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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第4話 碧海の彼方
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4-21 ファラグレール号での再会

 アドビスの命令で、ウインガード号に乗ったらしいシャインを連れ戻すべく、ファラグレール号がアスラトルの軍港を出港して二日がすぎた。

 青緑の海をオレンジ色に染めて夕日が沈んだ19時ごろ。ファラグレール号の船尾にあるリーザの艦長室では、士官達が彼女とテーブルを囲み夕食が始まっていた。


「大誤算だわ……」

 自身の瞳と同じ深い赤色をした、シシリー酒のグラスをかたむけながら、リーザが深く深くため息を漏らす。

 びくっと、副長のイリューズが目元に僅かな怯えを現わしながら、料理を口に運ぶ動作を一瞬止めた。リーザの機嫌が悪いのは誰が見ても明らかである。


「まだ風は変わらない?」

 いらだちを漂わせながら、リーザは物憂気に首を左に向けた。隣に座って、パンを口に運んでいた士官候補生のスカルは、それを喉に詰まらせそうになって、慌ててグラスについであった真紅の酒を流し込んだ。

「うっ……。は、はい艦長。……依然北よりの風が強いです」

「……そう」

 先程よりずっと重苦しいトーンでリーザがつぶやく。彼女の機嫌が悪いのは無理もない。思った通りの針路で船を進ませることができないからだ。


 風はアドビスから受けた命令を遂行させる気がないのか、リーザをあざ笑うように北寄りのまま吹いてくる。二日前、アスラトルの港を出港してからずっと。

 ウインガード号の目的地はジェミナ・クラスだ。だからリーザの船ファラグレール号も北上しなければならない。けれど肝心の風が北から吹いてくる。帆船は風上に向かって進む事がとても難しい。


 リーザの船はマストに対して平行に帆がついている縦帆船スクーナーなので、大型軍艦のウインガード号のように、マストの前に帆がついている船と比べて、風上へ向かって帆走する能力は優れている。

 けれどそれでも限界がある。

 風が北から吹く以上、北に進む事はできない。


 リーザにできることは、風向きが変わるまで、船をやや東寄りに進ませながら、(そのままだと東へ行ってしまうので)適度な所で反対の西向きに船の針路を変えて、ジグザグにまさに、じりじりと北上していくしかないのだ。

 しかし船は北上するどころか、潮の流れと相まって、どんどん南東の方角へ流されている状態がずっと続いている。



 リーザは目の前にずらりと並べられた色とりどりの料理を見ながら、何時もならうれしくてわくわくしているのに……と思った。

 金の燭台の上で暖かな光を宿したろうそくの灯りの中、明るい緑の香草の上に乗った、大きな海老の赤がとても鮮やかだ。ボイルされたその白い身は、ぷりぷりしていて美味しそうな湯気を立てている。隣の皿には玉ねぎを薄くスライスしたものと、リング状に切ったイカに、濃紫色の二枚貝が口を開けて薄黄色の大きな身に特製のソースがたっぷりとかかっている。

 リーザは白いカップに注がれた、透明な野菜スープを口に含んだ。先程まで甲板にいたせいで、体が冷えきっていた。スープはシシリー酒よりも、驚く早さで体の中を駆け巡り、再び血の通う温かさを取り戻してくれた。


「あと一日このままだと、ウインガード号には追いつけないな」

 幾分残念そうに聞こえる声よりも、シルヴァンティーのほっとする香りと、焼きたてのケーキが発する甘い匂いがリーザの注意を引いた。

 目の前にそれらが並べられる。リーザは少し疲れた表情で、ジャーヴィスの顔を見上げた。

 ジャーヴィスは白い糊のきいたシャツに黒いエプロンをして、すっかり料理人の格好をしていた。


『ジェミナ・クラスに着くまでの一週間。ファラグレール号でのあなたの仕事場は厨房よ。ジャーヴィス』


 我ながらいい考えだと思っていた。

 ジャーヴィスはひと月療養院のベッドで過ごしたのだ。やっと歩き回れるようになった状態にも関わらず、こうして船に乗る事ができるのは、彼が強靱な精神力の持ち主で、普段から体を鍛えているお陰に他ならない。

 しかし、生真面目なジャーヴィスのことである。

 船に乗ってしかもそれが軍艦ならばなおの事、何の仕事もせずにじっとしていられるはずがない。甲板の仕事はほとんどが肉体労働だ。しかも、ファラグレール号には副長のイリューズがいるので、彼の名誉の為にもジャーヴィスに出しゃばって欲しくない。

 そこで思い付いたのが、自分付きの料理番だった。


「そうね。私達はどんどん南下しているわ。ウインガード号に追いつくどころか、アスラトルへ帰るのに軽く一日費やすでしょうね」

 ジャーヴィスの青い瞳が、悔しそうに細められたのをリーザは見た。

「イリューズ副長」

 おでこが少し後退しかけている(まだ三十代)、イリューズは切り分けられたケーキを頬張っているところだった。


「モグモグ……(なんでしょうか、艦長)」

「口に食べ物を入れたまましゃべらない! お母さんに教わらなかった!?」

 目を白黒させて、両手で口元をおさえたまま、イリューズはつぶやいた。

「……ほみばぁせん! (すみません)」

 リーザはうんざりした面持ちで副長を睨み付けた。


 戦争がないせいか。

 自分達の任務がもっぱら積荷運びなせいか。

 どうも後方に配属される士官達は皆、緊張感のカケラすら感じられない腑抜けが多いような気がする。

 リーザはジャーヴィスの入れてくれたシルヴァン・ティーを飲み下した。

 熱くて一瞬身震いする。舌を火傷したかもしれない。

「風が変わったらすぐ知らせるよう当直に言い聞かせて。勿論、変わったら総員で帆を張り直して、今までの遅れを取り戻すの。わかった?」

「……はい」

 子供でも理解できる命令だ。

 テーブルについた副長のイリューズ、士官候補生のスカル、航海士のマルグリッドの顔をぐるりと見回して、リーザははたと気付き、傍らに立っているジャーヴィスに言った。


「あら? シルフィード航海長がいないわ。私、あなたと一緒に食事をするよう、誘ったはずなんだけど……」

 エプロンを外したジャーヴィスは、空いているリーザの右隣の席についた。

「シルフィードのやつ、腕を折って休職中だっただろう? あいつにとっては久々の航海でね。もう少し甲板にいて海を見たいと言っていた」

「そう……」

 リーザはシシリー酒のビンをとって、ジャーヴィスのグラスに注いだ。

「ありがとう」

 口元を少しほころばせて、ジャーヴィスがはにかんだ笑みを見せた。

 明るい栗毛の前髪が、同じ色をした意志の強そうな眉の上にぱらりとかかって静かに揺れる。それをジャーヴィスはうっとおしそうに右手を上げて払いのけた。リーザは舌の上でとろけるケーキの味に満足しながら、何気ない素振りでジャーヴィスを見ていた。

 副長のイリューズと航海士のマルグリッドが、リーザの顔に浮かんだ聖母のような笑みを見て、表情を凍り付かせているとは知らず。


 ドンドン!


 場の和やかな雰囲気が、急いたように扉を叩くノックの音で破られた。

「誰?」

 口元をきゅっとひきしめ、リーザがよく通る声で問う。

 同時に天井の方がどたどたと歩く音でうるさくなった。

 甲板にいる当直の水兵達が何か叫んでいる声もする。


「俺です、シルフィードです」

「入りなさい」

「失礼します!」

 ドアを開いて入ってきたのは、ジャーヴィスと同じように白いシャツを着て黒いエプロン姿のシルフィードだ。リーザはジャーヴィスの手伝いをするよう、シルフィードに命じたのだった。

 肩を超す長い黒髪を一つにまとめ、無精髭を生やしたシルフィードは、興奮した様子でずんずんと中に入ってきた。


「何があったの? 甲板も騒がしいみたいだけれど」

 シルフィードは自分を見るジャーヴィスと視線を合わせると、思わず両手を広げながら叫んだ。

「早く甲板へ来て下さい! ジャーヴィス副長。奇跡ですよ!」

 そう言ってシルフィードはジャーヴィスの袖をひっぱった。たまらずジャーヴィスは席を立つ。リーザも立ち上がった。

「何を興奮しているの? ちゃんと報告しなさい」

 眉をひそめたリーザの顔を見て、シルフィードはぶるぶると肩を震わせながら大きく叫んだ。

「これが興奮せずにいられますかって! クラウスのやつが見つかったんですよ! ホントに!」




 リーザの前を黒い影が横切った。

 ジャーヴィス。

 その広い背中を追いながら、リーザは慌てて甲板へ出た。

 ファラグレール号は三本のマストに張ったすべての帆から風を抜いて、ゆらゆらと波間を漂っている。

 自分の命令なく船を止めた事に腹が立ったが、そのいら立ちは甲板の騒ぎをみてすぐさま吹き飛んだ。

 白いシャツ姿の水兵達が、手に手にカンテラを掲げて右舷の船縁から海を見ている。


「もう少しだ!」

「おい! ロープをよこせ!」

 リーザはジャーヴィスの隣へ立った。ファラグレール号の船縁によく日に焼けた手がぬっと伸びて、続いて同じく褐色の肌をした男の顔が見えた。

 小柄な男はファラグレール号の甲板に立ち、きょろきょろと辺りを見回した。

 水兵の白いシャツは薄汚れて灰色になり、擦り切れ、濃青のズボンも膝上の所でずたずたに裂けている。茶色の髪もヒゲもむさ苦しくて、取りあえず若い男としかわからない。

 しかし隣に居たジャーヴィスが、はっと息を飲む音が聞こえた。


「エリック! お前……」

 ファラグレール号の水兵達の影から、ぬっと姿を現わしたジャーヴィスが、小柄な男の側に近寄っていた。

「ジャーヴィス副長? えっ! 嘘だろ!?」

 ジャーヴィスがエリックと呼んだ小柄な男は、よろよろとジャーヴィスの元へ歩を進めた。

「そこにいるのは、シルフィードじゃねぇか?」

 シルフィードとたいして身長が変わらない大柄な男が続いて姿を見せた。

「あっ。エルマか! あんたも無事だったんだ!」

 途切れることなく、続々と男達がファラグレール号の甲板に上がってくる。


「……これは……どういうこと?」

 リーザの目は驚きに見開かれたままだった。彼女のそばへ副長のイリューズがやってきた。

「艦長。見張りから事情を聞いて参りました。当直中、海に灯りが見えたので誰何した所、行方不明と言われていたロワールハイネス号の乗組員が、ボートに乗って漂流中であることがわかりましたので、船を止めた次第です……」

「そうみたいね」


 両腕を組んで、リーザはファラグレール号に乗り移る、お世辞にもあまり綺麗ではない男達の姿を見た。その数17名。

 シルフィードとジャーヴィスは彼等にすっかり囲まれて、陽気な笑い声を上げている。不意に、その輪が大きく崩れた。最後に甲板に上がってきたのは、ほっそりした少年だった。

「クラウスー! お前、大丈夫かぁー!?」

 シルフィードがクラウスの元へ駆け寄った。マストに吊された停泊灯の灯りに目をしょぼつかせながら、クラウスはハッと顔を上げて大きく体を震わせた。

「マスターだ……嘘みたいだ……僕……ぼく……」

 シルフィードがクラウスの肩に太い両腕を回し、それでは物足りなくて、軽々とその小さな体を持ち上げた。



 ◇◇◇



 ファラグレール号の甲板では、救助されたロワールハイネス号の水兵達に、温かな食事が振る舞われていた。

 彼等の世話をイリューズに任せ、リーザは自室に戻った。そこにはひと足先に艦長室に行くように言った、ジャーヴィスとシルフィードがいて、クラウスを食卓につかせた所だった。


「この海老は俺がゆでたんだぜ。さ、あったかいうちに食べな」

 クラウスの傍らで、シルフィードが海老の白身を切り分ける。ジャーヴィスも今ばかりは優しい表情で、ゆっくりとシルフィードの言葉にうなずいている。

「詳しい話はこれを食べてから聞こう。さ、クラウス」

「あ、ありがとう……ございます」

 静かに扉を後ろ手で閉めて、リーザはクラウスの痛々しい姿に胸が痛んだ。

 暗い甲板ではよくわからなかったが、クラウスの白い顔は潮焼けで真っ赤になっており、濃い金髪もくせっ毛がうずまいて鳥の巣のようにくしゃくしゃだ。

 鮮やかな青色の士官候補生の制服も、ボートに乗っていた時波しぶきを浴びたせいか黒々と水を含み、そで口がすっかり擦り切れている。

 リーザは傍らのクローゼットから乾いたタオルを出して、クラウスに濡れた上着を脱ぐように言った。


「風邪をひくわ」

「ありがとうございます……うっ」

 クラウスは上着を脱いでリーザに渡した後、がっくりと顔をうつむかせると、日焼けで赤く腫れた手で目をこすった。

「どうした? クラウス」

 小さくすすり泣きだしたクラウスに、おどおどとシルフィードが声をかける。

「すみません、マスター……。僕……うれしいんですけれど……急がないと」

「急ぐ?」

 ジャーヴィスが不審感たっぷりに聞き返す。リーザも嫌な予感を胸に覚えた。


「そうです、ジャーヴィス副長。そうだ! 早くアスラトルへ戻らないといけないんです!! でないと僕……僕……」

 両手を握りしめ、がたがたと震え出したクラウスの肩を、ジャーヴィスがしっかりと握りしめた。

「落ち着け、クラウス。順を追って話してくれないとわからない」

「そうよ。クラウス士官候補生。あなたはもう大丈夫なんだから、安心して」

 リーザはクラウスの青い目の中に、確かに不安があるのを感じ取った。何かに駆られるように、怯えが見て取れる。

 クラウスは目を閉じて、ゆっくり息を吐くと、やおら緑のベストのポケットをまさぐった。次の瞬間、安堵したかのように目を細めると、そっと何かを取り出した。手に握られているのは、黒いベルベットの光沢をした布に包まれた円筒形の小さな包み。クラウスの手の中にすっぽり入ってしまうくらいの大きさだ。

 クラウスはそれを感慨深気に見つめると、再び大きなため息をもらした。


「ジャーヴィス副長。シルフィード航海長の代わりだったヴィズルは海賊だったんです!」

「――何?」

 喉の奥から絞り出すような、ざらざらしたジャーヴィスの声。リーザはジャーヴィスが動揺しているのを察知した。

「ジャーヴィス副長。詳しい事はこれから話します。ですが、早くアスラトルへ戻って下さい!」

 ひたとジャーヴィスを見据え、クラウスははっきりした口調で訴えた。

「僕、ヴィズルに命令されたんです。これをグラヴェール中将閣下に届けるようにって! だから僕らは解放されたんです!」


 ジャーヴィスは声を失って、ただクラウスの顔を凝視するばかりだった。唇の色がすっかり青ざめている。やがてそれがぐっと噛みしめられた。動揺していたジャーヴィスの青い瞳が、憑かれたような熱っぽい光を帯びて細くなる。


「リーザ、戻ろう。今なら一日でアスラトルへ帰れる」

「……そうね。グラヴェール中将の命令に反するけれど、そんなこと言ってられないわね」

 リーザも迷いがなかった。むしろヴィズルという海賊が、アドビスに宛てた包みをいち早く届けなければならないと思った。

 リーザは艦長室の扉を開け、声高にイリューズを呼んだ。


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