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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第3話 月影のスカーヴィズ
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3-30 選択


 ◇◇◇


 気付くと俺は、暗い夜の闇に覆われた海で、ひとりボートに乗っている。

 どろりとした――それでいて滑らかな海面には、大小様々な木材の破片がいくつも浮かび、不規則な波にのってボートの船腹を叩いていく。

 俺はこんな所で、何をしているのだろう。

 右手で何故か青白い炎をあげるカンテラを掲げ、黒い闇色の海を――その薄暗い明かりではとても中を見通すことはできないが――それでも俺は、深い深い海の中を、深淵を、狂おしく覗き込んでいる。


「……か、……いな……か……」


 口の中は干涸びて喉の奥がいがらっぽい。それでもやっと絞り出した声は年寄りのようにかさついて、俺のものではないみたいだ。


「誰か、いないか……」


 俺は探している。

 波の音さえも聞こえないこの真っ黒な海で。


 何か、を。

 誰か、を。


「誰、か」


 俺はさらに船縁から身を乗り出し、カンテラを海面へと近付ける。

 滑らかな動きを繰り返す波が、ほんの僅かだけ明るさを増した。


「……」


 望んでいた声が聞こえたような気がする。

 助けを求めている、幾つものそれが。

 この暗い海に沈んだ――いや、俺が沈めるように命じた、エルガード号の生存者たちが、このボートの下の海から俺を呼んでいる。


 俺は海面すれすれまで顔を近付けた。ただの黒い闇がうごめいているような海が、カンテラの朧気な光を受けて濃紺へと変わっていくのが見える。


 青い。

 どこまでも果てしなく落ちていくような――青い深淵。

 その淵を覗き込んだ時、俺は左手を伸ばしていた。

 助けを求めるその白い腕を掴もうとして――。

 ボートへ引き上げようとしたその手は、いつしか俺の航海服の襟を掴み、音も無く一気に海中へと引きずり込んだ。


「やめろ。俺は君を助けたいんだ」


 だが俺の航海服の襟を掴む、目の前の青ざめた顔は、真っ赤な口腔を開けて微笑した。


「だったら何故助けにこなかった。何故、俺達を砲撃したんだ」


 何故?

 なぜ?


 底などあるのだろうか。一辺の光すら射さない闇の中で、俺はただ、落ちていく。身を切るような水の冷たさに手足の感覚はすでに無く、息も続かないというのに、意識だけは異様にはっきりとしている。

 俺の体から手を離さない、青ざめた顔の男が耳元で囁いた。


「お前は選んだのさ」


 ――選ぶ?


「そうだ。お前は、生きる者と死ぬ者を選んだのだ」


 ――それは……。


「お前はファスガード号の者達を生かすために、俺達、エルガード号を見捨てた」

「見捨てたんだ。俺達を」


 別の白い腕が現れた。俺は思わず辺りを見回した。

 顔、顔、顔――。

 闇の中に浮かび上がった幾つものそれが、俺を取り巻きじっと見つめている。


 ――俺が、選んだ。


「そう。俺達をここに沈めたのはお前だ。シャイン」


 背後から誰かが俺の腕を掴む。足を掴む。

 もうあの青色すら見えない闇の底へと引っ張っていく……。



 ◇◇◇


 シャインは息を詰めた。

 肺が押し潰されそうな程の息苦しさを感じ、夢中で空気を求めた。

 けれど、口を開けば大量の海水を飲み込んでしまう――。

 それに気付いた時、シャインはぼんやりとした橙色の光を放つ角灯の明かりを見上げていた。

 船の梁にぶら下がった黒い鉄の角灯は、ぶらぶらと右へ左へ揺れながら、壁際に吊り下げられたひと組のハンモックを弱々しく照らしている。

 ハンモックにはファスガード号で負傷したジャーヴィスが、暖かな毛布に首までくるまり深い眠りに落ちている。


「……」


 シャインは大きく息を吐いた。

 何時から息を止めていた?

 寝汗に濡れる額を拳で拭い、机代わりにしていた小さな木箱から、のろのろと重い上半身を起こす。

 ジャーヴィスの頭上で瞬く角灯がジッと音を立てた。

 小さな蝋燭が一つだけ灯されているそれが消えていないことから、眠っていたのは三十分にも満たなかったようだ。

 体にまとわりつく泥のような疲労が、少しも消えないのはそのせいだろう。

 シャインは目を伏せ小さく唇を噛んだ。



 エルガード号との戦闘でファスガード号を失い、雑用艇で海を漂流していた所をノーブルブルー最後の船・ウインガード号に拾い上げられて三日が過ぎた。

 ファスガード号の生存者を乗せた雑用艇は全部で八隻。

 残り七隻の雑用艇をすべて回収するため、ウインガード号での見張りは昼夜問わず休みなく続けられた。

 勿論シャインも、ファスガード号副長のイストリアもずっと甲板に詰め、水平線の彼方を望遠鏡でくまなく監視する日々が続いた。

 ただ、流石にイストリアは何度か仮眠をとっていたし、シャインにも休むよう声をかけてくれた。

 けれどシャインはすべての雑用艇が見つかるまで、甲板を離れる気にはなれなかった。

 離れるわけにはいかなかった。


 ――他にも手立てはあったはずなのに。

 こうなることを選んだのは『俺』だから。



 シャインは強ばった両手で顔を覆った。



 『俺』が選んだから? 

 なんて安っぽい義務感だ。

 義務だって?

 俺はただ、自分の選択を後ろめたく思っているだけじゃないか。



 不休で探し続けた甲斐もあり、雑用艇の最後の一隻が見つかったのは、今日の日没三十分前のことだった。ファスガード号の生存者をすべて救助したウインガード号は、現在エルシーアへ向かい帰国の途についている。

 自分を庇って背中を負傷したジャーヴィスも、軍医に適切な処置をしてもらうことができたので命に別状はない。

 ただ一つの心残りは、行方不明となったロワールハイネス号とその乗組員の安否だが、彼等は取りあえずヴィズルの所にいることだけがわかっている。


 すでに終わった事をあれこれ悔やんだ所で、結果は何も変わらない。

 今まで何度となくそういう経験をした。

 けれど、考えずにはいられない。


 例えば――。


 シャインは再び顔を上げ、暗い角灯の灯に照らされているジャーヴィスの方を見た。


 もしも、彼が俺を庇わなければ。

 俺が、ラフェール提督やルウム艦長と同じように、砲撃で死んでいたら。

 もしも君が負傷していなくて、俺の側にあの時いてくれたら――。

「……」

 シャインはジャーヴィスの寝顔から思わず視線を逸らせた。



『君ならどんな選択をした?』

 




 シャインはゆっくりと立ち上がった。頭上から小さくウインガード号の船鐘の音が聞こえてくる。

 夜の深い闇に溶けるように消えていったその音は一回だけ。

 シャインはため息をついた。

 まだ深夜0時。今夜も長い時間を過ごす事になりそうだ。

 せめてウインガード号の深夜当直になっていれば、船の航行や風向きに気を配っているうちに、何時の間にか夜が明ける。だが、救助されて今日の日没まで甲板にいたので、ウインガード号艦長のウェルツ大佐が、流石にシャインを当直から外したのだ。

 ウェルツの配慮は当然のことだろう。

『怪我をしたお前の部下より酷い顔をしている』

 ウェルツにそう言われたら、ここは大人しく引き下がるしかない。


 人間は何日まで眠らずにいられるのだろうか。

 いっそ、何もかも不意に途切れてしまえば――良いのに。


 シャインはジャーヴィスの療養のために、当てがわれていた士官部屋から外に出た。ウインガード号の第三甲板にあるこの士官部屋は、左右両舷、船壁に沿って三つずつ、計六つの部屋に区分けされている。

 掌帆長や主計長、海兵隊長や料理長、船医といった下士官達が、それらを自分の部屋として割り当てられているのだ。


 部屋を出ると目の前には、太いミズンマストが床から最上部の甲板まで縦に貫いている。ミズンマストを通すために作られた四角い穴には、人が一人通ることができる手すりがついた階段が取り付けられており、これが各甲板を行き来する昇降口をも兼ねている。


 ウインガード号はノーブルブルーの旗艦だったアストリッド号の妹艦にあたる。アストリッド号の半年後に就航したので、彼女もまた船齢二十年を迎える旧い船だ。

 この二十年。どれだけ多くの軍人が彼女に乗り込んで海賊と戦い、そして、血を流していったのだろう。船の外側は綺麗に紺碧色に塗装されているが、内側は砲弾で穴が開いた箇所を塞いだ、色の違う木材がそこここに打ち付けられている。

 シャインはそれを一瞥して、多くの人間が触れたせいで黒光りする滑らかな階段の手すりに手をかけた。


「……?」

 ふと足を止め、振り返る。

 誰かに見られている気配を感じたが、気のせいだろうか。

 けれどそこは士官部屋と砲列甲板を区切っている、帆布のカーテンしか見えない。

 シャインは目をこすった。

 三日間不休で水平線を見つめ続けていたせいか、目蓋が腫れぼったくなっていて、天井にぶら下がった薄暗い角灯の明かりでは、窓のない砲列甲板の通路がよく見えない。


「気のせい、だろうな」

 人の気配はする。しかも大勢の。

 ゆらゆらと揺れる帆布のカーテンの向こう側は、ずらりと並んだ大砲の上にハンモックを隙間なく吊り、ウインガード号の非番の水兵達が眠っている。ファスガード号の生存者たちもここと、さらに下の甲板に収容されているから、それこそ寝返りなどできないくらい多くの人間でひしめきあっている。


 そういえば、夕食時だっただろうか。

 痩せぎすで背の高いウインガード号の副長ウインスレッドが、ウェルツ艦長に不満を漏らしていた。

『水と食料をどこかで一度補給せねばなりません。ファスガード号の生存者を乗せたせいで、一週間分の備蓄が三日でなくなります!』


 ファスガード号には約三百人が乗っていた。

 エルガード号の砲撃を受けてラフェール提督、ルウム艦長を始め約三十名が死傷した。

 けれど、ウインガード号に収容されたファスガード号の生存者たちは、最終的に二百人をきっていた。傷が重く雑用艇で死んだ者もいるが、それ以前にファスガード号から脱出できず、船と共に海に飲まれた多くの行方不明者がいた。その大半はファスガード号の最下層部で、船底にたまった水を汲み上げる昇降機についていた者たちと、エルガード号に収容できなかったアストリッド号の二十名の負傷者達だと、イストリアがウェルツ艦長に報告していた。


 シャインはその時受けた心の衝撃を思い出し、階段の手すりを強く握りしめた。心臓の鼓動が早くなる。天井で揺れる角灯の光がどんどん弱くなっていき、辺りを夜の闇へと染めていく。


『ファスガード号に乗っていた者が全員脱出できたわけではなかった? イストリア大尉。俺は、あなたに命じたはずだ。急いで全員を退艦させるようにと』

『船は右舷側に傾き浸水していた。グラヴェール艦長、あなたがエルガード号への砲撃をさせたことで浸水する早さは倍増し、第三層の下甲板の大砲についていた水兵十五名は逃げ遅れた。もっとも、甲板で指揮を執っていたあなたにはわかるまいが、船に乗っていた者が全員逃げられる時間など、最初からなかったんですよ!』

『しかし……ファスガード号はかなりの時間浮いていたはずだ』

『船は浮いていたかもしれないが、船倉は海水で一杯だった。私は甲板にいた者を、片っ端から雑用艇に乗せるのに必死だったんです!』

 

 イストリアは辛辣な口調でそう言うと、充血した目でシャインを睨みつけていた。

 彼もまた、生きる者と死ぬべき運命の者を選んだのだ。

 ウェルツ艦長への報告を終えて部屋を出た時、イストリアがひっそりと口を開いた。


『グラヴェール艦長。あなたが下甲板に降りていった時、正直もうだめだと思いました。けれど、あなたは船が沈む寸前で甲板に姿を現した。それを見た私は心の底から喜びましたよ。何故だかわかります?』

『……』

 喜んだといいながら、シャインを見下ろすイストリアの微笑は固く強ばり、唇が斜めに引きつっている。言葉とは真逆の冷たさだった。


『よくぞ生きて下さった。あなたが出した多くの犠牲の責任をとって下さるために!』



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