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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第4話 碧海の彼方
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4-14 風の気配

 リオーネが退出した後、アドビスは自分付きの副官をデスクに呼び寄せ、状況を確認させた。

 一番事情を聞きたい人間はツヴァイスであるが、彼はすでにウインガード号で、ジェミナ・クラスに向けて出港した後だった。


「定時連絡によるとウインガード号は、17時30分の出港を30分繰り上げたそうです。グラヴェール中将閣下」

「そうか」


 二十五才ぐらいの若い女性――参謀司令官付き副官のアイルは、きりっとした目元を細め、淡々とした口調でつぶやいた。挽いたリラヤ豆をまぶしたような濃い茶色の髪を高々と結い上げ、両耳にウエーブした前髪の房が垂れている。

 背はアドビスの胸に届かないくらい小柄な女性だが、体のラインが出てしまう灰色の軍服をきっちりと着こなしている辺り、バランスがとれた美しい体型の持ち主であろう。

 しかしアドビスは違う意味で彼女の事を買っていた。忙しない自分のスケジュールをしっかりと管理し、精力的にあちこち動き回る行動力と体力を。


「……それから、エスペランサ後方司令が執務室におられましたので、閣下がお呼びだということを伝えておきました」

「ご苦労。……今夜はもういい。明日一番にまた来てくれ。アイル」

「わかりました」


 副官が機敏な動きで部屋を出る。それを執務席に座ったままちらりと目線で認めた後、アドビスはリオーネが用意してくれた夕食のパンをつまんで口へ放り込んだ。トッピングの薄くスライスした白身魚と柑橘類の果実を絞った、さわやかな味が口の中に広がる。料理が不味いわけではないが、アドビスは眉間をしかめて軽く息をついた。


「ツヴァイス……」

 アドビスは執務椅子に背中を預け、天井をにらんだ。

 ツヴァイスから事情を聞くなら、すぐさま足の早い船を出してウインガード号に追いつき、アスラトルまで引き返させる。それか、アドビス自らがジェミナ・クラスへ赴く。

 しばし天井を仰いで、アドビスは結局ツヴァイスを泳がせることにした。

 ウインガード号に追いついた所で、ツヴァイスを問いつめても、返事は知らないの一点張りだろう。ツヴァイスが疑わしいだけであって、海賊を水兵としてノーブルブルーの軍艦に乗せていたという証拠が今はない。


 ツヴァイスの性格はわかっているつもりだった。昔、アドビスの船の副官をしていた彼は、裏で物事を秘密裏に処理する能力に長けていた。海賊である月影のスカーヴィズとの密会も、ツヴァイスがつなぎ役として有能さを発揮したため、誰にも知られることなくできたのだ。

 最も――二十年前。リュイーシャの死によって、ツヴァイスはアドビスから自ら離れていったのだが。

 痛烈な批判と共に。


 ふとアドビスは頬をかすめた風の気配に身を強ばらせた。しかし、執務席の右側にある、出窓の前に下ろされたカーテンは揺れていない。

 窓は開いていないと分かっているのに、アドビスは風を感じた頬に右手を添えた。

 目を閉じた暗闇に、ほのかに微光を帯びた人影が浮かび上がる。今も鮮やかに、かの人の声が自分の名を響かせる。

 二十年という長い歳月が過ぎ去った。流れゆく時が、その喪失感をいくばくかでも癒してくれることを願っていたのに。

 神は忘却という赦しをアドビスには与えてくれなかった。

 リュイーシャが身替わりのように遺した、シャインという存在がある故に。

 伏せたまつげの下からのぞく、彼女と同じ青緑の瞳。それは何時も自分の機嫌をうかがうように、けれど一抹の侮蔑を込めて向けられる。


 そう、それでいい……。

 自然と込み上げる可笑しさに、口元がひきつるのをアドビスは感じた。


 お前は私を憎めばいい。

 お前のその顔を見るだけで、私の心はほんの少しだけ安らぐのだ。

 あのひとを傷つけ、あまつさえその命を奪った、私が受けるべき当然の報いなのだから。


 アドビスは大きな両手で顔を覆い、前髪を払った。感傷的な時間をすごすのはこれまでだ。それを告げるように、扉を弱々しく叩く音がした。

「遅くなって申し訳ありません、グラヴェール参謀司令」

 部屋の中に入って来たのは、アドビスに呼びつけられていた、エスペランサ後方司令官のひょろっとした姿だった。

 アドビスは内心高まっていた期待感が消沈するのを感じていた。ちらりと時計を見やり、20時を10分以上過ぎているのを確認する。

 シャインがそろそろ来てもいい頃なのだが。


「すまんなエスペランサ。呼びつけておいて何だが、お前への用はやっぱりやめにした」

「えっ……」

 あんぐりと口を開き、やや白目を充血させたエスペランサが絶句した。広い額にだらだらと汗をかき、おどおどした態度の彼は、しばらくアドビスを見ていたが、気が抜けたように大きなため息をついた。

 恐らく自分の仕事を放り出して、ここまで走ってきたのだろう。アドビスは僅かばかり気の毒に感じ、自分の考えを口にした。


「いや、実は今宵17時ごろ出港したウインガード号を追うため、後方の足の早いスクーナーを1隻調達してもらうつもりだったのだ。だが、今急ぐこともないと考え直した。だから、お前への用はないということだ」

「そ、そうですか」

 喘ぎながらエスペランサはつぶやいた。

 ぜいぜいと鳴る喉の音を聞きながら、アドビスはふと尋ねた。

「ちなみにジェミナ・クラス方面へ行く船はあるか?」

「は、ええと、足の早さは普通ですが、ファラグレール号が明日出港することになってますので、いつでも動かせます」

「どこにいる? 艦長の名前は?」

「南の第3突堤に係留してます。艦長はマリエステル」

「わかった。ご苦労だったな」


 未だツヴァイスを追うことをあきらめきれないようだ。アドビスは動きたい気持ちをぐっとこらえて、再び机の上に置かれたシャインの報告書へ手を伸ばした。

 シャインの字を追いながら、一ペ-ジも読み終わらないうちに、アドビスは思わず頭を振った。

 苦い物を噛み潰したように、しかめた顔を嫌々上げながら。

「エスペランサ、どうした。もう下がってくれればいいぞ」

 執務机の前に立ち、ちらちらと自分を見るその弱々しい姿がうっとおしい。

「あっ、はい閣下! それはわかっておりますが……」

 緊張のあまり声が裏返っているエスペランサ。

「用があるなら早く言え。私は忙しい」

 かみつくようにアドビスが吠えると、エスペランサの額から汗のしずくがつつーと流れ、細長い顔を伝って床へ滴った。


「ああああ、あの、御子息のグラヴェール艦長のことなのですがっ」

 ぎろり。

 ランプの光を受けてアドビスの瞳が黄色く光る。

 ロワールハイネス号の所属は後方支援艦隊だから、シャインにとってエスペランサは直属の上官になる。

「どうした」

「はっ、はい」

 アドビスににらまれているせいか、エスペランサは体中に大量の冷や汗をかいていた。首筋に垂れるそれを、たまらず襟飾りで拭う。

「あの、先日転属を願い出たのです。ノーブルブルーヘの」

「……なんだと!」

 アドビスは両手を執務机についたまま、思わず椅子から立ち上がっていた。

 天を割るほどの雷鳴のような大音響で叫びながら。


「ひいいっ……!」

 まるで取って食われるかと思ったのだろうか。エスペランサは長細い両手で頭を抱え込み、がちがちとを歯を鳴らした。

「それでお前は許可したのか! えっ?」

「きょ……許可、いたしました……」

 鼻息荒いアドビスの剣幕にすっかりびびったエスペランサは、目をぐっとつぶって、震える声で叫んでいた。

「馬鹿者! お前はノーブルブルーに関わることが、今どれだけ危ないかわかっているのか!? それに何故一言私に、先に知らせない!」

「も、申し訳ありませ……そのっ!」

 アドビスは右腕一本でエスペランサの襟首を掴み、その細い体を持ち上げていた。足先が床から数センチ浮き上がる高さまで。

 首をへし折るのは実に簡単だ。そうしてやりたい熱い欲望を、どれだけ抑え続けることができるだろうか。


「本当……にっ、申し訳……、苦しい……」

 エスペランサの顔色がみるみる青ざめてきたので、アドビスはこめかみをひきつらせながら、やっとの思いで襟首を放した。

 飲み込んでも沸き上がるいら立ちと怒りのせいで、体が震える。

 エスペランサは足に力が入らず、そのまま床へ尻をついて倒れた。首を右手でさすりながら、ぜいぜい喘ぐ。喘ぎながら、あきらかに怯えきった目つきでアドビスを見た。

「本当に、申し訳……ございません。ですが、御子息が、閣下にすでに話は通してあると、申しましたので……」

「出ていけ!!」

 鋭く一喝したアドビスに、エスペランサは息も絶え絶えになりながらも、身を起こしてふらふらと扉まで向かった。


 アドビスは両手を執務机に置いたままうなだれていた。

 逃げるように扉を閉めてエスペランサが出ていったのを音で確認し、アドビスはやおら、両手に作った拳で机を打ちすえた。硬い机のせいで、痛みよりも感覚を麻痺させるようなしびれが両手に広がる。

 アドビスは震える手で懐中時計を取り出した。

 その蓋を開け損なって、何度目か後。

「20時45分……」

 遅い。

 何をしているのだ、シャインは。

 

 アドビスはいいようのない焦りを感じて自室を出た。

 リオーネに命令書を託したのは19時すぎだった。

 軍港から歩いて15分とかからない所にある間借先にシャインがいるのなら、一時間以内にここへ来れるはずである。

 アドビスはうなりながら階段を下りた。

 シャインが自分を嫌っているのは分かっている。自らそう仕向けたからだ。

 しかし、シャインが今まで自分の命令に背いたことは一度もなかった。

 あの息子は、仕事に対しては私情をはさまない、できた人間だから――。


 アドビスはいつしか海軍省別館の出入口まできてしまっていた。警備に立っている中年男二人を見ながら、不安げに辺りを見回す。

 シャインが今にも扉を開けて、入ってくることを思いながら。

 だがその気配は一向に感じられない。

 アドビスは高ぶってきた心を落ち着かせるため、階段付近の壁に背中を預け、小さくため息をもらした。

「ノーブルブルーへ入りたいなど……何故だ」

 混乱した頭の中を整理しなければならない。

 そう思ったアドビスは、思わずはっと息を詰めた。

「ノーブルブルー……」

 

『ツヴァイス司令官と話がしたいのです――』


 アドビスは口の中で大きく呻いた。

 シャインはファスガード号を失った報告を、ツヴァイスにしたかったのではない。ツヴァイスに、ノーブルブルーへの『転属の話』をしたかったのだ。

 アドビスは壁に背中を預けたまま、しばし身を固く強ばらせていた。

 その時、別館の出入口の扉が開いて、急ぎ駆けてくる足音がホ-ル内に響いた。顔を上げたアドビスは、自分を見つけて近寄ってくる、濃紺の制服を着た若い士官の姿を認めた。

 肩が上下に揺れて息が乱れている。


「グラヴェール中将閣下。先ほど、海原の司・リオーネ様より預かった命令書の件ですが」

 アドビスはうすく微笑を浮かべ、大きく息つく士官の顔をながめた。

「留守だったのだな、あれは」

「はっ。いろいろお探ししたのですが……」

 士官はうなだれて首を振った。

「馬鹿者が……」

 そうつぶやいたアドビスの声を聞いて、士官はますます畏縮する。

 それに気付いたアドビスは、一言「お前ではない」とつぶやき、静かにその肩を叩くと、別館の出入口から外へ出た。


 シャインはおそらくツヴァイスと同行して、ウインガード号に乗ったに違いない。

 ならば、早く連れ戻さなければ。

 ツヴァイスが動く前に。

 アドビスの姿は、まとっている将官服と同じ濃さの闇の中へ、消えていった。


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