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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第4話 碧海の彼方
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4-20 悪夢

 東の濃紺の空が白んで、無数にきらめいていた星の光が朝日に溶けていく。

 周囲が明るくなるに従って、どろりとした黒い液体のような海の色が、みるみる彩度と透明度を取り戻し、本来の色――深い碧色へと変わっていく。

 その様をたった一人きりで眺めるのは、もう何回目だろうか。


 ――エルシーアの海なんて見たくない。

 だって、残酷すぎるほど綺麗で……同じなんだもの。


 ロワールは夜明けの海から目をそらそうとして、けれど、それが絶対にできない自分に、腹立たしさともどかしさを感じていた。

 周囲は黒くて堅固な足場ひとつない切り立った崖が、ロワールハイネス号を挟み込むように取り巻いて、まるで牢獄に閉じ込められているようだった。だがそこは、鋭く険しい崖の間に出来た小さなくぼみで、自然が造り出した素晴らしい港でもあった。崖の下はごつごつした磯が水面から幾つも顔を出し、沖から押し寄せる波を砕いて白い泡に変えてくれる。そのおかげで、船首を沖の方へ向けて二本の係留索で停泊しているロワールハイネス号に、直接大波がぶつかり船体が破損することはない。


 どーんと崖の間で反響する重苦しいその音を聞きながら、ロワールは光を浴びた海を相変わらず眺めたまま、肩を落としため息をもらした。

 納得がいかないように、ゆっくりと頭を振る。


「うう……なんで私が、こんな目にあわなきゃならないのよ?」


 両膝をついたまま、ロワールは目の前の透明な壁――正確にいうとロワールハイネス号の船尾、舵輪の前に設置されている船鐘の内側を、両手で握った拳で力なく叩いた。ぐにゃんと柔らかい感触の後、それはロワールの拳を容赦なく押し戻す。叩いても出られないのは分かっているので、もう一度、と試みるつもりはない。

 ロワールはその場に座り込んで、再びため息をついた。


 船鐘(シップベルは船の精霊が宿る魂の器。人間の姿で船内を歩き回る事をやめて、休む時に入るのだが、ヴィズルが鐘に何か術を施しているため、ロワールは出る事が叶わず、ずっと閉じ込められているのだった。

「だから……嫌だったのよ。あの男の目って、何か隠しているって感じだったし、心が読めなかったのは“術者”だったからなのよね。しかも、船を操る術者だなんて……最低、サイアクじゃない!?」

 これまで何度同じ悪態をついただろうか。どんなに泣き叫んでも、応えるものは誰一人としていない。崖のわずかな足場で羽根を休める白い海鳥も、磯に砕け散る波もその声は届かない。



『長期の航海であんたも疲れたろう。だから、今はお休み』

 耳元で聞こえた囁き声に、背筋がぞくっとした。

 あの時……ヴィズルは左手に鐘を磨くための布を持ち、右手には鐘楼から外された船鐘を抱えていた。掃除をしながら、あの男は自分を意のままに操る術を施していたに違いない。


 現にロワールは、この険しい磯場の港へ、どうやって入る事ができたのか良く覚えていなかった。崖と崖の隙間は10リールあるかどうか。第一そこに入ろうとしても、押し寄せる波が激しく、左右に大きく船体が振られてしまい、舵をとられて操船を過てば、水面から顔を出している黒い岩にぶつかり、座礁するはずなのだ。

 だが船体には傷一つついておらず、こすったような跡もない。

 ヴィズルが上手に舵をとったのか、彼自身の能力で船を操ったかのどちらかだろうが。

 ロワールは物思いにふけりながら、前方に見える海を惹き付けられたように再び眺めた。

 コバルトブルーの染料を溶いたような青い空に、うっすらと筆で流したようにみえる白い雲がいく筋もたなびいている。

 海面はきらきらと太陽の光を受けながら、小さなさざ波が一定の方向に向かって立っている。きっと海上では、帆走すれば気持ち良い風が吹いているのだろう。

 膝を抱えたロワールは、海を見つめながら大きな期待を込めて、その綺麗な碧色の水平線の彼方から、現れるべきものを待っていた。

 いや、今は待つしかなかった。


 

「……早く帰ってきてって……言ったのに」

 膝を抱えた腕の上にほっそりとした顎をのせ、ロワールの水色の瞳は水平線から片時も離れない。

「聞こえなかったのかな……」

 伏し目がちになったせいで、まつげが白い肌の上に濃い影を落とす。

「シャインがいるって……ファスガードは教えてくれたのに……」

 ロワールの顔はどんどんうつむいて、鮮やかな夕焼け色の長くウエーブした髪の中へすっかり隠れた。


『私の事……忘れちゃった?』


 ロワールは突如、一人きりで何も見えない闇の中へ放り込まれた気持ちになった。叫んでも声が出ない。歩こうとしても足が動かない。はっとして足元を見ると、がっちりとした岩の間に両足がすっぽり挟まっている。

『何? 何なのっ!』

 一瞬戸惑い、頭の中が真っ白になりかけたその時。

 ぼこっという音と共に白い泡が目の前に現れ、ゆっくりと上に昇っていく。

暗い闇は夜の水中に変わり、泡を追って上を見上げると、珊瑚礁の間の岩場に挟まれて、横倒しになっている黒い物体が見えた。

『あれは……』

 息を飲んでロワールは目をこらす。と、それは海より濃い碧色のペンキを船体に塗った帆船で、岩場に挟まれて身動きが取れず、激しい波にもまれている。

 しかも、左舷の船腹には船体の二分の一はあろうかという大きな穴が、ぽっかりと空虚のように空いていて、船を飲み込もうとする波に、次々と襲われているのだった。

 ロワールハイネス号が座礁している。

 誰にも気付かれる事なく、身動きすらできず、ただ、朽ちていくのをじっと待つばかりの姿……。



『……こんなの……!』

 ロワールは溢れてきた涙をぬぐい、ぐっと拳に力を込めた。

 瞳を閉じて、その光景を一切脳裏から消し去る。

 肩をふるわせ、天に向かって突くように叫ぶ。


「私はそんなものを待っているんじゃない!!」



 黒い影を落とす両サイドの崖の前方から、青緑の鮮やかな海が見えた。

 肩をゆらしながら息をしているロワールは、知らず知らずのうちに立ち上がり、鏡のように光る瞳でそれを見つめていた。

 悪夢は消えていた。

 けれど、遠くはない現実であることを、ロワールは感じていた。

 状況は座礁と同じなのだ。

 ここへ来てから、もうどれだけの月日が過ぎただろう。


 気が付いた時には、見知らぬ男達がロワールハイネス号を操っていて、この小さな島へ来ていたのだ。そこは白い砂浜がある静かな湾で、渚を透明な波が洗っていた。そんな穏やかな光景に似つかわしくない男達は、皆日に焼けた屈強そうな者ばかりで十数名。彼等は島についたその日のうちに、なんと縛り上げたロワールハイネス号の乗組員を、次々と船から下ろしたのだった。

 そして、緑深い島の中心部へ連れ去った。ちらりと城壁が見えたので、その建物の中へ恐らく連れて行かれたのだと思う。


 ロワールがこの静かな湾に停泊していたのは一週間にも満たない。記憶は何故か朧げではっきりしないが、まるで自分の姿を隠すようにこの切り立った崖の間の窪みへ連れてこられてから、すでに一ヶ月がたとうとしている。

 男達は一切姿を見せない。

 自分を船鐘に封じ込めたヴィズルさえも。

 誰も人が乗っていないロワールハイネス号は、忘れ去られ、うち捨てられたようにこの秘密の場所へ放置されていた。あたかも時が止まったかのように。


「私――いつまでここにいるのかな……」

 ひょっとしたら、もう二度と。

 ロワールは慌てて体を震わせた。

 再び不安にかられ、弱気になる自分が嫌だった。いや、日に日に気力が萎えてきているのは事実である。

 船の精霊は船体を失えば当然消滅するが、日々船と接する人間の想いを感じていないと、その存在を維持する事ができなくなる。それは、彼女が想いを糧に生きているということに他ならない。


「……消えちゃう前に、もう一度シャインに会いたいな……」

 ロワールはぽつりとそうつぶやいて、再びその場に腰を下ろし、膝を抱えた。

 目の前の海の色は、余計にその思いを募らせる。

 淀み一つない、青とも緑ともいえない彼の瞳と、静かなまなざしを思い出し、ロワールは口元をほころばせて微笑した。

 一人じゃない気がした。

 海を見ているうちに、体が冷たくなるような不安は去り、シャインの存在がより強く見出せるような気がしてきた。


「うう……シャインが私を放っておくわけない。命名式でそう誓ったんだから」


 ロワールは両手の肘を膝の上に置き、顔を包み込むように手を添えた。

 姿勢を正して再び碧海の彼方へ目をこらす。

 シャインは必ず来る。ロワールを迎えに。

 だからその時の為にできるだけ力を温存して、備えなければならない。


「私は消えないわよ~。シャインに言いたい事、たっくさんあるんだから!」

 唇を噛みしめて、ロワールはにんまりと笑みを浮かべた。


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