3-31 残されし者達
シャインは無意識のうちに暗い階段を昇り、ウインガード号の上甲板に出ていた。
後方から吹く風はウインガード号の大きな四角い帆を膨らませ、小気味よく船を走らせている。夜空はどこまでも黒く、遠く、そして二つの金と銀の月が小さく並んで昇っていた。
シャインはどこに意識を向けるわけでもなく、人気のない後部甲板の左舷側へと近付いた。
双子の月は出ているのに、そこから見える海は波濤のきらめき一つなく、まるで夢で見た闇の海のようだ。
シャインは船縁から身を乗り出して黒い海面を見下ろした。
ひたすら目をこらした。
整える事を忘れた髪が肩から滑り落ち視界を覆った。
シャインはそれを右手で押さえ付け、再び食い入るように海を覗き込んだ。
何も見えない。
見えるはずがない。
こんなに暗くては――。
何か、明かりを持ってこないと……。
『それ以上身を乗り出すと危ないわよ』
背後で女の声がした。
『もっとも、自殺志願なら止めないわ。飛び込むなら何か重しを体につけないと、すぐ浮かび上がって死に損なう。砲弾がいいわ。あなたの後ろにいくつも転がってる。それを足にくくりつけたらどう?』
誰だ?
シャインの意識は海から逸れた。同時に、自分が思っていた以上に、船縁から身を乗り出していた事に気付いた。船が波に持ち上げられた拍子に、シャインの足が宙に浮く。
「――くっ!」
シャインは咄嗟に両手に力を込めた。このままでは海に落ちてしまう。
船縁に爪を立て、前のめりに体が引きずられていく事に必死で抗う。やがて船が波を乗り越えた。
「うわっ!」
船が元の水平に戻ろうとする反動で、シャインの体は後方へ倒れた。
甲板に投げ出される格好でひっくり返る。
「……」
一体自分は何をしていたのか。
暗い海を覗き込んで、何を見ようとしていたのか。
打ちつけた後頭部に広がる鈍い痛みと、言い様のない虚しさだけがシャインを満たす。シャインは甲板に寝転がったまま、右手を目蓋に載せた。
『何だ。最初から死ぬ勇気もないんじゃない。だったら声なんかかけるんじゃなかったわ』
シャインは目を閉じたまま息を吐いた。
さっきから誰かが自分に話しかけてくる。
こっちは誰とも話などする気がないというのに。
甲板は石のように冷たくて気持ちがよかった。
子供の頃、実家の庭にあった古い大理石の長椅子を思い出す。眠れない夜はいつもその椅子の上で寝転がって、地上に降り注ぐ満天の星を見ていた。
そうすれば何時しか穏やかな眠りが訪れた。
このまま目を閉じていれば眠れそうな気がした。
『ふうん。そうやって現実から目を逸らして生きていくのね。あなたは』
『違う……俺は……』
シャインは声に答えながらも、自分の意識が眠りの淵へ滑り落ちていくのを止めようとしなかった。
眠りは辛い現実からの逃避だ。
だから三日間それを拒み続けてきたけれど、澱のように溜まった疲労は体を蝕み限界だと悲鳴を上げている。今日は起きているのに白昼夢を見ているような、そんな危うい感覚をずっと引きずっている。
『どんなに自分を責めたって、誰もあなたを助けることはできない』
気配がした。
シャインを見下ろしているのか、先程よりずっと近くで声が聞こえる。
『助けなんか、求めていない』
『嘘つき』
『嘘なんか、ついてない』
『助けを求める事は恥ずかしい事じゃないわ』
『俺に、構うな。これは俺の問題だ。だから救いなんかいらない』
『ほら本音が出た。救いが欲しいんじゃない?』
『……去れ』
『嫌よ』
『……』
まるでだだをこねる子供みたいだ。
馬鹿らしい。
シャインは自分に呼び掛ける声を一切無視することに決めた。
救いが欲しい?
救いなど何処にもない。
あの選択を覆す事は誰にもできない。
だから俺は、すべてを受け入れるしかない。
『そうね。死の苦しみは一瞬だけ。でも生きていれば、それは一生続く』
シャインは突如胸の上に氷がのせられたような冷たさを感じた。
手だ。
胸の上に置かれた手からシャツ越しに、しんしんとした冷気が伝わってくる。まるで心臓の鼓動をじわじわと止めようと言わんばかりに。
思わず両目を見開くと、目の前には青白い月光に照らされた、見知らぬ若い女の顔があった。さらさらと流水のような音を立てて、漆黒の長い髪がむきだしの肩の上に流れ落ちている。
その髪は長く女自身がひきずる影のよう。黒い古風なドレスをまとった女はシャインの傍らに跪き、肘までの長い黒手袋をはめた手をシャインの左胸に置いて、顔を覗き込んでいた。
黒い睫毛に縁取られた切れ長の瞳は、鏡を思わせる透き通った銀。
淡い紫の紅を引いた唇からは、朽ちた薔薇の香りがした。
『あなたはどちらを選ぶ?』
女は人間離れした美しい顔に上品な笑みを浮かべ、銀の瞳を細めた。
『選ぶ……?』
『そう』
今日のシャインは夢と現の狭間を行き来している。
自分が起きているのか、それとも眠ってしまったのかがわからない。
けれど軍艦であるウインガード号に、そもそも女性は乗っていない。
いや。
いるとすれば、ただひとりだけ。
『俺に何の用だ?』
シャインは再び目蓋が塞がるのを感じた。反射的にそれに抗う。
何故だかわからないが、この冷たい眠りに身を任せたら二度と目が醒めないような気がしたのだ。
そこで右手を上げようとしたが、いつしか全身に広がった寒気のせいか、指一本動かせない事に気がついた。
『声をきいたの。魂が叫ぶ嘆きの声を』
女の髪が小波のように揺れ、朽ちた薔薇の香りがさらに強くなった。
それを吸い込む度に、体から力が失われていく。
抗う気力が失せていく。
『それは……俺じゃない』
女は静かにうなずいた。
『わかってるわ。でもこの声は、ずっとあなたに付きまとう。あなたが生きている限り――ずっと』
女の銀の瞳が星のように瞬いた。
『どちらを選ぶの? 苦痛からの解放の死? それとも……』
黒い長手袋をはめた女の右手が音もなく伸びて、青ざめたシャインの額にかかる乱れ髪をそっと払う。
女の手は水のように冷たかったが優しかった。
シャインは不思議な感覚を覚えながら、女の瞳を見つめた。
『どちらを選べばいい?』
口には出さず、鏡のように光る銀の瞳にそう問いかける。
『えっ?』
シャインの頬に触れる女の指がぎこちなく固まった。
『声を聞いたんだろう? 彼女達の声を。多くの人間と道連れに、エルガードとファスガードを殺したのはこの俺だ』
アストリッド号とウインガード号が同じ設計図から生まれた『姉妹艦』であるように、ファスガード号とエルガード号もそうだった。
姉の船に砲弾を撃ち込まれるエルガードの嘆き。
軍船として妹船を沈めなければならない、自らの運命を受け入れたファスガードの悲愴な決意。
長い、長い嗚咽と悲鳴に、気が遠くなりそうだった。
それは炎で赤く彩られた空と闇の海で、いつまでもいつまでも響いていた。
いっそ、あそこですべてが途切れてしまえばよかったのだ。
人ひとり殺すだけなら、一発の銃弾で十分だ。
船と共に海底に沈めばなおさらだ。
けれど生き残ってしまった。
シャインは自分を見下ろす女に向かって問いかけた。
『俺は“生かされた”のか? ウインガード? あの夜、死ぬ者と生きる者を選択した俺は何故ここにいる? 教えてくれ……』
『……』
夜の青い闇と一体になったような美しい女――ウインガード号の船の精霊は、シャインを一瞬憐憫が込められた目で見下ろした。
『その問いに私は答えられない。でも……』
ウインガードは小さく首を振った。
『生き残ったというのなら、それは私も同じ。私もまた、ノーブルブルー最後の船になってしまったのだから』
『ウインガード……』
ウインガードは静かに目を閉じた。
シャインの左胸に置かれたままの手が、一瞬ぴくりと引きつる。
『あなたを通して感じるわ――初めは可哀想なアストリッドお姉様。散々屠ってきた海賊に、まさか、自分が沈められるなんて思ってもみなかったでしょうね。ファスガードはどこまでも妹思いのお人好し。ルウム艦長の死ですっかり弱気になってたみたい。エルガードは……』
ウインガードは形の良い小さな唇を噛みしめた。
『……』
『ウインガード』
黙ったままの船の精霊にシャインは呼びかけた。
彼女が何を見ているのか、容易に想像できる。
『俺は……忘れない。俺が、エルガードにしたことを』
ふわりとウインガ-ドの漆黒の髪が夜の闇を覆うように広がった。
切れ長の銀の瞳が三日月のように細められ、ウインガードは胸の中の汚いものを吐き捨てるように呟いた。
『エルガードは……自分の末路に怯え、泣き叫ぶことしかできなかった馬鹿な子よ。でも、あなたはもっと馬鹿な人間』
ウインガードは怖気が立つ程の冷徹な眼差しでシャインを見下ろした。
『さっきも言ったけど、誰もあなたの苦しみを助ける事はできない。けれど……』
冷たい怒りに満ちたウインガードの表情が、ふっと穏やかな凪の海のように和らいだ。
『苦しいって、素直に言わないから苦しいのよ? たとえ神様があなたの罪を赦しても、あなた自身がそれを赦さない。良心の呵責に耐えきれなくて海に飛び込んでも、あなたの魂は絶対に救われない。死は眠りと同じ。辛い現実から目を背け、一時的に逃避するだけ』
シャインは息を吐いた。
唐突に何もかもが億劫になった。
自分の置かれた状況も。
考える事も。
口を開く事も。
息をするのも。
『疲れたよ。ウインガード……』
『そう。なら、休みなさい』
だがシャインは、塞がりかけた目蓋を意志の力で見開いた。
『眠りは現実からの逃避だ』
『いいえ。あなたは逃げてなどいないわ。疲れたから休む。それはあなたの心を癒すためにも必要な事』
『いいや、きっと俺は夢を見る。闇の海を覗きこみ、この手で切り捨てた人々に沈められる夢を』
ウインガードはそれを咎めるように首を振った。
ゆっくりと身をかがめ、シャインの耳に唇を寄せる。
『あなたはもう選択したじゃない。その現実を抱えて生きていく事を。忘れないで。あなたを赦すことができるのは、あなたが殺した人々やエルガード達じゃない。あなた自身なのよ』
『ウインガード』
屈めていた体を起こした船の精霊は、その姿を徐々に夜の闇の中へと溶け込ませていた。
シャインはそれを目で追った。
『ウインガード、ありがとう』
『あら。何のお礼かしら?』
甲板に届く程長い髪を右手で絡め、ウインガードが小首を傾げる。
『君が声をかけてくれなかったら、俺は多分、海に落ちていた』
ウインガードはふっと唇を歪めて笑んだ。
『20年も私は軍艦をやってるのよ? 自殺はもとより、あなたよりずっと多くの死を見てきたわ』
シャインは思わず息を詰めた。
ウインガードの言葉が急にずっしりと胸の上にのしかかるのを感じた。
『すまない。そんなつもりじゃ……なかったんだが』
『いいのよ。本当の事だから。まあ、今夜はそれを見なくて済んで、ほっとしてるけど』
『そうか。じゃ、君に乗っている間は、そういうことをしないように気を付ける』
ウインガードはシャインに向かって『馬鹿』とつぶやき、甲板に落ちるミズンマストの太い影の中へと消えていった。
シャインはそれを見送った後、甲板に寝転がったまま、じっと夜空を眺めていた。
「俺を赦すことができるのは、俺自身……か」
そんなことを思える日がいつか来るのだろうか。
シャインは身を起こした。
甲板で寝そべっている所を当直中の士官に見つかったらめんどうなことになる。
ウインガードの言う通り、疲れたら休むのは必要なことだ。
再び船内へ入り、士官部屋へ戻りながら考える。
自分が今生きているのは――生かされたと思うのなら。
成すべきことがあるからだ。
今は生きて、成さねばならないことがあるからだ。
脳裏にファスガード号の炎に赤く照らされたヴィズルの顔が過った。
今、俺がしなくてはならないことは――。
シャインは士官部屋の扉の取っ手に手を伸ばした。