4-13 相容れぬもの
しばし時はさかのぼる。
乳白色の壁にモノトーンの屋根を持ち、柱や窓枠も同色で統一されたエルシーア海軍省の建物を、黄昏のオレンジ色が強くなった曙光が降り注ぐ頃。
海軍省の裏に建っている、双生児のようにそっくりな、別館2階にある自室を出たアドビス・グラヴェールは、さらに階段を上がって4階にある、アリスティド統括将の執務室を訪れていた。
統括将は事あらば、王都にいる国王の代わりに、独断で全艦隊の指揮をとることを許されている、エルシーア海軍最高位の階級だ。
齢六十を前にしたアリスティドは、数年前に急死したアドビスの父親と友人同士だったため、若い時からのアドビスを良く知る人物であった。
エルシーアの海を示す碧色に、錨と剣を組み合わせ、その周囲を金色の錨綱がぐるりと取り巻いている軍旗を背に、アリスティドは執務席に座していた。
若かりし頃、陽に輝いていた金髪は色褪せてすでに白くなっているが、アドビスを見る茶色の瞳の眼光は鋭く、がっしりした体躯であり、ペンを取る動作一つとっても、猟犬のようにしなやかで隙をみせない。
そんなアリスティドの正面に立ち、アドビスは口頭で、ノーブルブルーの船三隻が襲撃された事件の調査経過を報告した。
「二十年前の“スカーヴィズ殺し”を、こんな形で思い出す事になるとはな。アドビス」
「……」
アリスティドの言葉にアドビスは頭を下げたものの、大きく表情は崩さなかった。本当は、焼けた針で心臓を突かれたように、胸に熱く鋭い痛みが走ったのだが。
二十年前。
決して忘れることなどできないあの夜――。
すべてを失った。
大切なものを何もかも。
「アドビス。今はお前の思うようにやるがいい」
アリスティドはじっとアドビスを見つめた後、面をうつむかせて書類にペンを走らせながら静かにつぶやいた。
「……私はしばらく、お前のやり方を見ていよう」
アドビスは長身をかがめて頭を垂れた。少ししわがれた――けれども威厳を感じさせるアリスティドの声は明瞭で、自分を責めない温かみが感じられたからだ。
国王から預かった、海軍の最高クラスの船が、海賊によって三隻も沈んでしまったというのに。
アドビスは知っている。
王都ミレンディルアでは大変な騒ぎになっていて、アリスティドの元へ連日国王コードレックの親書を携えた高官達が、状況を報告するようせっついているのを。
「ありがとうございます。アリスティド閣下。私怨ゆえに海軍へ迷惑をかけた事、改めてお詫びいたします」
再び頭を下げたアドビスを、咎めるようにアリスティドが顔を上げた。
「そんなことはどうでもいい。それよりアドビス、お前はこれからどうするつもりだ?」
アリスティドの問いにアドビスは口元をひきしめたまま、右手に持った黒いファイルをしっかりと脇へはさみ直した。握る手に更に力を込める。
「海賊はすべて捕らえるまで。情報を集め根城を特定次第、ただちに捕らえに行きます。この私自身が」
獲物を追う鷹のように、その青灰色の瞳が、凄絶で鋭く、残虐な光を宿す。
『来るなら来ればいい。私はそれを、拒みはしない』
◇◇◇
アリスティドの執務室を後にして、アドビスは所用を数件片付け再び二階の自室へと戻った。
長い右腕にはアリスティドに渡すつもりだった、シャインの報告書のファイルがはさまれたままになっている。
実はアドビス自身がそれに目を通したくて、アリスティドから一晩借りる事にしたのだった。
黒檀の扉の前に立ち、金色の取っ手に手をかけて回すと、ガチャリと錠が下りている音がした。
そういえば――あれから数時間たっただろうか。
シャインがツヴァイスと話がしたいと言うので、部屋を使わせてやったのだった。
話が終わったら、帰る時に下の警備の人間に声をかけて、戸締まりするよう頼んで。鍵がかかっていることから、どうやら二人の話はすでに終わっているらしい。
アドビスは将官服のズボンのポケットを探り、腰の金鎖につけた部屋の鍵を取り出した。
開錠して部屋の中に入る。
中は傾いていく陽のせいで薄暗い。いや、出窓のカーテンが閉まっているせいだ。アドビスは構わず、部屋の奥の執務席に向かった。
ファイルを机の上に置き、手早くランプに火を灯す。そして肩に羽織っていた暗褐色の緋のマントを脱いで、机の側のスタンドにひっかける。ゆったりとした執務椅子にその大柄な体を沈め、軽く息を吐いた。
今夜はここで夜を明かすつもりだった。
アドビスはファイルを手元へ引き寄せ、その黒表紙をめくった。骨白色をした紙に黒に近い濃紺色のインクで、流れるようなそれでいてすっきりとした、シャインの字が目に入る。
その内容は、シャイン自身が感じた事や考えた事は一切記述がなく、実際見聞きした事実のみだけが、淡々とした表現で記されていた。
部屋の中ではアドビスが報告書のページを繰る、乾いた音のみが響いていた。そして、どれくらいの時がすぎただろうか。
アドビスの思惑は、部屋の扉を軽く叩く音で破られた。口の中で唸りながら、アドビスは呟いた。
「誰だ」
邪魔されたくなかったので、カーテンも閉じたままにしておいたのに。
苛立ちのせいでアドビスの口調はとげとげしかった。
「リオーネです」
扉の外で穏やかな夜の気配を伴った声が返る。
アドビスは肩の力を抜いて、強ばったまぶたを両手で軽くほぐした。
「開いている」
「……失礼いたします」
衣擦れの音を小さく立てつつ、淡いグリーンのケープを羽織ったリオーネが静々と中に入ってきた。
ふわっと香ばしい香りが漂ってきて、シャインの報告書から顔を上げたアドビスは思わず欠伸を漏らした。
「アドビス様の所在を警備に尋ねた所、まだ別館をお出になっていないと教えて頂きましたので、きっとこちらにいらっしゃると思いましたの」
リオーネはアドビスの邪魔にならないよう、白いティーカップを執務机の上に置いた。カップの中では暗褐色のリラヤ茶が、覚醒作用を促す香しい匂いを立てている。その隣へ、食べやすいよう小口大に切ったパンをのせた銀の小皿を置く。パンの上には、ハムや柑橘類の果汁でさっぱり和えた白身魚のサラダ等が、色とりどりにのっている。
「急いで作ってきたものですから、あり合わせのものしかご用意できなくて」
リオーネは申し訳なさそうに目を伏せた。長い睫が白い肌の上に影を落とす。
「いつもすまんな。私は今夜ここですごすから、そなたは早く休むがいい」
アドビスはしかめていた眉間の緊張をやわらげて、リオーネに薄く微笑してみせた。リオーネはほっとしたように、新緑の色をした瞳をゆっくりと細める。
「お気遣いありがとうございます。アドビス様……あの、ノーブルブルーの船を襲ったのは、やはり月影のスカーヴィズと縁のある者でしたの?」
アドビスは軽くうなずいた。香りに誘われるまま、リラヤ茶のカップに手をのばす。
「スカ-ヴィズの息子が彼女の跡目を継いで、エルシーアに帰ってきた」
リオーネは目をしばたいた。
「彼女の息子……。それであなたを恨んでいるというわけなのですね」
「だろうな」
アドビスはティーカップに口をつけた。少し濃いが、その渋みで鈍りかけていた思考が再び目覚めていくのがわかる。
「スカーヴィズは彼が自分の息子だというのを隠していたがな。海賊の社会は実力のある者しか指導者として認めない。今現在の頭の息子が、果たして有能であるかどうか? まったく期待外れだと、その子供は船に居場所がなくなってしまう。それに現役を退く時、後継者をめぐって無駄な争いが起きる。スカーヴィズはヴィズルが、実力で自分の次の頭になるのを――期待していたのだろうな」
「アドビス様。一体どうなさるつもりです? その者はあなたの命を必ず狙うでしょう」
リオーネがアドビスの座る執務椅子の傍らへ寄ってきた。
「私は海賊に屈するつもりはない。来るのなら、迎え撃つだけだ」
しゃらん……。
リオーネが右手を胸の前に上げた動作で、淡いグリーンのケープについた小さな金細工が触れあい音をたてる。
「この二十年……あなたは多くの海賊を狩ってきました。時に命が危うかった事もありました。いつになったら――おやめになるのです?」
いくばくか震えているその声に気付いたものの、アドビスの表情は依然硬かった。
「リオーネ。私は自らの責務を果たしているだけにすぎぬ」
「いいえ」
先程よりずっと力強く、凛とリオーネが言い放つ。
「あなたは、リュイーシャを失ってから、人柄が変わってしまいました。お気持ちは分かりますわ。私だって……つらかった。けれど姉は、あなたを助けたくて、生きていて欲しくて、術者の禁忌を犯したのです。それなのにあなたは……何かに憑かれたようにエルシーア海をかけめぐり、自ら戦いを求めておられるようでした。海軍の軍人としての務めだからという理由ではありません。あなたは……海賊を憎み、死に場所を探している……」
アドビスはファイルから目を上げて、口元に不敵な笑みを浮かべた。
「海軍と海賊は本来相入れぬものだ。エルシーア海から海賊船の最後の一隻を駆逐するまで、私の戦いは終わらない」
「アドビス様……」
リオーネはしばし口を閉ざし、肩を震わせた。自分を心配しているその心を察しながら、けれどもアドビスは敢えて彼女の方を向かず呟いた。
「だが二十年待った甲斐があった。そなたが胸を痛める事も、まもなくなくなるだろう」
「アドビス様、それは……」
だがアドビスはリオーネの声に応えず、再びファイルへ集中した。リオーネが何か言いたげに自分を見つめる気配を感じる。しかしアドビスは顔を上げなかった。
リオーネが小さく嘆息し、ケープの金細工が不機嫌そうに鳴る。軽く頭を垂れ、退出するためリオーネがきびすを返していった。
その時、シャインの字を追うアドビスの目に、気になる一文が止まった。
『――アストリッド号には昔の仲間を乗り込ませた。水兵として五年間』
アドビスは頬杖をついて青灰色の目をしかめた。
さらに行を追う。
『――エルガ-ドもまた然り。信じていた者に裏切られる者の気持ちなど、あの男にはわかるまい』
アドビスはファイルを閉じて、おもむろに立ち上がった。その慌ただしい音に、リオーネがアドビスの方へ振り返る。
「まさか……」
アドビスの脳裏にひとつの可能性が浮かび上がる。
新規に大量の人員を雇う場合、ノーブルブルーだと司令官であるツヴァイスの承認が必ずいるのだ。ツヴァイスは何も知らなかったのだろうか?
だが事情を聞こうにも、アストリッド号の艦長兼、艦隊の総指揮をツヴァイスから任じられていたラフェールや、エルガード号艦長ディスポラ、ファスガード号艦長ルウム。この三人は船と運命を共にして既にこの世にいない。先日個人的に尋問した、士官の生き残りであるファスガード号副長のイストリアも、いきなり襲われたと繰り返すばかりで、実は海賊である水兵達が、どんな手段で船に乗り込んでいたまで知らなかった。
「アドビス様、大丈夫ですか?」
リオーネの声にアドビスは我に返った。
両手を握った拳に力が入っていたので、それを静かにゆるめる。
「大丈夫だ。少し、気になる事があってな。リオーネ、すまないがそなたに頼みができた」
アドビスは将官服の上着の内ポケットを探り、銀の懐中時計を取り出した。
蓋を開けて時刻を確認すると、19時をすぎたところだ。
「下の詰所へ立ち寄り、シャインを至急ここへ連れてくるよう言ってくれ」
アドビスは執務席の引き出しを開けて、白紙の命令書を取り出しペンを走らせた。
「……アドビス様」
机の正面に立っているリオーネが、いつになく浮かない顔で声を漏らした。
アドビスが差し出した命令書を、蔑むような視線で見つめている。
「リオーネ、急いでくれ。私はあれから聞きたい事があるのだ」
「アドビス様。それは、海賊を捕らえるため……ですか?」
「そうだ」
アドビスはいらいらした口調でつぶやいた。けれども片頭痛に襲われたように眉間をしかめ、重苦しい表情のリオーネは命令書を受け取ろうとしない。
「どうしたリオーネ。シャインは間借り先に戻っているはずだ」
「――どうして、あの子なのです」
その細い喉から絞り出すような声は、じつに苦し気だった。
リオーネは真っ向からアドビスを見据えていた。
「シャインはもう充分、自分の務めを果たしたではありませんか! 何故そっとしてくれないのです。あんなに辛い目にあったというのに。あなたは何一つあの子に優しい言葉をかけて下さらない。いつも、ご自分の事ばかり――!」
リオーネは不意に口を閉ざした。感極まって大きく頭を振り乱しアドビスから目を背ける。
「リオーネ」
アドビスは眉をしかめた。彼女の気持ちはわからなくもない。
先月大切な弟子の一人である、海原の司を務めていたハスファルを、アストリッド号が襲撃された際に失ったばかりなのだ。その時の心労が重なり気が昂っているのだ。
うつむいてしまったリオーネの、軽くウエーブした白金の髪の一房がぱらりとその青白い顔に落ちた。
「お願いです……あの子を、シャインを、あなたの憎しみに巻き込まないで下さい。私はリュイーシャのように、シャインを失いたくないのです」
新緑の葉に宿る夜露のしずくが、リオーネの白い頬の上を伝っていた。
アドビスはリオーネの流す涙を見ながら唇を噛みしめた。左まぶたの古傷が、この二十年、海賊を狩る事にかまけて作った体中の傷が、一斉に疼く。
リュイーシャという名を聞く度に。その面影を色濃く見せつける、シャインのまなざしを見る度に。
アドビスは傷の疼きをうっとおしく感じながら、できるだけ穏やかな表情を浮かべようと努力した。
「案ずるな、リオーネ。シャインにはただ、もっと詳しい話を聞きたいだけなのだ。シャインしか知らない事がある。それを私は聞かねばならぬ。だから、話が終わったら、当分あれを船に乗せない事を約束しよう」
「本当……ですか?」
かすれた声でリオーネが言った。消え入りそうな、とても小さな声だった。
「ああ。何なら二人で<西区>の屋敷ですごせばいい。執事のエイブリーが喜ぶだろう。そなたも疲れているのだ。いろんなことがあったからな。ここを離れて、静かな場所で休むのだ、リオーネ」
アドビスは席を立ち、リオーネの傍らへ歩み寄った。右手を彼女の細い肩へ回して扉へと導く。
「大丈夫ですわ……。取り乱してしまってすみません」
ゆっくりと扉まで歩いてきたリオーネは、目をそっと伏せて頭を下げた。
アドビスも思わず彼女へ軽くうなずいてみせた。
リオーネは今までずっと、本当の母親のようにシャインの事であれこれと気を配ってくれていた。リュイーシャを死なせてしまった負い目から、父親らしく振る舞えない自分の代わりに。
アドビスにとっても、リオーネの存在はとても大きかった。
彼女がいなかったら、自分はもとい――シャインはどうなっていただろう。
物思いにふけっていたアドビスの前に、リオーネがさっと右手を差し出した。
「命令書は出しておきます。けれど、アドビス様。シャインのこと、約束守って下さいませ」
「わかっている」
アドビスは再びうなずいた。その約束を違えるつもりは毛頭ない。
安心したリオーネが、やっと目元をゆるめて微笑んだ。




