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【9】
「どうかした?」
遙香がいぶかしげに、傍らを歩く勝利に声をかける。
「なにが」
「そんな難しい顔して。もしかして、おなか気持ち悪くなっちゃった?」
「いやいや、それ関係ないから。なんでもない。うん、大丈夫」
(顔に出てたのか……まいったな)
勝利にとって、こんなにも心を揺さぶられる経験は初めてだった。
後悔、驚愕、恐怖、恋慕、同情、寂寥。
それがごくごく、短い時間でいっぺんにざらざらと流れていった。
「ならいいけど……」腑に落ちない様子で言う遙香。
確かに、腹の具合は全く問題はない。むしろ余計に腹が減ってきたくらいだ。
(でもやっぱり、腹の中ぐちゃぐちゃだよ。――別な意味でね)
日頃心をあまり動かすことなく、粛々と異界獣退治を行っている男にとって、自分の意思でコントロール出来ない程の激しい心の動きは、ある種の恐怖を喚び起こすものだ。
教団所属のハンターは全て、常に異界獣と命のやりとりをしている。それは、トップランカーである勝利であっても同じことだ。
格下相手には多少調子に乗ることもあるけれど、あくまで基本的には緊張感を持って仕事をしているつもりだ。
そんな時、心のブレは死に繋がる。一瞬の迷いが敵にチャンスを与えてしまう。
だから、強い感情のゆらぎは、ハンターにとって決して歓迎出来ないものなのだ。
数歩進んだところで立ち止まり、チラと遙香の横顔を見る。喉が詰まって苦しくなる。
外側に跳ね返ったクセっ毛、強い意志を感じる瞳、さっきぬぐってやったばかりの、ふっくらとした赤い唇。年相応に張りがあって瑞々しい肌。教団のシスター連中が全員霞んで見える。
その全てが愛しくて欲しくてたまらない。理由なんか分からない。
――でも、決して手に入れてはいけない。
(こんな思いをするくらいなら……。
いや、出来なかったんだから考えるな! 見殺しにする選択肢なんて最初から無かったし、仕留められなかった俺の責任なんだ! だけど……クソッ)
勝利の胸の中はまるで、地獄の釜のように様々なものが混ざり合い、グツグツと煮えたぎっている。そこに遙香の横顔の画像情報なんかをブチ込めば、ひととき間欠泉のように吹き上がり、辺りじゅうを焦がしてしまう。
暴れる心を押さえ込もうと、勝利は事前に覚えた地図と実際の地形の照合を始めた。周囲の風景をありのまま脳に流し込んでいくと、すうっと心が楽になっていく。
町中での作業が多い仕事柄、作業区域の地形情報のインプットは重要だ。異界獣との追いかけっこには、なくてはならない作業だ。
当たり前だが、いくら衛星画像から起こした地図とはいえ、実際の場所と寸分の違いもないわけじゃなく、ときどき工事中などで図面との齟齬が発生する。
多少の差なら問題はないが、ビル一棟まるまる消えていた、なんて時には、うっかり地上十数メートルから落下してしまう場合もある。
普段危険な作業をしている自覚はあまりないが、ふと自分のしている事を冷静に考えるとひどくあぶなっかしい事をしているもんだ、と少し怖くなる。
だから、我に返るのも、心を乱すのも、勝利にとってはどちらも恐ろしい事だった。




