4-17 ジャーヴィス兄妹
朝日のやわらかい光が白いレースのカーテン越しに射しこみ、石造りの病室を明るく照らしている。
穏やかな安らかさを覚えながら目覚めたジャーヴィスは、白っぽい石の天井を、以前よりはっきりした意識で見ている自分に気がついた。
薄い掛け布団の下で、伸ばした肢体に力を込め、もぞもぞと動かす。
今まで感じていた背中の傷の痛みやしびれが、さほど気にならないくらい、薄らいできたと思う。
ふと人の気配を感じて、ジャーヴィスは天を仰いだまま目を細めた。
「いや~びっくりしましたぜ。ジャーヴィス副長」
静寂を破る陽気な男の声が、ジャーヴィスの療養している病室の中で明るく響いた。
「いいや、もうー何もかも驚いたっていうか……」
コツコツと重いブーツのかかとが石床を鳴らし、声の主がこちらへ近付いてきた。大きな黒い影がジャーヴィスのベッドの上に落ちる。
「お前……」
一瞬目を見張ったジャーヴィスは、ベッドの傍らに立っている人物と視線を合わせ、ふっと口元に皮肉めいた笑みをもらした。
潮焼けした褐色の肌。人のよさそうな緑色のタレ目。隆々した筋肉が窮屈そうに、濃紺の海軍の制服の中に収まっており、無精者のせいで伸ばしっぱなしの黒髪を、後ろで一つに束ねている――がっしりした男。
「シルフィード。どうしてここに」
ジャーヴィスは久方ぶりに見る、元気そうな航海長に安堵感を覚えた。
シルフィードは褐色の肌のせいで一際目立つ、白い歯をみせながらにんまりと微笑した。
「それは俺が聞きたいですぜ、副長。一体何があったっていうんですかい? 折れた腕の怪我が治ったから、復帰の手続きに本部へ行ったのに、聞いた話によれば、ノーブルブルーの船が三隻も海賊にやられたっていうじゃあないですか。まさか、副長がそれに巻き込まれていたなんて、思ってもみませんでしたぜ?」
「……だからここへ来たのか。すまんな、心配かけて」
ジャーヴィスはそうつぶやくと、両腕に力を入れて上半身を起こそうとした。
シルフィードが手を貸そうとしたが、ジャーヴィスは首を振り、その必要がないことを示す。ジャーヴィスは自力で身を起こし、軽く息をついてベッドにもたれた。
「体はもう大分いいんだ。傷も塞がったしな。医者がきたら今日明日にでも、ここを出るつもりだということを、言おうと思ってる」
「そうですかい? なんでもひどい怪我だったらしいじゃないですか」
シルフィードの緑のガラス玉のような目がわずかにうるむ。
「らしいな。もう大丈夫だが、私はあの時の事をあまりよく覚えていなくてね。ノーブルブルーへ命令書を渡す任務について、ラフェール提督が乗艦するファスガード号で砲撃を受けたんだ――それで」
ジャーヴィスは眉間をしかめ、思わず手を添えた。
一瞬頭から足の先まで細かな震えが走る。
木の弾け飛ぶ音。ガラスの砕け散る音。
無我夢中でシャインの腕をつかみ、床に伏した。
――恐ろしい夜。
「シルフィード」
ジャーヴィスはふとシャインの事を思い出して口を開いた。
「艦長に会ったか? 実は昨日……私の所へ来た……らしいのだが、私は眠っていて、言葉を交わす事はなかったんだ」
シルフィードはゆっくりと首を振った。
「いいえ。会ってないです。海軍省で副長の負傷を先に知ったもんだから、急いでここへ来たんで。……そうそう」
シルフィードはそわそわしながらジャーヴィスを見た。陽気な大男の顔が、驚く程不安げに暗い色をたたえている。
「ロワールハイネス号はどうなっちゃったんですかい? 本部で聞いたんですが、なんでも海賊に奪われたっていうじゃないですか!」
「……何だと?」
ジャーヴィスは目を見開き、その鋭い眼光をシルフィードへ向けた。
今の言葉は聞き捨てならない。ありえない話だ。
「ロワールハイネス号が? そんな馬鹿な。ヴィズルの奴が船をみていたはずなんだ。どうして海賊なんかに? ……何をやっていたんだ、あいつは!」
ジャーヴィスは訳が分からず、ぐっと両手を握りしめた。
「ヴィズル? ヴィズルって誰です?」
ジャーヴィスの形相に少しひいているシルフィードが、冷や汗を浮かべながら恐る恐る尋ねる。
無意識の内に歯ぎしりしていたジャーヴィスは我に返った。
「あ、ああ……お前が知るわけなかったな。すまん。お前の代わりにロワールハイネス号の航海長として乗せた、商船あがりの若い男だ。艦長の知り合いだか何だか知らんが、口の悪い礼儀知らずな奴でな……」
際限なくヴィズルへの不満が口先まで出かかり、ジャーヴィスはぎりぎりそれを抑え込んだ。
「そんなことより、もっと詳しい話を知っていたら教えてくれ。私はずっとここへ入れられていて、お前より状況がわからないんだ」
「……はぁ……」
シルフィードはジャーヴィスから視線をそらせ、困惑した表情を浮かべたまま頭をかく。
「俺もよくは知らねぇんですが、とにかく本部で教えてもらった事は、ロワールハイネス号が海賊に襲われて、その乗組員もすべて行方不明だっていうんです。副長……。クラウスの奴と一緒じゃあなかったんですかい? 何で副長と艦長だけが、アスラトルへ帰ってこられたんです?」
シルフィードの声に普段のような明るさはなかった。ジャーヴィスはそれに少しだけ胸が痛んだ。クラウスはシルフィードにとてもなついていたからだ。
そこでジャーヴィスは、先日ノーブルブルーへ命令書を渡す任務についたことを、簡単にシルフィードへ話して聞かせた。クラウスが嵐の海で酷い船酔いになってしまったため、ロワールハイネス号へ残すことになったことを。
ファスガード号に乗っていたのはシャインと自分の二人だけで、その後戦闘が起ったため、ロワールハイネス号へ戻れなかったのだということも。
ジャーヴィスとシルフィードは暫し黙ったまま、行方不明になった乗組員達の顔を思い浮かべ、その安否を案じた。
「副長……グラヴェール艦長のことですがね」
大きくため息を一つついて、シルフィードは傍らの丸椅子に腰を下ろした。
ぽつぽつと生えている短い無精髭の顎を、大きな右手でせわしなくしごく。
「どうした?」
ジャーヴィスの声に、シルフィードは肩をすくめた。
「現在一ヶ月の陸上謹慎処分中だそうですぜ。ロワールハイネス号を奪われたせいで。幸い、軍法会議にはかけられなかったそうですけど」
「……」
ジャーヴィスは白い天井をじっと見上げた。
処分が軽すぎるな、と一瞬思った自分に思わず怒りを覚える。
生きてアスラトルへ帰ってこれたのは、シャインのおかげだというのに。
「そうか……。ロワールハイネス号がなくなり、艦長は謹慎処分。どうやら我々は、乗るべき船を失ってしまったということだな」
「ええ……」
言葉少なげにシルフィードがうなずく。
暫し訪れた沈黙を気にしながら、虚空を彷徨うジャ-ヴィスの目に、白いエルシャンローズの花が映った。出入り口のドアの左隅に置かれているチェストの上に、誰かが数輪花瓶に生けてくれている。
こぼれおちそうな大輪の花は、窓から差し込む柔らかな朝の光を受けて、透き通るような光沢を放ち、生命力に溢れ、実に瑞々しい。
「だがここでぼんやりするヒマはないぞ。艦長の事だ。ロワールハイネス号が行方不明だというのに、大人しく謹慎処分を受けているとは考えられん」
ジャーヴィスはエルシャンローズを見つめながら、目を細めてつぶやいた。
昨日シャインがここへ来たのは知っている。
眠っていたというのは実は嘘。
言葉を交わせばシャインのことだ。自分を気遣っていらぬ詫びを口にする。
呑気にこんなところで療養している自分と違い、シャインはアスラトルへ帰ってからも、事後処理に追われているはずなのだ。
貴重な空き時間を割いてまで、ここへ来る必要はない。
そう思ったからこそ、眠ったふりをして、彼が早く立ち去る事を願った。
「副長?」
シルフィードが腰を浮かせる。
「……あの人から詳しい事情が聞きたくなった。船を失った責任は私にもあるからな」
ジャーヴィスは足を動かし、そろそろとベッドからそれを下ろした。両手でベッドの縁をつかんで、ゆっくりと立ち上がろうとする。
「おっと!」
不意にぐらついたジャ-ヴィスの上半身を、シルフィードの太い腕が素早くつかむ。ジャーヴィスはシルフィードに一瞬だけ身を預けると、そのごつい肩に手を置いて、小さく微笑しながら自分の足で立った。
「ありがとう。はは――すっかり体がなまってしまったな」
支えにしていたシルフィードの肩から手を放し、ジャーヴィスは照れたようにうつむいた。
トントン!
その時部屋のドアをノックする音が響いた。
朝食の時間だろうか? きっと修道女に違いない。
ジャーヴィスは白い寝巻き姿のまま「どうぞ」と答えた。
「失礼します」
開いたドアから部屋に入ってきたのは、若い二人の女性だった。
「……!」
ジャーヴィスは思っても見なかった来客に度胆を抜かれ、呆然とした表情でベッドの縁に腰を下ろした。
「お兄様!?」
「ジャーヴィス!」
ぱたぱたと足音がして、茶色の髪に淡いオレンジ色のドレスをまとった女性――ジャーヴィスの実妹である、ファルーナが駆け寄ってきた。
シルフィードはそそくさと部屋の壁際にその大きな体を寄せ、ファルーナのために場所を開けてやった。
「あらあら……そこにいるのはロワールハイネス号の」
ちょっとすました声でシルフィードに視線を合わせたのは、濃紺のケープがついた海軍の航海服をまとい、肩まで流れるような黒髪をなびかせた、紅の瞳を持つ女性士官。
ロワールハイネス号と同様、後方支援業務に携わるファラグレール号艦長、リーザ・マリエステルその人だった。シルフィードは壁際に立って背筋を伸ばし、直立不動の姿勢をとった。
「どうも、その節は」
しゃちこばりながらリーザを見つめ、軽くウインクして、白い歯をキランと光らせるようにアピールする。リーザは営業スマイルでそれに答えた。はなから相手にはしていないらしい。
「お兄様――どうしましょう……私……!」
ジャーヴィスより明るめの茶髪をすっきりアップでまとめ、ドレスより少し濃いめのリボンをつけたファルーナは、いつになく動揺している様子でジャーヴィスの前に立った。白い顔が青ざめ、唇が震えている。どうしたらいいのかわからなくて戸惑っている様子だ。
いつものおっとりした妹らしからぬ表情に、ジャーヴィスは眉をひそめ、真顔でリーザと、その後ろに控えているメイドのライラを交互に見つめた。
「体の具合はどう? ジャーヴィス」
目があったリーザは、ファルーナを落ち着かせるようにその肩に手を置き、口を開いた。
「大丈夫だ。心配してもらってすまない。リ……いや、マリエステル艦長」
にっこりとリーザが微笑んだ。
その微笑に内心怯えつつ、ジャーヴィスは言葉を続ける。
「何かあったのか? それに二人連れ立って……?」
黙ったままシルフィードは、ファルーナへ木の丸椅子をすすめる。
「ありがとうございます」
ファルーナに礼を言われて、シルフィードはすっかり鼻の下を伸ばしている。
きれいなお姉さんには目がないシルフィードのことだ。後で『あんな可愛らしい妹さんがいたなんて、信じられないですぜ~』などと、軽口を叩くだろう。
彼の行動の素早さに舌を巻きつつ、ジャーヴィスは後で覚えておけよ、と言わんばかりにシルフィードをにらんだ。
ファルーナは険しいジャーヴィスの視線に気付く事なく、椅子へ腰を下ろした。その後ろにリーザが立つ。
「ジャーヴィスの妹さんとは、海軍省のエントランスホールで出会ったの。それよりジャーヴィス。グラヴェール艦長ここに来てないわよね?」
ジャーヴィスは目をしばたいた。
「ファルーナから聞いてないのか? 昨日の午後、私の見舞いに来たらしいが、それ以後は知らないぞ。あの人がどうかしたのか?」
ファルーナとリーザは顔を見合わせ、疲れたようにめいめい息を吐いた。
「……いないんですって」
「……いない?」
ジャーヴィスの声にファルーナが力なくうなずく。
やがて彼女はうつむきがちのその顔を、ゆっくりと上げ、キッと淡い青の瞳をジャ-ヴィスに向けた。ぷっと頬がふくらんでいる。
「お兄様の意地悪」
「意地悪って? ……ファルーナ?」
ただならぬ妹の怒りを感じ、ジャーヴィスの額に汗が浮かぶ。
「リーザさんから聞きました。エルシャンローズを下さったあの方は、お兄様の上官の方だったのに。なぜ、私にお名前を教えて下さらなかったのですか?」
「そっ……それは……」
それにはいろいろジャーヴィス側の理由がある。シャインは忙しい身故、ファルーナが押し掛けたら迷惑になるだろうし、やっぱり会えないかもしれないし、それに……。
脳裏で自分が最も嫌う“言い訳”を考え、ジャーヴィスは言葉を濁した。
「はいはい、時間が惜しいから、兄妹ゲンカは後程やっていただくことにして」
軽くせき払いをして、リーザが割り込んだ。
「ファルーナさんはね、ジャーヴィス。海軍省の受付で一生懸命抗議していたのよ。教えてもらったグラヴェール艦長の実家にも間借先にも行ってみたけれど、留守だって」
「留守……? それはおかしいですぜ。艦長は謹慎中なのに。ひょっとしてまさか」
黙って聞いていたシルフィードが口をはさむ。
シルフィードの口調の変化に、ジャーヴィスは彼が何を想像しているのか瞬時に悟った。
「……ロワールハイネス号を探しに行ったというのか?」
「やっぱりジャーヴィスもそう思う?」
動揺のかけら一つ見せずリーザが言う。やけに落ち着き払っているその様子に、ジャーヴィスは違和感を強く感じた。
「やっぱりってどういうことなんだ? 艦長、君は何を知っている?」
リーザはふふふ、と小さく笑いを漏らし、黒髪をなびかせながら首を振った。
「その可能性はあると、グラヴェール中将閣下がおっしゃっていたからよ」
「グラヴェール中将……?」
何でここでシャインの父親の名前が出るのか、ジャーヴィスはますます困惑してリーザを見つめた。
「あのね、ジャーヴィス。私がここへ来た理由は、実はグラヴェール中将からあなたを連れてくるように命じられたからなの。けれどあなたはまだ療養中の身でしょ? 起きあがれても歩けるかどうかは分かりませんが、と言ったら」
「……入っても構わないかね?」
少し掠れ気味の、落ち着いた声がした。
ジャーヴィスとシルフィードはお互い顔を見合わせ、表情を凍り付かせたまま、しばしその場から身動き一つできずにいた。
出入り口のドアに頭をぶつけそうになりながら、濃い金茶色の髪を後ろにかき上げている、背の高いがっしりした男が入ってきた。黒いシンプルな軍服には、金色の将官を表す肩章だけが光っている。
「グラヴェール中将閣下……」
ジャーヴィスは、小刻みに震えだした両手を押さえ込むように、思わずそれを強くにぎりしめた。




