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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第4話 碧海の彼方
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【第4話・序章】 20年前(5)

 ヴィズルはスカーヴィズのおかげで、日が沈むまでメインマストの見張り台の上で、誰にも邪魔されずにすごすことができた。

 アドビスからもらった本のページを大切にめくり、アドビスの角張った書体で注釈が入ったのを指で触り、ため息をもらす。

 まだ六才の子供である。ただでさえ専門的な言葉は難解で、また、すべての文字を覚えたわけではないヴィズルは、内容を読む以前の段階ですっかりつまずいてしまっていた。


「……で……しかるに……ロープ……必ず……船………………くっそー、わかんねぇ……」

 それでもヴィズルは、見張り台の上に腰を下ろして、じっと本を見ていた。

 いつもは聞き逃さない昼食を告げるドラの音や、心配して声をかけてくれる仲間の呼び声にすら気付かないほど本を読む事に没頭していた。


 いつしか、あたりは黄昏はじめていた。

 さすがに本を読むには明るさが足りないことに気が付き、ヴィズルはうつむいていた顔を数時間ぶりに上げた。

「もう日が暮れたのか……ふわぁぁ……」

 本を膝の上に置き、ヴィズルは両腕を上にあげて伸びをした。

 ぐぅぅ……。

 腹の虫が食べ物を催促する。さすがに疲れを感じながら、ヴィズルは前方の海を見て驚いた。

 朝、島の周辺にはヴィズルの船しかいなかったのに、今は大小合わせて十数隻の海賊船が停泊していたのだ。

 幼いヴィズルは知る由もないが、今夜月影のスカーヴィズを頭とし、エルシーア海賊達の会議が島で行われるためだった。




 夕食には余裕で間に合い、ヴィズルは自分に取り分けられたそれを瞬く間にたいらげた。今朝の豪華な朝食には遠く及ばないものだったが、実に満足感を感じていた。

 海に残飯をまいて、群がる魚を見ながら、ヴィズルの頭はひっきりなしにゆれていた。

「ヴィズル、眠いならもう寝ろ。今日は好きにしていいって、船長がいったから許してやる」

 いつになく副船長のティレグが優しく、しかも、船首にあるハンモックまで担いでいってくれた。

 半ば夢うつつの状態だったヴィズルは、すぐさま眠りの底に落ちていった。



 それからどれぐらいたっただろう。

 ヴィズルはハンモックに体を横たえたまま、ふと目を開けた。なんとなく目が覚めたのだ。

「やけに……静かだな」

 ヴィズルはハンモックから身を起こした。船内に仲間の気配はない。空のハンモックが船の横揺れに合わせて、ぶらぶら揺れているだけである。明かりは、船首のハッチへ上がる垂直のはしごの近くに吊された、ランプがひとつだけ。

 ヴィズルは眠ってしまった為、今夜島で行われる会議の事を知らされなかった。教えてもらったとしても、きっと船で留守番を命じられていただろうが。


 ヴィズルはあまりに船内が静まり返っているので、かえってそれに不安を覚えた。普段は誰かが陽気に歌ったり、しゃべったり、踊っているから。うるさくて、何度この部屋でわめきちらしただろう。

 ヴィズルは無意識に、ズボンのポケットに入れていたアドビスの本を取り出して、その表紙をなでていた。

 そうしていると、ざわざわする不安感は少しおさまった。しかし、本を見たことで、ヴィズルの頭の中には再びその難解な内容や語句、読み方の分からない単語がぐるぐると浮かんでは消えていくのだった。


「うう……気になって……眠れなくなってきた……」

 ヴィズルは湿気の多い空気のせいで暑苦しさを感じ、シャツのすそで汗ばんだ額をふいた。

「アドビスは、わからない所は、船長に教えてもらえって言った……」

 ヴィズルは意を決して、本を手にハンモックから下りた。

 そしてスカーヴィズに会うために、すでに閉じられている船首のハッチから出ることをあきらめ、大船室をつっきって、船尾のハッチへ向かった。むしろ、船尾のハッチから甲板に上がれば船長室は目の前だ。

 大船室にも人の気配はない。皆どこへ行ってしまったのだろう。ヴィズルはほんの少し疎外感を感じて悲しくなった。


 薄暗い船室を抜けると、船尾のハッチの階段から銀の月<ソリン>が見えた。

 満月である。その明るさのせいで、いつも寄り添うように昇るもう一つの月、<ドゥリン>の光がかすんでしまっている。

 ヴィズルは中空からふりそそぐ、その優しい光にほっとした。


 その時、船長室のドアが小さなきしみを立てて開くかすかな音が聞こえた。

 誰かまだ船にいる、もしくは……スカーヴィズがこれからどこかへ行くのかもしれない。

 そう思ったヴィズルは焦った。特に後者の場合は困る。スカーヴィズにぜひ、アドビスからもらった本の内容を教えてもらいたいのだから。

 ヴィズルは夢中で船尾の階段を駆け上がった。正面に見えた船長室の扉は、なんと少し隙間が開いている。


「どうしたんだろ」

 ふとひっかかるものを感じて、ヴィズルはしばしその扉をみつめていた。

 おかしいのは開いている扉のせいだけではない。やはりスカーヴィズは出て行ってしまったのか、船長室には明かりがついていなかった。ろうそく一本さえも。


「船長……いったいどこへいっちゃったんだろ」

 ヴィズルは思わず肩を落として、恨めし気に扉をにらんだ。だが再び自分のハンモックへ戻る気はなかった。甲板も無風たが、船内よりずっと空気が澄んでいる。

 ヴィズルは迷わなかった。迷わず船長室の中に入って、スカーヴィズの帰りを待つ事にした。

 そっとドアに近付いて、開きかけたそれに手をかける。扉は思っていたよりも、ずっと大きな音をたててきしんだ。


「誰だ」


 かすれ気味の、それでいて深い響きを感じさせる男の声がした。

 ヴィズルは瞬時に自分の体から、血の気がすうーっと失せるのを感じた。

 それは、ここにはいないはずの――人間の声だったから。


 ヴィズルが開け放った扉から、<ソリン>の青白い光が一直線に船長室の中へ差し込み、板張りの床がまぶしく光った。

 その正体は、まるで銀の粉をふりまいたように広がっている、スカーヴィズの長い髪だった。


 彼女は仰向けに船長室の寝台の前で倒れており、傍らには覆いかぶさる影のような塊――黒いマントに黒いつばが広い帽子を被った男が、膝をついてその傍らにしゃがみこんでいた。

 ヴィズルは男が右手に持った青白く光る、半月の形をした短刀を見て、思わず息を飲んだ。月の光に白く輝きながら、それは鮮やかな血で彩られ、小さな音を立てながら床に滴り落ちているのだった。


「ひっ……!」

 冷えてうわずった声が喉から出る。ヴィズルは目の前の光景に身がすくんだ。

 生気のないスカーヴィズの眼が中空を見つめ、自らの胸から流れ出す血の海に、その細身をひたしていたから。


「ヴィズル」

 亡霊のように闇のマントをゆらして立ち上がった男は、なんと優しくヴィズルの名を呼んだ。ヴィズルはただ恐怖に目を見開いて、アドビスの本をぎゅっと握りしめ、こちらへ近付いて来る影を見つめることしかできなかった。

 男に月の光が当たる。帽子の影が顔にかぶさるように落ちているが、きらりと光った水色の瞳はとても見知ったものだった。


「……ど、して……ここに……」

 あえぐようにやっと声を出したヴィズルは、男が歩いて来るので後ろへ後ずさりした。が、膝ががくがくと震えているので、上手く足が動かない。

「うわあ!」

 ヴィズルは尻餅をついた。

 ばさっとマントがひるがえって、目の前に男の長い腕が伸びて来る。

 肩をつかまれた。容赦なく引き寄せられる。


 殺される。いやだ。さわるな。

 恐怖でヴィズルは目を固く閉じていた。恐ろしかった。

 どうして彼がここにいるのかわからない。

 痛いくらい腕をつかまれて、ヴィズルは目を開けた。


「……いやだあ!」

 ヴィズルはやっとの思いで叫び声を上げた。口の中は干上がったようにからからで、喉からはひゅーひゅーと、息を吐く音しか立てられなかったが。

 目の前にある男の顔はひどく青ざめていて、まさに闇から現れた亡霊のようだった。

 ヴィズルは再び目を閉じた。信じたくなかった。

 今だ体の自由を奪う男の腕から逃れようと、拳で彼を叩いて叩きまくった。

 

 なんであんたがここにいるんだ?

 なんで船長が……あんな目に?

 なんで……?

 なんでだよ?

 なんで、あんたが、船長を……!


 ヴィズルは目を閉じたまま、両手に力が抜けるのを感じながら、ひたすら男を所構わず叩き続けた。声にならない声を上げて彼をなじった。

 抱えられていることすらわからなくなり、周囲が闇の中に溶けていくまで叩き続けた。叩きながらヴィズルは泣いていた。彼は何も答えなかったから。何も言わなかったから。恐怖はいつしか怒りへと変わっていった。

 だがそれも――深い、深い暗闇と静寂の中へ消えていった。


『なんでだよ……アドビスっ!!』



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