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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第4話 碧海の彼方
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4-5 宵闇の船出

 ノーブルブルー唯一の船となった2等軍艦のウインガード号は、軍港の中で最も外海に近い、第3ドックの沖合いに錨泊している。

 辺りはすっかり夜の闇に覆われていたが、海上に浮かぶかの船の白い灯りが、波の動きに合わせて上下にゆっくりと揺れるのが見える。

 シャインは不思議な気持ちでそれを眺めた。

 三日前にアスラトルへ帰港した時、再び彼女に乗る事になろうとは考えもしなかったから。


 石段を降りて桟橋に近付くと、そこには一隻のボートが係留されていて、カンテラを掲げた士官候補生が今か今かとシャインを待っていた。

「間に合いましたね、グラヴェール艦長。まもなく出港ですよ」

 クラウスと同じ位の年だろうか。彼より少し小太りでしゃくれ顔の少年だ。

 そばかすの多い頬を上気させ、ほっとしたような笑みを浮かべている。


「確か17時30分だと聞いていたが……?」

 時間にはまだ余裕があるはずだと思い、少し驚きつつ言葉を返すと、候補生は大きくうなずいた。

「はい。でも港外へ出るのに良い風が吹いてきたので、30分繰り上げるとツヴァイス司令がウェルツ艦長へ言ってました」

「そうか……」

 シャインがボートに乗り込むと、候補生は船尾の席について舵を取るため舵柄を握った。的確な号令で水兵達に、ボートを漕ぐよう命じる。




 10分とたたないうちに、シャインの乗ったボートはウインガード号へ着いた。

 甲板では出港間近であることを示すように、白いシャツ姿の水兵達が展帆作業にかかるため、担当のマストに召集されている。


「ようこそウインガード号へ。またご一緒する事になるとは思いませんでしたが」

 シャインを出迎えたのは、すでに顔見知りである副長のウインスレッドだった。三十代前の大木のような長身の男で、いつも愛想の良い笑みを浮かべている。ゆるくウエーブがかった茶色っぽい金髪が、メインマストの停泊灯に照らされて鈍く光る。

「またお世話になります。ウインスレッド副長」

 軽く頭を下げて挨拶を交わす。


「ツヴァイス司令からの指示で、下の左舷側の士官部屋を空けています。そこをお使い下さい」

 ウインスレッドはそういうと、ぐるりと甲板を見回した。案内に手ごろな者を探すように。

「ウインスレッド副長。どうぞお構いなく。こちらには以前一ヶ月いましたから、一人で大丈夫です」

 シャインがそういうと、長身の副長は息をついて微笑した。

「そうしてもらえますか。何しろ出港が30分早まりましてね。ウェルツ艦長の機嫌が良くないのですよ。……おい! 積荷がまだ甲板に出しっ放しだぞ!」

 両手を口元へ当ててウインスレッドは、よく通る声で怒鳴った。

「それでは、また出港後に」

「ええ」


 明らかに焦りを見せながら、ウインスレッドは船首の方へ走っていった。

 その背中をちらりと見て、シャインは鋭くきしむ鉄と滴り落ちる水音を聞いた。右舷側の錨鎖のものだ。錨を上げるために、船首甲板下にある巻上げ機を水兵達が回し始めたようだ。

 頬を湿った風が撫でていく。若干弱いが、外海に出るには十分だ。

 シャインは着替えを入れた鞄を左手に持ち替えると、そちらに背を向けて船尾のミズンマストの方へ歩き出した。




 ミズンマストが上下に貫く短い螺旋階段を下りて、そこから船尾側を見ると、長銃を持ち艦長室の扉の前で歩哨に立っている、水色の制服を着た海兵隊員の姿があった。

 主に連絡文書や積荷を運搬するロワールハイネス号と違い、常に戦闘用員の海兵隊がいるここは、より軍艦であることを強く意識させられる。

 しかしノーブルブルーには、水兵として海賊が乗り込んでいた。

 表向きその事実はまだ伏せられている。だが明らかにそれを危惧したせいだろう。ウインガード号は、先日半数の水兵が、アスラトルの待機要員と入れ替えられた。


 ――何度水兵を入れ替えても無駄だろうな。


 自分の心臓の音を聞くのと、同じくらいの確信をもってそう言える。

 ウインガード号の艦長ウェルツは、ツヴァイスの実の甥にあたる人物だ。気さくな副長ウインスレッドだって、ウェルツの元で二年以上ウインガード号に乗っている。そしてなによりツヴァイスは、人事部にアルバールという太いパイプを持っている。ツヴァイスにとって自分の都合の良い水兵を乗せる事は、それほど難しくはない。


 シャインは言われた通り、船尾左舷側の士官部屋の薄い扉を開けた。天井に吊されているランプがぶらぶら左右に大きくゆれて、シャインの影法師をあちらこちらと投げかけている。

 中は人一人足が伸ばせるかどうかの木の寝台と、小さなクローゼット(机を兼用)と、上着をかけられるように、船壁に釘が数本打ち付けられているだけの質素な部屋だ。


 寝台の上に鞄を置き、シャインもそこへ腰を下ろした。 

 一息つく間もなく鞄を開けて、航海用の濃紺の上着を取り出すと袖を通す。

 ケープは外し襟元に階級を示す、白い二本のラインが袖にも入ったやつだ。

 間借り先の部屋から着てもよかったが、海軍の士官と分かる格好で街を歩きたくなかったのだった。


 そう、誰も自分が今、ウインガード号に乗っているという事を知らない。

 ――知られたくない。


 アドビスがいつ気付くだろうか。

 気付いたら、何と言うだろうか。

 自分に関心の無いあの男の事だから、このまま放っておいてくれるだろうか。


 シャインはそちらの可能性を切に願った。

 元はといえば、アドビスとヴィズルの間にある私怨のせいで、ノーブルブルーが襲撃され、ロワールハイネス号が巻き込まれてしまったのだ。


 万一、ロワールハイネス号に何かあったら――。


 全身の肌が粟立ち、潮のように体中の血が引いていく。膝の間で組んだ両手に力がこもり、爪が肉にくい込む痛みすら感じないほど、シャインは床の一点を見つめ、その存在を強く意識していた。

 気付いてやれなかった。ロワールハイネス号で起っていた事を。海に浮かぶその姿を目にしただけで安心してしまったのだ。

 彼女は自分を呼んでいたのに。

 

 痺れてきた両手をやっと振り解き、青ざめて冷たい頬へそれを当てる。

 まぶたを閉じると、嫌が応でもロワ-ルの顔が浮かんでくる。

 いつも怒っているか、笑っているはずなのに、目の前で立っている彼女の透き通った瞳はうるんでいた。


「ロワール」

 目を開けると同時に伸ばした右手は空をかいた。

 ゆらゆらと黒いシャインの影法師が、板張りの壁で踊っている。

 シャインはしばし、それをじっと見つめていた。壁の向こう、海を隔てた遥か彼方にいる彼女へ、自らの思いを伝えるように。

 

 

 

 着替えを終えてシャインは、ざっと髪を編み直した。ツヴァイスと、いれば艦長のウェルツに挨拶をしなければならない。鞄を片付けて、ふと忘れ物をしたことに気付いた。午前中あった葬儀の際、ラフェール夫人からもらった剣を部屋に置いて来てしまったのだ。あれを使う事になるかもしれないが、ウインガード号はもう錨を上げた。取りに戻る事はできない。

 ただラフェールの剣は、彼自身が艦隊をまとめる指揮官として、その地位を部下に知らしめる意味を持っている。ファスガード号での指揮をラフェールはシャインに委任した。だから、あの時は使う事に迷いはなかった。

 

 どのみち今の自分には分不相応な剣だ。ここへ持ってくれば艦長のウェルツが良い顔をしない。等級外の船の艦長であるシャインと、2等軍艦ウインガード号のウェルツとは二階級違う。

 ツヴァイスはもとより、その甥であるウェルツも実は苦手なタイプだから、ジェミナ・クラスに着くまで穏便にすませたいのが本音だ。

 アスラトルへ戻る航海中何度か言葉を交わしたが、気難しくて寡黙で、自らのやり方に口を出されることを嫌っていた。

 そしてアドビスを嫌うツヴァイスの影響か、シャインに対してもよい感情を持っていないのがはっきりとわかるくらい、よそよそしい態度をとっていた。

 ノーブルブルーは海賊退治専門の艦隊であるため、いずれジェミナ・クラスで新しく再編成されるだろう。できればこのウェルツの船には乗りたくないものだ。


 シャインは苦い笑みを口元へ浮かべ、士官部屋から外へ出た。

 天井からは相変わらず、甲板を走り回る多くの足音が響いている。鋭く吹き鳴らされる銀の笛の音と共に。上では帆を広げる作業が本格的に始まったせいで、ウインガード号が風を受け、徐々に力強く前進しているのがわかる。


 ロワールハイネス号の軽快なそれには、遠く及ばないが。

 伸びをすれば天井に手をぶつけてしまう――あのこじんまりした艦長室におさまり、クラウスの煎れてくれたシルヴァンティーを飲みながら、ロワールの無邪気な話に耳をかたむける。時に、ジャーヴィスに邪魔されながら。

 そんな他愛無い時間を、どうしても取り戻したいと思った。

 あそこしか、自分が自分でいられる場所はどこにもない――。


「ツヴァイス司令、もしくはウェルツ艦長はここにいらっしゃいますか?」

 艦長室の扉の前で歩哨に立っている海兵隊員に、シャインは声をかけた。


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