理由
「はぁ。くだらない世の中だ。」
N氏は、ベッドの上で、そうつぶやいた。
「何か、おもしろい事でも起きないものか。悪魔でも出てきて、願いを叶えてくれるとか、さ。」
ため息をつきながら天井を見つめた。
その時だった。部屋の隅から濛々と煙が立ち上がり、辺りを包み始めた。
「な、何だ。」
N氏は、驚いて体を起こし、それを見つめていた。煙は、しばらく立ち込めていたが、段々と収まり、視界が開けてきた。
その収まりかけた煙の中から、一人の男が現れた。
「だ、誰だ、お前は。一体どこから入った。」
「私は、悪魔です。」
「悪魔だと……。冗談はよせ。第一、まったく悪魔らしくない。」
その男は、どこから見ても悪魔のようには見えなかった。黒いスーツに黒いコートを着込み、どこにでもいそうな顔立ちをしていた。一見、ごく普通のサラリーマンのようだった。
その黒ずくめの男は、営業マンのような口調で言った。
「実際の悪魔は、外見は人間と同じなのです。今ここにいる事が、本物の悪魔だという証明になると思いますが。」
確かに窓もドアも鍵がかかっていて、人間なら突然現れるという事などできるはずもなかった。
「確かにそうかもしれないな。まあ、こんな世の中だ。悪魔が出てきても不思議じゃない。」
「最近はすぐ納得して頂ける方が多くて、こちらとしても話が早くて大助かりです。」
悪魔はうやうやしく頭を下げた。
「それで? 何のためにお前は現れたのだ?」
N氏は煙草に火をつけながら、そう尋ねた。
「あなたのご想像の通りです。」
「すると願いを叶えに来てくれた、というわけか。」
「その通りでございます。」
悪魔は、笑顔で言った。
「そこは童話の通りか。だとすると、願いを叶えてもらった後に魂をとられる事になるわけだが。」
「魂をとる、というのは童話だけでございます。本物の悪魔は魂など奪いません。願いを叶えるだけでございます。」
「ふむ、そうなのか。しかし、それではお前は何のために、願いを叶えているのだ。」
N氏は、煙草の煙をゆっくりと吐いた。
「それは自分のため、とだけ申し上げておきましょう。しかし、あなたの願いを叶える代わりに何か頂く、という事はないとお約束します。」
N氏は、少々納得がいかなかったが、このチャンスを逃すわけにはいかないと思い、それ以上は深く聞かない事にした。
「どう致します? 願いを叶えますか?」
「もちろん。失うものがないとわかったからには、是が非にでも、叶えてもらうよ。」
「かしこまりました。まず、叶えられる願いは一つだけです。そして、願いを増やす願いは聞くことができません。それ以外なら、不老不死だろうが、何だろうが叶えさせて頂きます。」
悪魔は一息でそう言うと、ふっと息を吐いた。
「少し考えさせてくれ。」
N氏は、煙草を揉み消し、目をつぶり考え込む。
大金、美女、健康、不老不死。叶えてほしい願い事は山ほどある。だが、叶えてもらえる願いは一つだけなのだ。
しばらく思い悩んだ後、ふと思いついて、悪魔の方を見やった。
「俺の体や能力を変える事は可能なのか? 例えば超能力者にするとか。」
「可能でございます。ただし、使える能力は一つだけになりますが。その願い事でよろしいですか?」
「いや、もう少し待ってくれ。」
N氏は、またしばらく考え込んでいたが、うんうんと頷き、おもむろに叫んだ。
「決めたよ。俺にお前と同じ能力をくれ。要するに、何でも願い事を叶える能力だ。」
悪魔は少し驚いたような顔を見せたが、またすぐ笑顔に戻った。
「何でも願い事を叶える能力ですね。それでよろしいですか?」
「ああ、それでいい。」
これで、いつでも、欲しい物が手に入る。我ながら素晴らしい願い事だぞ。どんな狙いがあったか知らんが、この願いは予想外だったに違いあるまい。と、N氏は内心ほくそ笑んだ。
悪魔は少し間を置いて、ゆっくりと言った。
「では、その願いを叶えさせて頂きます。」
悪魔がそう言った瞬間、N氏の体に異変が起こり始めた。全身を黒い影に包まれたと思うと、それは黒いスーツとなり、そして黒いコートになった。N氏は慌てて洗面台の方へ走り、鏡の前に立った。そして恐る恐る目を上げると、そこには、自分の顔ではなく、見慣れない顔が写っていた。
「こ、これは……。」
その顔は悪魔の顔だった。
N氏は、しばらく呆然としていたが、後ろに人の気配を感じて、振り返った。なんという事だろう。そこには見慣れた自分の姿をした者が立っていた。
「満足して頂けましたか?」
その自分そっくりの口が動き、そう言った。こちらが鏡に映った自分ではないか、と錯覚を起こしそうになった。
「い、一体……。」
その声もいつもの自分の声ではなかった。
悪魔は、今までの丁寧な態度とうってかわって、高笑いしながらこう言った。
「お前の願い通りだよ。俺は、元々何だったと思う? 人間さ。俺が人間だった頃、お前と同じ事を悪魔にお願いした。それでどうなったかは、今お前が経験している通りだ。何でも願いを叶える能力を得る。それは悪魔の役目を引き継ぐという事だったのさ。悪魔になってからは、誰かが自分を呼び出さない限り、暗闇の中でじっと過ごしてきた。何もない暗黒の世界。呼び出されたら呼び出されたで、そいつの願いを叶えるだけで、自分の願いは何一つ叶えられない。解放される方法はただ一つ、どんな願いでも叶える能力がほしい、という望みを叶える事だけだ。」
N氏は、饒舌に語られるその言葉を、ただ漫然と受け入れるだけだった。
「さて、これから俺はお前という人間になって生きる。お前が、くだらない、と言った世界でな。お前は望み通り、その能力を有効利用してくれ。ただし、自分の願いは叶えられないがね。」
「な、な、何を――。」
N氏は、その言葉を最後まで紡ぐ事はできなかった。再び、煙が立ち込めたと思うと、その中に吸い込まれていった。