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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第1話 レイディ・ロワール
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1-11 思わぬ出来事(2)

 エリックのかん高い声が風に乗って聞こえてきた。

それを耳に留め、シャインは舵輪を素早く左へ回した。ぎりぎり舵がきくぐらいの速度しか出ていないので、船が反応するだろうか不安を感じた。けれど船の舳先は徐々に河の中央へと動いていく。


「……いいじゃないか」


 シャインは思い出したかのように息を吸って吐いた。

 無意識の内に唇に笑みを作る。


 ロワールハイネス号の舵の反応は思っていたより早い。けれどそれ故にどうしても針路がふらつく傾向にあるようだ。シャインは船が望む方向へ進みだしたのを確認し、再び舵輪を回して舵を中央へ戻した。そして船がまた左へ動く前に取り舵を取り様子をみた。


 ロワールハイネス号はシャインの目指す方向を維持したまままっすぐ進んでいる。やはり早めの当て舵が必要なようだ。

 河は海と違って波がない。これで船の操作性を見極めるのは難しいが、それでもシャインは満足感を覚えた。彼女は繊細で素直な船だと思う。


 けれど処女航海へ出る時に彼女の舵輪を握るのはシャインではなく航海長マスターのシルフィードだ。シルフィードは航海士として十年の実務経験があるので、この度航海長に昇進してロワールハイネス号へ来た。彼ほどの腕なら、難なく彼女を扱うことができるだろう。


「さて……そろそろ小船で本船を引くのをやめてもよさそうだな」


 ロワールハイネス号は何も障害物のない、河の真ん中へ移動しつつあった。軍港まではさらに三十分ほど下らなくてはならないので、皆が船に戻ってきたらすぐ展帆しなければならない。日暮れ前のせいか、河を行き交う漁船の姿もなく、万一ロワールハイネス号が制御できない事態が起こったとしても、それらと衝突する恐れはない。


 今のうちに小船の連中を呼び戻そう。

 シャインは舵輪が勝手に動かないように、握りの部分にロープを掛け固定した。

 そして船首にいるエリックを呼び寄せて、小船に乗るジャーヴィスへ、ロワールハイネス号へ戻る旨を伝えてもらうため、彼の所に行こうとした――その時だった。


「うわっ! ジャーヴィス副長こっち見て下さい!」


 エリックが舳先の突端で小船に向かって叫んでいる。割れんばかりの大声で。

 シャインはエリックのただならぬ様子に異変を感じた。船首へと急ぎ甲板を駆ける。エリックは茶色の髪を振り乱しながら必死に小船へ叫び続けている。


「エリック、どうした?」

「あっ、艦長。ほら、牽引用のロープがほつれてるんです! うわ! もう切れそう」


 シャインは見た。ロワールハイネス号を引っ張るため船首からのばされたロープが、小船の船尾までの中間地点でじりじりとほつれだしているのだ。シャインは刹那、呆然とした。牽引用ロープは細いロープを何本も束ねてよっているので、通常それが切れるのは考えられない。


「ジャーヴィス副長! ただちにロープを捨てて本船から離れろ!」


 シャインは前方の小船に向かって声を張り上げた。このままの状態でロープが切れると、その衝撃で小船が転覆するかもしれない。そして運が悪ければ、後続のロワールハイネス号が転覆した船と衝突する危険もあった。

 シャインとエリックの声に気付いて、ジャーヴィスがようやく後方を振り返った。水兵達がめいめいロープの異変に気付いて指差している。


「エリック! 手伝ってくれ。右舷の主錨を下ろして船を止める」

「はい」


 シャインとエリックは舳先から離れた。そのまま背後の揚錨機へとりつき、錨がずり落ちないように固定している楔を二人がかりで抜く。鎖の鳴る音がして、右舷に釣り下げていた主錨が落下した。


「艦長。ジャーヴィス副長がロープを外しました」


 小舟の動きをいち早く確認したエリックがシャインへ報告する。


「小船はどこにいる?」

「本船の右舷百五十リール前方で待機してます」

「それだけ離れていればぎりぎり大丈夫か」


 シャインは河面に向かって順調に落ちる錨鎖から、ジャーヴィス達が乗る小船の方へ視線を転じた。ロワールハイネス号の針路を避けるように更に右手前方へと移動している。

 何はともあれ、衝突の危険は避けられたようだ。


 しかしロワールハイネス号は河の流れに乗ってまだ前進を続けている。必要な長さの錨鎖が落ちれば船はそれに引っ張られ、自然と行き足が止まる。右舷の錨鎖口からはまだ生きているかのように、銀色の太い鎖が吐き出され、緑色をした河の中へと吸い込まれていく。


 それにしてもこんなに河底は深かっただろうか。

 せいぜい三十リールあるかないかのはずである。


 シャインは相変わらず河に向かって落ち続ける鎖を見つめた。もう軽く五十リールは落ちているはずだ。船はまもなく止まりそうだが、何故錨鎖はまだ止まらない?


 シャインはその理由に気付いてぞっとした。考えられることはただ一つ。

 余った錨鎖は普段船首の船底にある『錨鎖庫』に格納されている。先端の一方は当然錨がついているが、もう一方は錨鎖庫の太い梁にぐるぐると巻き付けて鉄の留め具で固定してある。


「エリック。何か錨鎖がおかしい」

「おかしいって……? どういう風にですか?」


 シャインとエリックは船首右舷から身を乗り出して錨鎖口を覗き込んだ。

 そして信じられない光景を目の当たりにした。

 河に向かってだらだらと落ちていた鎖が不意に消え失せたのだ。正確に言えば、梁に巻き付けて固定されていたはずの錨鎖が、錨鎖口からスポンと出ていくのを見てしまったのである。


「い、錨がぁ~! 錨が、落ちた!」


 エリックが素頓狂な声を上げた。だがシャインはすでに次の行動を起こしていた。


「エリック! 手伝ってくれ。左舷の予備錨を下ろす!」

「あ、はい艦長!」


 シャインはともすれば呆然となりそうな意識をはっきりさせるために頭を振った。


 何故だ。何故錨鎖が梁から外れたんだ?

 いや今はそんなことより、船を早く止めなければ――。


 シャインは汗で濡れぼそった前髪を振り払いながら、エリックと共に左舷船縁に駆け寄りった。予備の錨は主錨よりひと回り小型で、いつでも下ろせるように舷側から外に向かって張り出した角柱にひっかかけてある。シャインは角材に捕縛してある錨の固定縛を解いた。すぐに錨が落ちないよう、エリックが固定縛を引っ張りなんとか踏ん張る。シャインは予備錨が船体を傷つけることなく、真下に落ちるように角度を調整した。


「エリック! いいぞ、手を放してくれ」

「了解しましたぁ――!」


 エリックは固定縛から手を放して、そのまま後ろへひっくり返った。もう指先一本動かすのも嫌だといわんばかりに甲板へ大の字になる。薄い胸を上下させて息を喘がせている。

 シャインは左舷の予備錨が無事に落ちるのを見届けた。それは青緑色の船体をかすることなく水面へ吸い込まれて白い飛沫を上げた。


 後は予備錨が船を止めてくれることを祈るだけだ。

 シャインは予備錨の鎖が河に落ちていく様をじっと見守った。

 考えられないが、こちらも鎖の先端がちゃんと固定できていなかったらどうしよう。

 一瞬最悪の事態を意識する。


 ジャリン!

 予備錨の錨鎖が悲鳴を上げた。シャインは我に返り、右手で船縁につかまりながら身を乗り出して、左舷の錨鎖孔を覗き見た。鎖は水面にぴんと力強く張って下に伸びていた。ロワールハイネス号も前進することなく、流されることなく河の中ほどの位置を保ったまま止まっている。


「グラヴェール艦長!」


 船が止まってから、ジャーヴィス達がロワールハイネス号に戻ってきた。小船がロワールハイネス号の右舷側にゆっくりと寄っていく。ざわざわと声がするのは、水兵達が何事かと騒いでいるせいだろう。

 シャインは大きく息をついて額を流れる汗を拳で拭った。

 予備錨が船を止めてくれたことに心から安堵した。


「ジャーヴィス副長、無事でなによりだ」


 シャインはロワールハイネス号の甲板に上がってきたジャーヴィスに向かい、強ばった笑みを向けた。しかしシャインの所へ歩いてきたジャーヴィスの顔には、明らかに動揺の色が浮かんでいる。


「いえ、我々は大丈夫ですが、錨を二つも下ろすなんてどうしたんですか?」

「どうしたもこうしたもないですよ! ジャーヴィス副長」


 甲板で伸びていたエリックが叫びながら体を起こした。


「なんかわからないんですけど、主錨の錨鎖が船から外れちまって、河に全部落としちまったんです! こんなことってありますか――?」

「……なんだって……?」


 ジャーヴィスの顔からみるみる血の気が引いていった。

 どうしてそんなことに?

 彼の鋭い瞳はシャインへそう訴えかけていた。


 そんなこと俺にきかないでくれ――。

 不意に募ってきた苛立ちを唇を噛みしめることで紛らわせながら、シャインはジャーヴィスから視線を逸らした。黙ったまま踵を返し右舷舷側へ近付く。そこからぐっと身を乗り出して錨鎖孔を覗き込んだ。

 やはり――ない。


 エリックのいう通り鎖の姿はどこにもなかった。二百リールの錨鎖と主錨を全部、エルドロインの河床に落としてしまったのだ。シャインは出そうになった溜息を無理矢理噛み殺した。部下の前でそんな態度を見せてはならない。疲れているのは自分だけじゃない。

 シャインは待機しているジャーヴィスの方へ向き直った。


「ジャーヴィス副長。エリックのいう通りだ。本船は主錨と鎖を失ってしまった」

「そんな……ほ、本当ですか?」


 ジャーヴィスが思わず疑問を返すのも無理はない。シャインだってこんな事態が起きるとは思ってもみなかった。


「それでは……」


 シャインはジャーヴィスに向かって静かにうなずいた。


「造船所へ戻って錨を再度装備する。左舷の予備錨を引き上げて、船首の三角帆とミズンマストの縦帆一枚を展帆して船を回頭させてくれ。俺は最下層甲板に下りて錨鎖庫の様子をみてくる」

「――了解しました」


 ジャーヴィスは仕方がないという風に眉間をしかめて返事をした。くるりと踵を返しシャインに背を向ける。そこにはシャインとの会話を聴いていた水兵達の疲れた顔があった


「さあ皆。造船所までちょっくら戻ることになった。帆を展帆する。配置についてくれ」

「ええっ――!」

「なんなんですか、それ!」

「うるさい! さっさと配置につけ!」


 水兵達の不満に満ちた絶叫とジャーヴィスの苛立ちが込められた怒声が甲板に響き渡る。それを聞きながら、シャインはフォアマストの後ろにある昇降口へ向かい、急な傾斜のそれをかけ下りた。



 ◇◇◇



 辺りはすっかり日が暮れて、宵闇の造船所にロワールハイネス号は戻った。そしてシャインは今日中に軍港へ行くことを諦めなければならなかった。

 主錨の再装備には、夜半一杯の時間を要する事がわかったせいである。ホープ船匠頭と共に一連の点検を終えたシャインは、ジャーヴィスに命じて総員を中央のメインマスト前の甲板に集めさせた。そして事情を説明した。


「……ホープ船匠頭と一緒に錨鎖庫をみたが、梁にはヒビも入っていなかったし、他に気になる異常はなかった。考えられるとしたら、錨鎖に不良部分があって、そこが投錨した衝撃で壊れたんだと思う」

「本当ですかい?」


 太い二の腕を組んだ航海長シルフィードが棘のある口調で呟く。緑のタレ目を細めた航海長の顔には明らかに不信感が浮かんでいた。


「異常があったから、錨鎖が外れたんじゃありませんの?」

「そうよそうよ。どっかきっと壊れてるはずだよ」


 ジャーヴィスの命令で化粧だけは落としたティーナとラティが、シルフィードの大柄な体の後に隠れたまま発言する。


「それに、曳航索が切れてしまった事も気になりますよね」


 恐る恐る発言したのは、船縁の側に立っていたクラウス士官候補生だ。くるりと渦を巻いた金髪が、生温い川風にあおられ小さく揺れている。


「そうだ。何であんな太いロープが切れちまったんだ?」

「本当に今日はおかしなことばかり起きるじゃねえか」


 水兵達が口々に思った事を言い出した。見張りのエリックも隣に立つシルフィードを真似して腕を組みながら発言した。


「やっぱこの船、命名式で祝酒のビンを割り損なったから、それで不吉なことばかり起きるんじゃ――」

「みんな、各自勝手に喋るな!」


 ジャーヴィスが一喝した。雷鳴を思わせる大きな怒声に、水兵達はぴたっと口を貝のように閉ざした。


「黙って艦長の話を聞くんだ。勝手に発言する者は今夜上陸させないからな」

「……」


 それだけは勘弁して下さい。水兵達の瞳が一斉に潤む。

 けれどシャインは彼等の顔を見てはいなかった。ジャーヴィスの隣に並んだまま、胸に一片の硝子が突き立てられたような痛みを感じていた。

 確かに今日はおかしな事ばかり起きた。通常ではありえないことばかりだ。その原因はやはりエリックが言うように、命名式のあの不手際のせいなのだろうか。


 こほんとジャーヴィスが咳払いをした。シャインの言葉を催促するかのように。

 シャインは我に返り、頬にかかる前髪を右手で払った。気を取り直して水兵達へ顔を向ける。


「今夜軍港で食料を積む予定だったが、行けなかったのでできない。よって、食事代を支給するので、各自上陸してとってくれ。船は明朝五時の上げ潮に乗って出港する。それまでに帰艦しない者は脱走とみなし本部に報告する。俺の話は以上だ。わかったら、ジャーヴィス副長から食事代をもらってくれ。それでは解散!」



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