1-10 思わぬ出来事(1)
命名式は結局中途半端な形で終わった。
式が終われば来賓達は新造船に乗ることが許され各々シャインへ祝辞を述べる(これは建前だが)はずだった。けれどいろんな事件が重なったせいで、野次馬と来賓はエスペランサの命令で早々に造船所から退去させられた。
そしてシャインを狙撃した犯人も見つからなかった。造船所内には船の材料となる丸太や木材があちこち山のように積まれており、それらに身を隠しながら逃亡することが容易だったのである。
「今日はいろいろあってハラハラさせられたが、大変なのはこれからだぞ。グラヴェール艦長」
静けさを取り戻した新造船――今はエルシーア海軍後方艦隊に配備されたロワールハイネス号――その艦長室で、エスペランサ後方司令官は席を立った。
「閣下にもご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
シャインは出入口の扉の前で、再び神妙な面持ちで頭を下げた。
応接用の机と椅子しか搬入されていない艦長室はがらんとしている。其れ故まだそうとても呼べたものではないが。
部屋を出るために、エスペランサがこちらへ向かって歩いてきた。
「もう一度確認するが、命を狙われるようなことに心当たりはないんだな?」
そんなことをきかれても。
脳裏を『船鐘』のことが過ったがそれをエスペランサに言うつもりはない。
シャインは自虐的な笑みを口元に浮かべた。
「俺自身にはありません。しかし、グラヴェール参謀司令官の息子としてならあらゆる可能性を否定することができません。エルシーア海を荒らしていた海賊船団を駆逐したあの人は、今もわずかにいる海賊から恨まれて、実家の方には多い時で毎月三十通あまりの脅迫状が届きます。子供の頃、誘拐されかけたことも何度かありますし……あ、でもその時の海賊はとても優しくて、参謀司令の武勇伝を話してくれたんです。あの人はとても無口なので、俺にちっとも昔の話をしてくれないんです。
なんでもあの人は、海賊を懐柔し、彼等の拠点を突き止めてから皆殺しにしたり、船を焼き討ちしたそうですね。涙ながらに話をした海賊は、リンゴとかマフィンとか美味しいお菓子を沢山くれました。でも中にしびれ薬が入っていたので、息ができなくなって困りました。それから軍服姿で街を歩くとあの人の機嫌を損ねて罷免された元将官だという方達にも会いますよ。もっとも、路地裏でナイフを突き付けられ、慰謝料を請求されることはわかっていますので、申し訳ないと思いつつ、こんな風に――」
「……!」
シャインは濃紺の軍服の裾を跳ね上げて、膝丈の長い長靴のベルトへ手を伸ばした。
そこから銀の光が弧を描いたかと思うとそれはエスペランサの喉元へ一閃する。
「うわあっ!」
同時にエスペランサの正面からシャインの姿は消えていた。いや、小振りの銀の短剣を手にしたシャインは、背後からエスペランサの首を抱え、それをじっとりと汗をかいた首筋に押し当てていた。エスペランサはまるで石像のように体を固まらせて、その場に立ち尽くした。
「このように……失礼ながら先制することにしています」
エスペランサの耳元でシャインは小さく囁いた。その声は、まるで氷の薔薇が散るような柔らかな死神の吐息――。
「ご無礼いたしました。エスペランサ後方司令官」
シャインはエスペランサの喉元から短剣を外した。濃紺のケープをひらりと舞わせ、流れるような仕種で再び短剣を長靴のベルトへと戻す。
「グ、グラヴェール艦長!」
エスペランサがようやく解放されたことに気付いて口を開いた。シャインの名を呼ぶ声が裏返って異様に高い。
少し悪ふざけがすぎたかもしれない。
シャインは自分の軽率な行動を悔いた。エスペランサは海軍本部にいる将官の中でも小心なことで有名だが決して悪い人間ではない。けれどそれ故に、ついからかいたくなってしまうのだ。
シャインは頬にかかる月影色の淡い金髪を払いのけ、深々と頭を垂れた。
「申し訳ありませんでした。冗談でも閣下に刃を向けるなどあってはならないこと」
「……いや。君はそうしなければ自分の身を護ることができなかった」
意外な言葉に顔を上げると、眉根を寄せて心持ち瞳をうるませたエスペランサがこちらを見ている。
「グラヴェール参謀司令の息子がいかに大変か、身をもって感じた。今までよくぞ無事に生きていたな」
シャインは瞳を伏せ小さく笑んだ。
人はいつか死ぬ。いいかえれば、その時まで生かされているようなものだ。
自分の意思もあるが、それよりもっと大きな力で生かされていると感じる。
『ダメ! 今すぐ離れて!』
不意に命名式で自分を突き飛ばした少女の声が脳裏に浮かんだ。
彼女が突き飛ばしてくれなければ、あの時、自分は――。
シャインはそっと左肩に手を当てた。
いや、もっと以前に自分は命を――。
「そうそう。大切なことを忘れていた。グラヴェール艦長」
「はい」
シャインは物思いから我に返った。
「今日中にロワールハイネス号を軍港の第三突堤に移動させておくように。積荷は朝八時ごろ順次突堤に到着する。そしてロワールハイネス号の命令書を取りに来てくれ。海軍省の私の執務室に九時だ」
「承知いたしました」
◇◇◇
エスペランサが帰ってから、シャインはロワールハイネス号の艦長として最初の仕事に取りかかった。
船は造船所にあるので、エルドロイン河を更に三十分ほど南下した所にある軍港へ移動させなければならない。勿論、いきなり帆を上げるなんてことはしない。岸にぶつかる心配がない河の中央部に出るまで、牽引ロープをくくりつけた小船でロワールハイネス号をひっぱるのだ。それから少しだけ帆を張り河を下る。
「さあ! みんなしっかり漕いで!」
小船の船首には小柄なクラウス士官候補生が立って音頭をとっている。その後ろで櫂を持った十四名の水兵達が上腕の筋肉を震わせながら船を漕ぐ。
「さあ漕いで。みんながんばれ~!」
「いきなりこんな重労働をさせられるとは思いませんでした。どうしましょう、ラティ?」
ぜいぜいと息をつきつつ、青味を帯びた黒髪の水兵がつぶやいた。櫂を握る指は男にしては華奢で細長く、長い髪を後ろでひっつめて夜会巻きにしている。
「だからアタシは嫌だって言ったのさ。お金なら他所でももっと沢山稼げるっていうのに。これ以上筋肉がついたらアンタのせいだからね! ティーナ!」
その黒髪の水兵の隣で櫂を握る金髪頭が、溜息混じりに返事をした。まっすぐなその髪は肩口の長さで綺麗に切り揃えられている。こちらのほうが頭一つ分背が高く、服の上からでもひきしまった筋肉がついているとわかる。
他の水兵たちは白い綿のシャツに黒の半ズボンといった格好だが、この二人だけは白長袖に黒の長ズボン。目深に黒い帽子まで被っていた。
「こら! そこ! 無駄口を叩かないでしっかり漕げ!」
船尾の船板に座り、小船の舵をとっている副長のジャーヴィスが、すかさず異様な二人の水兵のお喋りに雷を落とす。
「きゃっ! こわいっ!」
「コワイ~」
「なっ、なんだお前たち。その言葉遣いは」
くるりと黒髪と金髪が振り返った。二人ともうっすらとほお紅を差し、つけ睫毛をつけ一見女性と見紛うほどの美貌の持ち主である。
「お……女? でも喉仏があるから男なのか……?」
ジャーヴィスはまじまじと二人の顔を見つめた。
「まあ、ジャーヴィス副長ったら。そんなに見つめられるとどきどきしてしまいますわ。私はティーナ。以前はアスラトルの劇場で歌を唱っておりましたの」
黒髪の男――いや、顔は女というべきか。ティーナは右下に泣きぼくろがある、ちょっとおっとりした雰囲気の人物だ。髪を何故か夜会巻きにしているのは以前の職業故だろうか。
「あっ! 抜け駆けはなしだよ。ティーナったら! ジャーヴィス副長はアタシが目をつけてたんだからね。あっ、アタシはラティ。同じくティーナと一緒に劇場で踊り子をしてたんだ」
気が強そうな水色の瞳でラティはジャーヴィスに強烈な流し目を送る。
「うっ……」
ジャーヴィスはたまらず顔を背けた。一撃必殺なそれを喰らったら三日三晩熱がでてうなされそうな予感がしたのだ。
「あ! 俺知ってるぜ! あんた、ラティ・フィーリアだろ? 『西区』のウインダリア劇場で踊っているの見たことがあるぜ」
ジャーヴィスの前で櫂を漕ぐシルフィードがうれしそうに声を上げた。ラティはにんまりとシルフィードに向かって笑いかけた。その輝ける美貌は女性以上に美しい。
「まぁ~アタシの事を知っている人がいるなんて光栄~。でもごめんなさい。あんたのような、がさつでむさくて筋肉バカは、私の好みじゃないの」
「なに~!」
どっと小船の上で笑いが起きた。音頭をとっているはずのクラウスですら、その役目を忘れて笑い転げている。
「それより二人は、なんだって海軍なんかにきたんだよ?」
ラティにあっさり袖にされたので、シルフィードはティーナに向かって話し掛けた。
「ええ。劇場が財政難でつぶれてしまいまして、早い話が生活に困りましたの」
「しかしよく海軍が採用したもんだな、あんたたちを。そう思いません? ジャーヴィス副長?」
ジャーヴィスは先程からずっと黙りこくっていた。ラティの視線がまるで獲物を狙う肉食獣のように、こちらへ向けられ続けているのだ。
「ああ。何で海軍が採ったのか私にもわからない。ええと、ティーナと……そのラティ」
「はい」
「はぁい」
艶やかな声に再び小船の水兵達は手を叩き、ひゅーひゅーと口笛を吹く。
繰り返すが、二人は女性と見紛うくらいの美形だが、立派な男性である。
ジャーヴィスは握りしめた拳をふるふると小刻みに震わせながら、腹に力を込めて一喝した。
「そのふざけた格好は許さんからな! 船に戻ったら化粧は落とせ!!」
◇◇◇
一方その頃。
シャインはロワールハイネス号の後部甲板にある真新しい舵輪を握っていた。船首では船が正しい方向に向かっているか、障害物はないか、水兵で一人だけ船に残っているエリックが見張りに立っている。
ロワールハイネス号はなんとかエルドロイン河へ滑り出した。シャインは昨日に比べて河の水かさが増していることに気付いた。王都のある上流で雨が沢山降ったのだろう。
ロワールハイネス号はジャーヴィス達十四名が引っ張る小船のおかげでゆるやかな流れにのり、順調に河の中ほどに向かって動きだしている。ただしまだ気は抜けない。まだ岸から近い所にいる。
河岸に吸い寄せられたらぶつかって船体が大破してしまうからだ。
シャインは悪い想像を吹き飛ばすように頭を振った。
『命名式で祝酒のビンを一度で割ることができなければ、その船は処女航海で必ず沈む』
ふと脳裏に例の迷信が蘇ってきた。誰が最初に言い出したのかもわからないくらい、古い古い時代から船乗り達が語り継いできた迷信。
船を作り続けて三十年のホープにきいてみたら、いくらでもそれにまつわる不幸な船の話を教えてくれるだろう。
しかしあの失敗は痛かった。精神的にとても。
シャインはそっと唇を噛んだ。
自分は何としてでも、あのビンを割らなくてはならなかったのだ。
狙撃されたとしても、祝い酒のビンだけは何があっても――。
この迷信のおかげで、乗組員との雰囲気は気まずいを通り越して険悪なものになっていた。
シャインはロワールハイネス号の舵輪は航海長シルフィードに任せて、皆と小船に乗って船を引っ張るつもりだった。けれど副長のジャーヴィスがすごい剣幕でそれを止めたのだ。
「あなたが艦長なんですから本船にいて下さい!」
確かにジャーヴィスの言うことは正しいと思う。自分はこの船の全権を預かるものとして軽々しく動いてはいけない。けれどあの場の雰囲気にはぴりぴりとした緊張感が張り詰めていた。ロワールハイネス号を動かすことで、乗組員のひとりひとりが、嫌でも迷信の存在を強く意識しているのをシャインは感じた。
船乗りはがさつで荒っぽいという印象をもたれるが、実は目に見えない不可抗力や迷信を最も恐れている繊細な人種なのである。それは海の恐怖を身をもって知っているせいなのかもしれない。船底の板一枚下は全てを飲み込む暗澹とした水の深淵が広がっている。
『艦長が船と指輪を交わすのも、そんな深淵に飲み込まれる時の恐怖を一時でも薄れさせたいからだろうか――』
シャインは右手の薬指にはめたままの金の指輪に目をやった。
海で死んだ者は海神・青の女王の腕に抱かれ、安息の眠りにつくことができるといわれている。しかし、全員ではない――。
「艦長! 船首が岸を向いてます!」