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ロワールハイネス号の船鐘  作者: 天柳李海(旧・天竜風雅)
第3話 月影のスカーヴィズ
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3-29 失った命と失わせた命

「生存者がいないか、もう一度船の回りを見てみます」

 イストリアの声でシャインは我に返った。

「あ、ああ……そうだね」

 海水を吸った航海服の重さに辟易しつつ、シャインはその場から立ち上がり、船尾で舵を取るイストリアの左隣へ静かに腰を下ろした。

 ボートはマストを立てる事ができて帆を張れば帆走が可能だ。操船は舵輪と同じ役割をする、船尾にある舵柄という棒を左右に動かして行う。

 水中の舵は舵柄と連動して動くので、それで船の向きが変わる。


「ボートを漕げ。ゆっくり行くぞ」

 イストリアの命令で、水兵達はそろそろとボートを漕ぎ出した。

 その向きが再び炎上するファスガード号と対峙するように変わる。

 細い銀色の月<ソリン>が瞬く闇の海で、ファスガード号は船首を波に深く沈め、先程までシャインがいた船尾の後部甲板だけが浮いていた。

 まるで巨大なかがり火のように。

 てらてらと揺れる炎に彩られた海面には、船の残骸の一部である木片や樽が無数に浮き、波にぶつかっては流れていく。

 時折火が海水に触れる事で、じゅわっという耳障りな音が聞こえた。


「誰か! 誰かいないか!」

 水兵達が口々に呼び掛ける。

 それを聞きながらシャインは、船尾の船底に置いてある真鍮製のカンテラを見つけ取り出していた。

 ずっしりとした重さから油はたっぷり入っているようだ。

 カンテラが使えることを確認して顔を上げると、シャインはふと目に入ったボートの一角を、思わず呆けたように見つめた。

 ボートの中ほどの右舷側。生存者がいないか、海面を見つめる水兵達の合間に見覚えのある大柄な男と目が合う。

 彼は窮屈そうに背中をボートの縁へ押し付けながら、豊かな口ひげを生やした顔に微笑を浮かべていた。

 しっかりと毛布にくるんだジャーヴィスを支えながら。

 シャインは胸に安堵の気持ちが広がるのを覚えながら、退船の際にジャーヴィスを託したひげ面の海兵隊長に頭を下げた。

 約束を果たしてくれた事がうれしかった。

 ボートの中は身動きできる空間が限られているので、今ジャーヴィスの所へは行けない。

 だが同じボートに乗れてほっとした。おそらくイストリアが気を回してくれたのだろう。

 シャインはカンテラを船底に置きながら、そっと目元をこすった。


「誰かいないか! 返事をしろ!」

 やるせない思いにとらわれた、イストリアの太い声が虚しく響いている。

 応える声がないか、海面で助けを求めている者がいないか、耳をすませ目をこらす。

 シャインも、ファスガード号の徐々に小さくなっていく炎の光の中、生存者を見落とさないようにじっと海面を見つめていた。だが船の残骸と力尽きた人々の他に何も見つけられなかった。

 大半はエルガード号に乗っていた者達であろう、青色の上着をまとった水兵達。

 もしくは――。


 水兵になりすましていた、ヴィズルの仲間。


 シャインは唇を噛みしめ、引き込まれそうに深くて真っ暗な海を見つめた。

 


『おまえが殺したんだぜ、シャイン』

 この海と同じ色をした瞳を持つヴィズルの声が、間近で聞こえたような気がした。


『……こうなることを選んだのは、確かに俺だ』

 声に答えるようにシャインは胸中で呟いた。



 ◇◇◇



「イストリア副長! これからどうするんですかー!」

 誰何の声と共に、シャインの乗ったボートと同じようなそれが一隻、また一隻と集まってきた。

 ファスガード号はどんどん沈んでいく。

 周囲が暗くなってきたので、シャインは発火石をこすりあわせてカンテラに火を灯した。


「グラヴェール艦長。実は気になっていたのですが……」

 隣で舵を取るイストリアが声をひそめて話しかけてきた。

「ロワールハイネス号の事かい?」

「ええ。姿が見えません。砲火を避難しているのなら、そろそろ戻ってきても良いころです。しかし……」

 訊ねられる事はわかっていたにもかかわらず、シャインは思わず目を伏せた。


「彼女は戻らない。エルガード号を襲った連中に奪われたようだ」

「なっ……!」

 声をひそませながら、イストリアが目を大きく見開いた。

「奪われた……って、じゃ、どうやってエルシーアへ帰るつもりなんです! こんなことになるのなら、一か八かエルガードへ斬り込んだ方がマシだった! ひょっとしたらエルガードを取り戻して、ファスガードを沈めなくても良かったかもしれなかったぞ!」

 思わず熱くなるイストリアを見ながら、シャインはほとほと疲れたように眉をしかめ口を開いた。

 いや実際は口を開くのも億劫なほどだったが。


「それはどうかな。奴らは船を沈める事が目的だった。ノーブルブルーを潰すために。ファスガード号を守れたかどうか、俺には自信がない。最も、それができたのならイストリア大尉。君達はアストリッド号を、失なわずに済んだんじゃないのかい?」

 口をすぼめイストリアは、仏頂面のまま大きくため息をついた。


「じゃあどうするんです? あなたの考えを聞かせて下さい」

 シャインはその言葉が、このような事態を招いた責任を求めるように聞こえた。

 いや、まさにそうだろう。

 シャインはイストリアに尋ねた。


「水と食料は各ボートにどれほど積んでいる?」

「一週間分です。もたせて十日ほど。言っておきますが、ここはエルシーアから船で一ヶ月かかる海域であり、東方連国にもボートで一週間で行く事はできやしませんぞ」

 シャインはうなずいた。

 海図が鮮やかに脳裏に浮かぶ。公海のど真ん中にいるノーブルブルーを見つけ損ねないよう、毎日何度も見ていたから。


「ここの位置はわかってる。北西をめざせば三日ぐらいで、エルシーアと東方連国との定期航路に出られるはずだ」

 ふんと大きな鼻息を立ててイストリアが笑った。

「定期航路だからって、船がいる確証はない!」

 その嘲笑をさらりと受け流し、抑揚のない声でシャインは言った。

「あてどなく海をさすらうよりずっといいと思わないかい? 定期航路は潮が一定の方向と早さで流れているから、商船以外の船も多く利用している」

「……」

 何か他にいい方法があれば教えて欲しかった。

 シャインは投げやりになりそうになる自分を、やっとの思いで鎮めた。


「……それにかけるしかないのか」

 諦めたようにイストリアが言った。そして右手をシャインへゆっくりと差し出した。

「カンテラを貸して下さい。他のボートへ指示します」

 シャインは黙ってそれを手渡した。

 自分の顔が闇にまぎれることに安堵を覚えながら。




「さあ皆、漕ぐんだ。できるだけ早く定期航路へ出なくてはならん! マストを立てろ。帆を張って、針路を北西へ向かえ。はぐれてもひたすら北西へ進むんだ!」

 ファスガード号の生き残りを乗せた八隻のボートは、暗い海に帆を上げ移動を開始した。


「夜が明けたら舵を交替しましょう。ですから、先にお休み下さい」

 イストリアは相変わらず仏頂面だったが、その声は自分を気遣っている響きがあった。

 シャインは顔に当たる海風に、頬の筋肉が強ばるのを感じながら微笑んだ。


「ありがとう。でも気が昂って眠れないんだ。だから君が先に休んでくれないか?」

 イストリアはしばしシャインの顔を見ていたが、小さく息を吐くとゆっくり立ち上がった。

「じゃ、そうさせてもらいます。代わりたくなったら何時でも起こして下さい」

 シャインはイストリアと席を代わった。

 舵柄に両手をしっかりと添える。

 イストリアはしぶきがかかる船縁を気にしつつ、その体を丸めて疲れきったように頭を膝の上にうずめた。数分としないうちに、小さな寝息が聞こえてきた。

 


 シャインは舵柄から伝わる舵の感覚を意識しながら、水平線近くで瞬く星が右手に見えるように船の向きを修正した。

 ボートには簡易コンパスが積み込まれていた。それを掌に載せ、北西に向かっているかどうか確認する。

 水兵達の体力も考えるとボートを漕ぐのは三十分が限度だろう。

 シャインは星の位置がずれないように意識を集中しつつ、海を漂流することを思った。


 気掛かりなのはジャーヴィスの事だった。船に出会わずこのままずっと漂流すれば、いずれ全員死ぬ。が、ジャーヴィスを含め体力が落ちた負傷者達の方が、ずっと早くそうなることは明白だ。

 シャインは舵柄を握る右手に、知らず知らずのうちに力を込めていた。

 助かるべき命をできるだけ失わせないために選んだ選択が、結局は無意味だったと思いたくなかった。


『どうか彼等を召さないで下さい……青の御方よ。貴方の腕に抱かれるべき者達は、まだ多くここに留まっています。その者達に永遠の安息と静寂を――』


 失った命と失わせた命。

 ラフェールにルウム、多くの士官や水兵達。エルガードとファスガード。

 今はどこにいるのかすら分からない……ロワールとその乗組員達。

 両手にすくった水が、手の隙間からぽたぽたと滴り落ちて、無くなるように皆消えてしまった。


『ロワール、俺はどうすればよかったんだろう……』



 

 ◇◇◇




「グラヴェール艦長!!」

 誰かが肩を乱暴につかみ激しく揺すっている。切迫したイストリアの声。

 シャインははっとして目を開いた。

 空は青くどこまでも広がっていて、温かい太陽の光がマスト越しに差し込んでいる。夜はとっくに明けて軽く三、四時間はたっているようだ。

 首を動かすと隣でイストリアが、太陽の光に茶色の髪をきらめかせながら、じっとシャインの顔をのぞきこんでいた。


「よくお休みになられたようですな」

 浅黒い角張った顔には、意地悪な微笑が浮かんでいる。その意味を悟ったシャインは大きく身を震わせた。

「舵……!」

 ふんとイストリアは鼻を鳴らした。

「帆桁に頭ぶつけて起こされましたからね。おかげであなたが眠り込んでから、どれ位ふらふらと流されたかわかりません。でも、見て下さい!」


 イストリアが前を見るよう、あごを動かしてみせたので、シャインは身を起こしながら目をこすった。

 水兵達は船縁へ手をついて体を支えながら、口々に感嘆の声をあげている。

 その視線の先にある澄んだ蒼空と緑がかった海面の境界に、薄いクリ-ム色の大きな帆が浮かび上がっていた。

 後方からの風を受けて速度を増しているのか、船首に舞い上がるしぶきが、濃紺の船体にきらきらと光を降り注いでいる。


「まさか」

 シャインは目の前に現れたその存在がとても信じがたく思えた。

 自分はまだ眠っていて夢を見ているのではないだろうか。

 一回強く目をつぶって再び開く。

 それは確かに存在していた。そして、シャインの知っている海軍の船だった。


「ウインガード号……」

 彼女はノーブルブルーの旗艦だった、アストリッド号の妹艦にあたるが、砲門数の関係で一つランク下、2等クラスの軍艦だ。

「ウインガード号は修理のため、アスラトルのドックに入っていたはずなのに……」

 シャインは徐々に近付いてくる船を、手びさししながら眺めた。

 太陽の光に反射する波が眩しかった。


「でもあれは間違いなくウインガード号だ。きっと万一を考えてツヴァイス司令が、修理を急かして寄越してくれたんでしょう! くそっ……うれしいったらありゃしない!」

 イストリアはボートの舵を右手でとりながら、やおら勢いよく左手を上げると親し気にシャインの背中を叩いた。

「一時はどうなるかパニック起こしそうだったんですけどね! あんたの運の強さに助けられましたよ、まったく!」


 はしゃぐイストリアに、シャインは小さく口元に笑みを浮かべて目を伏せた。

 運でも何でもよかった。それが皆を助けてくれるのなら。

 髪をそよがせる風が急に心地よく感じた。


「おーい! こっちだ!」

「くそっ! よかったなー、おい」

 三十人がひしめくボートの中で、水兵達は上着を脱ぎ、頭の上でぐるぐると回しはじめた。


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