表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第4話 碧海の彼方
129/332

4-17 ジャーヴィス兄妹

 朝日のやわらかい光が白いレースのカーテン越しに射しこみ、石造りの病室を明るく照らしている。

 穏やかな安らかさを覚えながら目覚めたジャーヴィスは、白っぽい石の天井を、以前よりはっきりした意識で見ている自分に気がついた。

 薄い掛け布団の下で、伸ばした肢体に力を込め、もぞもぞと動かす。

 今まで感じていた背中の傷の痛みやしびれが、さほど気にならないくらい、薄らいできたと思う。

 ふと人の気配を感じて、ジャーヴィスは天を仰いだまま目を細めた。


「いや~びっくりしましたぜ。ジャーヴィス副長」

 静寂を破る陽気な男の声が、ジャーヴィスの療養している病室の中で明るく響いた。

「いいや、もうー何もかも驚いたっていうか……」

 コツコツと重いブーツのかかとが石床を鳴らし、声の主がこちらへ近付いてきた。大きな黒い影がジャーヴィスのベッドの上に落ちる。

「お前……」

 一瞬目を見張ったジャーヴィスは、ベッドの傍らに立っている人物と視線を合わせ、ふっと口元に皮肉めいた笑みをもらした。


 潮焼けした褐色の肌。人のよさそうな緑色のタレ目。隆々した筋肉が窮屈そうに、濃紺の海軍の制服の中に収まっており、無精者のせいで伸ばしっぱなしの黒髪を、後ろで一つに束ねている――がっしりした男。


「シルフィード。どうしてここに」

 ジャーヴィスは久方ぶりに見る、元気そうな航海長に安堵感を覚えた。

 シルフィードは褐色の肌のせいで一際目立つ、白い歯をみせながらにんまりと微笑した。


「それは俺が聞きたいですぜ、副長。一体何があったっていうんですかい? 折れた腕の怪我が治ったから、復帰の手続きに本部へ行ったのに、聞いた話によれば、ノーブルブルーの船が三隻も海賊にやられたっていうじゃあないですか。まさか、副長がそれに巻き込まれていたなんて、思ってもみませんでしたぜ?」

「……だからここへ来たのか。すまんな、心配かけて」


 ジャーヴィスはそうつぶやくと、両腕に力を入れて上半身を起こそうとした。

 シルフィードが手を貸そうとしたが、ジャーヴィスは首を振り、その必要がないことを示す。ジャーヴィスは自力で身を起こし、軽く息をついてベッドにもたれた。

「体はもう大分いいんだ。傷も塞がったしな。医者がきたら今日明日にでも、ここを出るつもりだということを、言おうと思ってる」

「そうですかい? なんでもひどい怪我だったらしいじゃないですか」

 シルフィードの緑のガラス玉のような目がわずかにうるむ。


「らしいな。もう大丈夫だが、私はあの時の事をあまりよく覚えていなくてね。ノーブルブルーへ命令書を渡す任務について、ラフェール提督が乗艦するファスガード号で砲撃を受けたんだ――それで」

 ジャーヴィスは眉間をしかめ、思わず手を添えた。

 一瞬頭から足の先まで細かな震えが走る。

 木の弾け飛ぶ音。ガラスの砕け散る音。

 無我夢中でシャインの腕をつかみ、床に伏した。

 ――恐ろしい夜。


「シルフィード」

 ジャーヴィスはふとシャインの事を思い出して口を開いた。

「艦長に会ったか? 実は昨日……私の所へ来た……らしいのだが、私は眠っていて、言葉を交わす事はなかったんだ」

 シルフィードはゆっくりと首を振った。

「いいえ。会ってないです。海軍省で副長の負傷を先に知ったもんだから、急いでここへ来たんで。……そうそう」

 シルフィードはそわそわしながらジャーヴィスを見た。陽気な大男の顔が、驚く程不安げに暗い色をたたえている。


「ロワールハイネス号はどうなっちゃったんですかい? 本部で聞いたんですが、なんでも海賊に奪われたっていうじゃないですか!」

「……何だと?」

 ジャーヴィスは目を見開き、その鋭い眼光をシルフィードへ向けた。

 今の言葉は聞き捨てならない。ありえない話だ。


「ロワールハイネス号が? そんな馬鹿な。ヴィズルの奴が船をみていたはずなんだ。どうして海賊なんかに? ……何をやっていたんだ、あいつは!」

 ジャーヴィスは訳が分からず、ぐっと両手を握りしめた。

「ヴィズル? ヴィズルって誰です?」

 ジャーヴィスの形相に少しひいているシルフィードが、冷や汗を浮かべながら恐る恐る尋ねる。

 無意識の内に歯ぎしりしていたジャーヴィスは我に返った。


「あ、ああ……お前が知るわけなかったな。すまん。お前の代わりにロワールハイネス号の航海長として乗せた、商船あがりの若い男だ。艦長の知り合いだか何だか知らんが、口の悪い礼儀知らずな奴でな……」

 際限なくヴィズルへの不満が口先まで出かかり、ジャーヴィスはぎりぎりそれを抑え込んだ。

「そんなことより、もっと詳しい話を知っていたら教えてくれ。私はずっとここへ入れられていて、お前より状況がわからないんだ」

「……はぁ……」

 シルフィードはジャーヴィスから視線をそらせ、困惑した表情を浮かべたまま頭をかく。


「俺もよくは知らねぇんですが、とにかく本部で教えてもらった事は、ロワールハイネス号が海賊に襲われて、その乗組員もすべて行方不明だっていうんです。副長……。クラウスの奴と一緒じゃあなかったんですかい? 何で副長と艦長だけが、アスラトルへ帰ってこられたんです?」

 シルフィードの声に普段のような明るさはなかった。ジャーヴィスはそれに少しだけ胸が痛んだ。クラウスはシルフィードにとてもなついていたからだ。


 そこでジャーヴィスは、先日ノーブルブルーへ命令書を渡す任務についたことを、簡単にシルフィードへ話して聞かせた。クラウスが嵐の海で酷い船酔いになってしまったため、ロワールハイネス号へ残すことになったことを。

 ファスガード号に乗っていたのはシャインと自分の二人だけで、その後戦闘が起ったため、ロワールハイネス号へ戻れなかったのだということも。

 ジャーヴィスとシルフィードは暫し黙ったまま、行方不明になった乗組員達の顔を思い浮かべ、その安否を案じた。


「副長……グラヴェール艦長のことですがね」

 大きくため息を一つついて、シルフィードは傍らの丸椅子に腰を下ろした。

 ぽつぽつと生えている短い無精髭の顎を、大きな右手でせわしなくしごく。

「どうした?」

 ジャーヴィスの声に、シルフィードは肩をすくめた。


「現在一ヶ月の陸上謹慎処分中だそうですぜ。ロワールハイネス号を奪われたせいで。幸い、軍法会議にはかけられなかったそうですけど」

「……」

 ジャーヴィスは白い天井をじっと見上げた。

 処分が軽すぎるな、と一瞬思った自分に思わず怒りを覚える。

 生きてアスラトルへ帰ってこれたのは、シャインのおかげだというのに。


「そうか……。ロワールハイネス号がなくなり、艦長は謹慎処分。どうやら我々は、乗るべき船を失ってしまったということだな」

「ええ……」

 言葉少なげにシルフィードがうなずく。

 暫し訪れた沈黙を気にしながら、虚空を彷徨うジャ-ヴィスの目に、白いエルシャンローズの花が映った。出入り口のドアの左隅に置かれているチェストの上に、誰かが数輪花瓶に生けてくれている。

 こぼれおちそうな大輪の花は、窓から差し込む柔らかな朝の光を受けて、透き通るような光沢を放ち、生命力に溢れ、実に瑞々しい。


「だがここでぼんやりするヒマはないぞ。艦長の事だ。ロワールハイネス号が行方不明だというのに、大人しく謹慎処分を受けているとは考えられん」

 ジャーヴィスはエルシャンローズを見つめながら、目を細めてつぶやいた。


 昨日シャインがここへ来たのは知っている。

 眠っていたというのは実は嘘。

 言葉を交わせばシャインのことだ。自分を気遣っていらぬ詫びを口にする。

 呑気にこんなところで療養している自分と違い、シャインはアスラトルへ帰ってからも、事後処理に追われているはずなのだ。

 貴重な空き時間を割いてまで、ここへ来る必要はない。

 そう思ったからこそ、眠ったふりをして、彼が早く立ち去る事を願った。


「副長?」

 シルフィードが腰を浮かせる。

「……あの人から詳しい事情が聞きたくなった。船を失った責任は私にもあるからな」

 ジャーヴィスは足を動かし、そろそろとベッドからそれを下ろした。両手でベッドの縁をつかんで、ゆっくりと立ち上がろうとする。

「おっと!」

 不意にぐらついたジャ-ヴィスの上半身を、シルフィードの太い腕が素早くつかむ。ジャーヴィスはシルフィードに一瞬だけ身を預けると、そのごつい肩に手を置いて、小さく微笑しながら自分の足で立った。

「ありがとう。はは――すっかり体がなまってしまったな」

 支えにしていたシルフィードの肩から手を放し、ジャーヴィスは照れたようにうつむいた。


 トントン!


 その時部屋のドアをノックする音が響いた。

 朝食の時間だろうか? きっと修道女に違いない。

 ジャーヴィスは白い寝巻き姿のまま「どうぞ」と答えた。

 「失礼します」

 開いたドアから部屋に入ってきたのは、若い二人の女性だった。

「……!」

 ジャーヴィスは思っても見なかった来客に度胆を抜かれ、呆然とした表情でベッドの縁に腰を下ろした。


「お兄様!?」

「ジャーヴィス!」

 ぱたぱたと足音がして、茶色の髪に淡いオレンジ色のドレスをまとった女性――ジャーヴィスの実妹である、ファルーナが駆け寄ってきた。

 シルフィードはそそくさと部屋の壁際にその大きな体を寄せ、ファルーナのために場所を開けてやった。


「あらあら……そこにいるのはロワールハイネス号の」

 ちょっとすました声でシルフィードに視線を合わせたのは、濃紺のケープがついた海軍の航海服をまとい、肩まで流れるような黒髪をなびかせた、紅の瞳を持つ女性士官。

 ロワールハイネス号と同様、後方支援業務に携わるファラグレール号艦長、リーザ・マリエステルその人だった。シルフィードは壁際に立って背筋を伸ばし、直立不動の姿勢をとった。

「どうも、その節は」

 しゃちこばりながらリーザを見つめ、軽くウインクして、白い歯をキランと光らせるようにアピールする。リーザは営業スマイルでそれに答えた。はなから相手にはしていないらしい。


「お兄様――どうしましょう……私……!」

 ジャーヴィスより明るめの茶髪をすっきりアップでまとめ、ドレスより少し濃いめのリボンをつけたファルーナは、いつになく動揺している様子でジャーヴィスの前に立った。白い顔が青ざめ、唇が震えている。どうしたらいいのかわからなくて戸惑っている様子だ。

 いつものおっとりした妹らしからぬ表情に、ジャーヴィスは眉をひそめ、真顔でリーザと、その後ろに控えているメイドのライラを交互に見つめた。


「体の具合はどう? ジャーヴィス」

 目があったリーザは、ファルーナを落ち着かせるようにその肩に手を置き、口を開いた。

「大丈夫だ。心配してもらってすまない。リ……いや、マリエステル艦長」

 にっこりとリーザが微笑んだ。

 その微笑に内心怯えつつ、ジャーヴィスは言葉を続ける。


「何かあったのか? それに二人連れ立って……?」

 黙ったままシルフィードは、ファルーナへ木の丸椅子をすすめる。

「ありがとうございます」

 ファルーナに礼を言われて、シルフィードはすっかり鼻の下を伸ばしている。

 きれいなお姉さんには目がないシルフィードのことだ。後で『あんな可愛らしい妹さんがいたなんて、信じられないですぜ~』などと、軽口を叩くだろう。

 彼の行動の素早さに舌を巻きつつ、ジャーヴィスは後で覚えておけよ、と言わんばかりにシルフィードをにらんだ。

 ファルーナは険しいジャーヴィスの視線に気付く事なく、椅子へ腰を下ろした。その後ろにリーザが立つ。


「ジャーヴィスの妹さんとは、海軍省のエントランスホールで出会ったの。それよりジャーヴィス。グラヴェール艦長ここに来てないわよね?」

 ジャーヴィスは目をしばたいた。

「ファルーナから聞いてないのか? 昨日の午後、私の見舞いに来たらしいが、それ以後は知らないぞ。あの人がどうかしたのか?」

 ファルーナとリーザは顔を見合わせ、疲れたようにめいめい息を吐いた。


「……いないんですって」

「……いない?」

 ジャーヴィスの声にファルーナが力なくうなずく。

 やがて彼女はうつむきがちのその顔を、ゆっくりと上げ、キッと淡い青の瞳をジャ-ヴィスに向けた。ぷっと頬がふくらんでいる。


「お兄様の意地悪」

「意地悪って? ……ファルーナ?」

 ただならぬ妹の怒りを感じ、ジャーヴィスの額に汗が浮かぶ。

「リーザさんから聞きました。エルシャンローズを下さったあの方は、お兄様の上官の方だったのに。なぜ、私にお名前を教えて下さらなかったのですか?」

「そっ……それは……」


 それにはいろいろジャーヴィス側の理由がある。シャインは忙しい身故、ファルーナが押し掛けたら迷惑になるだろうし、やっぱり会えないかもしれないし、それに……。

 脳裏で自分が最も嫌う“言い訳”を考え、ジャーヴィスは言葉を濁した。


「はいはい、時間が惜しいから、兄妹ゲンカは後程やっていただくことにして」

 軽くせき払いをして、リーザが割り込んだ。

「ファルーナさんはね、ジャーヴィス。海軍省の受付で一生懸命抗議していたのよ。教えてもらったグラヴェール艦長の実家にも間借先にも行ってみたけれど、留守だって」

「留守……? それはおかしいですぜ。艦長は謹慎中なのに。ひょっとしてまさか」

 黙って聞いていたシルフィードが口をはさむ。

 シルフィードの口調の変化に、ジャーヴィスは彼が何を想像しているのか瞬時に悟った。


「……ロワールハイネス号を探しに行ったというのか?」

「やっぱりジャーヴィスもそう思う?」

 動揺のかけら一つ見せずリーザが言う。やけに落ち着き払っているその様子に、ジャーヴィスは違和感を強く感じた。

「やっぱりってどういうことなんだ? 艦長、君は何を知っている?」

 リーザはふふふ、と小さく笑いを漏らし、黒髪をなびかせながら首を振った。


「その可能性はあると、グラヴェール中将閣下がおっしゃっていたからよ」

「グラヴェール中将……?」

 何でここでシャインの父親の名前が出るのか、ジャーヴィスはますます困惑してリーザを見つめた。

「あのね、ジャーヴィス。私がここへ来た理由は、実はグラヴェール中将からあなたを連れてくるように命じられたからなの。けれどあなたはまだ療養中の身でしょ? 起きあがれても歩けるかどうかは分かりませんが、と言ったら」

「……入っても構わないかね?」

 少し掠れ気味の、落ち着いた声がした。


 ジャーヴィスとシルフィードはお互い顔を見合わせ、表情を凍り付かせたまま、しばしその場から身動き一つできずにいた。

 出入り口のドアに頭をぶつけそうになりながら、濃い金茶色の髪を後ろにかき上げている、背の高いがっしりした男が入ってきた。黒いシンプルな軍服には、金色の将官を表す肩章だけが光っている。


「グラヴェール中将閣下……」

 ジャーヴィスは、小刻みに震えだした両手を押さえ込むように、思わずそれを強くにぎりしめた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ