シャインの手枷についたそれを持ち上げて、じっとこちらを見つめていた。
その視線をたどると、だらりと垂れた自分の右手が、枷のはめられている手首のすぐ下のところで、あらぬ方向に曲ってぶらぶらと揺れている。
「悪りィな。俺の靴は特注で底に鉄板を仕込んでるんだ。てめえが結構やるもんだから、つい本気を出しちまったぜ。ま、手の一本や二本折れたってどうってことねえさ」
流れる血で唇を真っ赤に染めながら、男は不敵な微笑を浮かべて、握った鎖から手を放す。支えを失い力が抜けたシャインの腕は、重力のなすまま床に叩き付けられる。腕に走ったえぐられるような痛みに、シャインは歯を食いしばった。額に浮いた脂汗が滴って目に入ってくる。
と、男が例の四本しかない右手でシャインの顎をつかんだ。顔に酒と口臭と血の臭いが混じった息がかかる。シャインは目を開けて、自分を見る男の顔を睨み付けた。男が、意外そうに目を細め、シャインの形相にたじろぐように肩を震わせる。
「……呻き声一つ上げやしねぇとはな。やっぱりてめえは、つまんねぇガキだ」
そう言いながら、後ろ手にまわされた男の太い手には、鈍く光る刃の短剣が握られていた。
「だから、殺してやる……」
シャインは男の手から逃れようと身じろぎした。だが、がっしりとしたその手は、シャインの顎をしっかりとつかんで放さない。
短剣の冷たい光がシャインの目を突く。
「その手を放しなさい。船長に言い付けますよ」
短剣を握りしめた男が、ぎこちなくその動きを止めた。
「この人は大切な預かり物だと、言われていたはずですが」
暗い部屋のどこからともなく聞こえてくる静かな声。シャインが上目使いで男を見ると、じっとりと冷たい汗をかきながら、目だけがぎょろぎょろと周囲を見回している。
「……くそっ。邪魔しやがって……」
「私は船長の命令に従っているだけです。最も、あなたがその人を殺したら、あなたもただではすみませんけど」
男は荒々しくシャインの顎にかけていた手を放した。シャインは安堵して、思わず大きく息を吐いた。
「ば、化け物の分際で……ケッ!」
明らかに怯えを見せつつ、男は立ち上がって、投げだされたシャインの右腕をブーツでぐっと踏み付けた。
「……俺はあきらめねぇぜ。助かったなどと思うんじゃねぇぞ!!」
「……」
シャインには男を見る余裕がなかった。ただひたすら折れた腕の痛みに耐えていたので、男がランプを拾い上げて、何時の間にか船倉から出たことにも気付かなかった。
「大丈夫ですか?」
自分を助けてくれた声が、静かになった暗い船倉の中で再び響いた。
シャインは体を横たえたまま、目を開けるべきか一瞬迷った。男の言った、“化け物”という言葉が気になっていたからである。だが、心を決めてシャインは目を開いた。ぼんやりとした暗がりの中、シャインはほっそりとした足首の裸足の足を見た。
人間……?
少なくとも目の前の足は人間のものだ。どうやらこの船倉には、シャインの他にも誰か閉じ込められていたらしい。今までそんな気配はまったくなかったのだが。
シャインはほっとして、身を起こそうとした。しかし、両手は枷で固定されているうえ、あの男に右手を折られてしまった。
「あまり、無理をしてはいけませんよ」
物音一つたてず、目の前の裸足の人物は、シャインの元へ近付いて、すっと両膝をついて座った。
シャインはなんとか左肘を使って体を支え、上半身を起こす事ができた。胡座をかいて船倉の板壁に背中を預ける。たったこれだけの動作なのに、自分が荒い息をついているのが恥ずかしかった。
「……どうも、さっきはありがとう……」
束ねていない髪が滑り落ちてきて視界を遮る。頭を振りつつ、シャインはなんとか礼を口にした。
「いえ。私は自分の役目を果たしただけにすぎません……」
シャインは正面に座る人物をぼんやりと眺めた。
黒くて腰ほどある髪を二つに分けて、お下げにしている女性……いや、外見は十五、六才の少女が目の前にいた。膝上までの白い袖無しのドレスをまとっていて、大人びた口調からは想像できないくらい、その顔は幼くて、かよわげに見える。
褐色の肌に翡翠のような緑色の瞳がじっとシャインを見つめているが、そこには感情というものがあまり感じられない気がした。そう……まるで磁器で作った人形のように表情が硬く、冷たいのだ。
きっと少女は怯えているのかも知れない。派手な殴り合いをしたのだから。
そう思ってシャインはできるだけ笑顔を浮かべながら、静かに口を開いた。
「君も……ここへ閉じ込められたのかい?」
少女がそっと体を震わせた。膝の上に置いていた両手を後ろに回す。
シャインはその手に、赤いリボンのようなものが巻き付いてなびく様を目に止めた。
「……」
少女はうつむいてシャインを見ようとしない。シャインはふと彼女に違和感を覚えた。ここは窓一つない暗い船倉だ。それなのに、自分は何故はっきりと、少女の肌の色や瞳の色を見る事ができるのだろう。
そして、細い手首に巻かれた鮮やかな赤いリボン。
「ひょっとして君は――」
シャインは確信した。男が“化け物”といった意味がこれなら通じる。
少女が再び顔を上げたが、シャインの視線に気付いて驚いたように両手を口に当てた。
「あなた、私が見えるの!?」
シャインはゆっくりとうなずいた。
「みんなにね、何時もそう言われるんだ。幸せな事にね……レイディ」




