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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第4話 碧海の彼方
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4-6 牢獄

「おや? あなたは確か、アスラトルで下りられたと思ってましたが?」

 上下同じ水色の制服に、弾倉がついた白色の肩帯をかけた中年の海兵隊員は、シャインを見ると目を細めていぶかしんだ。


「転属が決まりましてね。ジェミナ・クラスへ行くので、ツヴァイス司令が一緒にどうかと言って下さったのです」


 にこやかな微笑をその顔に浮かべ、シャインは愛想良く答えた。長年の習慣のせいだろうか。それとも無用な争いを避けたい願望か。気が滅入っていても咄嗟に笑顔ができる自分の神経が信じられない――。


「司令官殿はいらっしゃいますよ。艦長殿の方は、後部甲板で姿を見ましたが」

 海兵隊員はシャインの微笑につられるように、険しい目元をゆるめて笑みを返した。

「そうですか。ではツヴァイス司令にご挨拶をしたいので、お邪魔してよろしいでしょうか?」

「ええ、どうぞ」

 海兵隊員は長銃を抱えたまま、そっと扉から身を退けた。

「ありがとう」

 軽く頭を下げて謝意を表し、シャインは軽く握った拳で鋭く二度ノックした。

「ツヴァイス司令、グラヴェールです。入ってよろしいでしょうか」



「入りたまえ」


 あまり厚さのない艦長室の扉のせいで、柔らかな物腰のツヴァイスの声がはっきりと聞こえた。上部の甲板では水兵達が、帆走するのに最適な帆の角度を調整するため、かけ声を上げながら上げ綱を引っ張る、重い足音が響いているのだが。


 徐々に速度を増していくウインガード号は、左右に大きく船体が傾きそれを途切れることなく繰り返す。一ヶ月ほど彼女に乗っていたせいか、シャインはあまり意識しなくても、倒れないように体がバランスを取るのを感じていた。


「失礼いたします」


 そっと扉を押し広げ艦長室の中に入ると、左舷側の船尾窓の前に置かれている執務席で、ツヴァイスがこちらに背を向け座っているのが見えた。

 室内の広さは同じ等級であるファスガード号と大差ない。ただウインガード号はいつでも戦闘準備に入れるよう、艦長室の中にも左右両舷に1門ずつ大砲が配置されている。このクラスの船ではごく当たり前の事だ。


 室内には木目の美しい黒色の丸テーブルと七組の椅子が中央に置かれ、オレンジ色の炎を灯したランプがのっている。中央の船尾窓の下には、唐草模様の浮き彫りが施された豪勢なサイドテーブルがあり、航海術の本や望遠鏡、海図の類いがきっちりと収められいる。


 中央の黒色のテーブルの所まで歩み寄ると、ツヴァイスが本を閉じ、そっと銀縁の眼鏡に手を添えて顔を上げた。濃い蜂蜜色の肩まである金髪は、後ろでひとくくりに束ねられ、飾り襟をつけた白いシャツの上に流れ落ちている。将官の上着は着ておらず、光沢をおさえた深いワインレッドのベストに、黒色のスラックスという格好だ。

 シャインと目が合うと、ツヴァイスは肩をすくめて微笑した。


「まもなく夕食の時間だ。今夜は士官たちに君を紹介するから同席してほしい」

 シャインは了承の意を込めて頷いた。

「了解いたしました。乗艦したので、まずは閣下へご挨拶に参りました」

 ツヴァイスが軽く嘆息した。

「……そんなに気をつかう必要はない」


 ツヴァイスは右手を上げると目の前の椅子を指し示した。シャインはテーブルの左側を回り、ツヴァイスの執務席に近いそれに腰を下ろした。


「君に『ノーブルブルー』へ辞令が下りるのは、ジェミナ・クラスへ着いてからと思ってくれ。艦長のウェルツにもそう言ってある。だから、この一週間は骨休めと思って気楽に過ごせばいい」

「しかし……」


 シャインは内心戸惑って語尾を濁らせた。ここは軍艦で客船ではない。まして自分は一士官に過ぎないのだ。ツヴァイスのような将官ならまだしも、何も船内の仕事をしないというわけにはいかない。

 ツヴァイスは執務椅子の肘当てに腕を置くと、ゆったりと頬杖をついてシャインを眺めた。机の上に置かれている暖かいランプの灯りが、普段冷酷そうな印象を与えるその紫の瞳を、鮮やかに、そして驚く程優し気に見せている。

 その瞳が、一瞬驚いたように細められた。


「アドビスは君に謹慎処分しか与えず、尉官へ降格にはしなかったはずだが。それなのに、航海服からケープを外しているのは解せないな。何のつもりだね?」

 ツヴァイスの問いに、シャインは肩をそびやかして目を伏せた。


「以前閣下に言われた通り、身の程をわきまえようと思っただけです。今までの階級は所詮金で手に入れたかりそめのもの。ノーブルブルーでは一尉官として乗れるよう、ぜひ閣下にお願いしたく」

「シャイン」

 頬杖をついたまま、ツヴァイスがため息をついた。ため息をつきつつ、視線はこちらへひたと向けられ、その口元には薄笑いが浮かんでいる。


「君は謙遜ぶっているが、私には不快でしかないね」

「そんなつもりではなかったのですが。申し訳ありま……」

 非礼を詫びようとしてシャインは思わず口ごもった。ツヴァイスの顔から笑みが消え失せ、度の入っていない眼鏡の奥の瞳が、射すくめるように強烈な光を宿していたからである。


「私は君の目的を知っている。君はそのためにノーブルブルーを、そして、私を利用するのだ。だから、私にお願いなどと言うな」

 声を荒げてはいないが、ツヴァイスのいら立ちははっきりと感じる。以前のシャインなら、自分の心の中を彼に看破されたせいできっと動揺していた。

 しかし今回は違う。むしろツヴァイスに見抜かれている方が話がしやすく、好都合なのだ。


 シャインは青緑の瞳を伏せ、両手を膝の上で軽く組んだ。ツヴァイスは黙ったまま頬杖をつき、こちらを睨んでいる。目を合わせなくても気配で分かる。


「お怒りはごもっともです。今更ごまかす気はないので、はっきり申し上げます。俺はあなたの力でヴィズルに会う事を望んでいます。ロワールハイネス号の行方を聞き出し、彼のやろうとしていることも――阻止するつもりです」

「私がすんなりヴィズルの元へ連れていくと……思っているのかね?」


 こちらの本心を告げたせいで、ツヴァイスの顔には先程と同じ穏やかな笑みが戻っていた。頬杖を止め、すらりとした足を組み直す。何ともいえない余裕が体全体から漂っている。

 だがそれ以上にシャインは落ち着き払っていた。

 ツヴァイスに今一度、自分との取引を思い出させるために口を開く。


「遅かれ早かれ……グラヴェール中将はあなたの裏切り行為に気付くでしょう。あらゆる状況があなたを黒だと言わしめても、あの人はあなたを拘束することができない。きっと証拠がないですから。けれど俺が証言すれば、あなたの罪を立証させることができます」

 ツヴァイスはシャインから目をそらせて、残念そうに頭を振った。


「そういうことだな。私は抜け目ない君の言う事を、聞かねばならないのだよ。今捕まれば、この二十年、牢獄のような海軍で耐え忍んできた人生が、水泡に帰してしまうのでね……」

 執務席の肘当てに腕を置き、ツヴァイスはいつもの柔らかな物腰で、まるで独り言を言うようにつぶやいた。

「牢獄……?」

 思わず言葉を返すと、物思いにふけるように天を仰いだツヴァイスが、再び頬杖をついて興味深げに低く笑った。

「それがどうかしたかね?」

 身じろぎ一つせず、その紫の瞳だけがこちらへ向く。


「いえ……ちょっと意外に思ったので」

「どういう風に?」

 シャインは一瞬言うべきかどうか迷った。気分屋であるツヴァイスを怒らせてしまうかもしれない。だが、下手にごまかす方がまずいと思った。


「閣下。俺が閣下の事を存じ上げない上での非礼である事を、先にお詫びします。閣下は察するに……人並み以上の野心をお持ちだと思っていました」

 ツヴァイスは黙ったまま静かにシャインの言葉を聞いている。その沈黙は肯定の意味だろう。そうとって、シャインは再び口を開いた。


「ジェミナ・クラス軍港司令官の次席は、アスラトル軍港司令ですから、海軍での高みを目指す閣下が……何故牢獄だと言われるのか意外に感じたのです。それに……」

 シャインはふと数時間前にアドビスの執務室で、ツヴァイスと会話した時に気になっていた事を思い出した。


「言いたい事があるなら続けたまえ」

 口の端をかすかに歪めてツヴァイスがうながす。シャインは緊張している自分を落ち着かせようと、顔にかかる前髪をそっと右手で払った。


「何故、母の名前をご存知なのですか? それにご自身の保身のため、俺との取引を無効にする事は容易いはずなのに、何故甘受されるのです」

「……」


 ツヴァイスはやはり黙ったまま、顔の前で両手を突き合わせると、目を伏せてしばらくその格好でいた。船尾の窓に波が当る小さな水音と、ウインガード号の船体がぎしぎしとしなるそれだけが、二人の間に響いていく。

「少し――長い話になるな」

 ようやく口を開いたツヴァイスは、おもむろに執務椅子から立ち上がった。


「艦長達と夕食を終えた後、ここで話をしてあげよう」

 そう言い終わらないうちに、艦長室のドアをノックする重い音がした。

 給仕係が夕食の支度をしに来たのだ。シャインも席を立つ。


「ありがとうございます」

「礼には及ばん。君にも関係ある事だしな」

 ツヴァイスはまたも気になる一言をつぶやくと、部屋を横切り扉へ歩み寄った。


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