4.心臓(第一の殺人)
洋子は目覚めた。
時計を確認する。午前五時。
いつもはまだ寝ている時間だった。昨日はさっさと眠ってしまったから、こんなに早く目が覚めたのだろう。
彼女はひどい空腹を覚えた。そういえば昨日は夕食を食べていない。台所に言って炊飯器の中を見ると、ご飯が残っていた。それを茶碗に盛るとレンジで温める。冷蔵庫から梅干を取り出し、温めたご飯と一緒に食べた。とりあえず空腹感は収まった。
洋子は自分の髪の毛に手をやった。昨日は洗うことができなかった髪の毛は少しべたついて気持ち悪かった。しかし洋子には朝に入浴する習慣はなかった。少しだけ悩んだが、何となく気が進まなかったので風呂には入らなかった。
義父はまだ寝ているようだった。洋子にとっては好都合だ。母親もまだ寝ているようだった。そろそろ起きてくる時間だったが、洋子のために毎日遅くまで働いている母親を起こすのは気が引けた。
家にいたからと言って別にすることはない。洋子は学校に行くことにした。時刻は午前六時になっていた。
洋子の家から学校までは歩いて二十分程だった。傷だらけのランドセルを下げて、洋子は登校した。
まだ誰も来ていない学校は静まり返っていた。いつもと同じ光景なのにまったく違う場所のように洋子には感じられた。誰もいない学校は自分にとって居心地のいい空間なのだと洋子は感じた。
洋子は自分の教室に向かった。
教室の中から声が聞こえた。誰か既に登校している生徒がいるらしい。
洋子は音を立てないように入り口に近づくと耳を澄ました。それは声の主は、昨日洋子をヒステリックに蹴り続けた美奈のものだった。
洋子はげんなりした。よりにもよって美奈だ。洋子はこのクラスのほとんどの人間からいじめられているが、美奈のいじめはその中でも特に陰湿で直接的だった。
「洋子ってさ、本当に馬鹿だよね」
美奈が楽しそうに言うのが聞こえた。それに同意する声。どうやら教室にいるのは美奈とその取り巻きの内の一人のようだった。
「今日は椅子を隠してやりましょう。机はあるのに椅子がないから、ずっと立ちっぱなしなの。どんな顔するかな」
美奈は甲高い声で笑った。洋子は自分の中になにか黒いものが流れてくるのを感じた。今までにない感情だった。
「じゃあ、この椅子を隠してきなさい」
美奈の命令にもう一人が入り口に近づいてくる気配がしたので、洋子は隠れた。
ほどなくして椅子を引きずりながら一人の少女が部屋から出てきた。身体の小さな彼女には椅子はいささか重いらしく、ゆっくりと引きずるようにして運んでいた。
あの様子ではしばらく戻ってこないだろう。洋子はそう考えて教室に入った。
「早かったじゃ……」
洋子を見た美奈は凍り付いた。どうしてこんな時間から洋子が学校にいるのか、一部始終を見られていたのではないかといった不安が、その表情からうかがえた。しかしすぐに美奈は余裕を取り戻した。椅子を隠すところを見られようが見られまいが、洋子は自分に文句は言えないのだと、美奈は確信していた。
「……おはよう、洋ちゃん。今日は早いね」
美奈はわざと明るく言った。言いながらちらりと洋子の机を見た。先ほど美奈の取り巻きが持って行ってしまったから、その机に椅子はなかった。
「あれ、美奈の仕業だね」
自分の机を指差して洋子は美奈に尋ねた。洋子は意識して美奈のことを呼び捨てにした。これまで美奈のことを呼び捨てにしたことはなかったし、そもそも彼女を名前で呼ぶこともなかった。
美奈は洋子に呼び捨てにされたことが気に障ったらしかった。笑顔が歪んだ。
「洋ちゃん、今なんて言った?」
「さあね」
洋子は怒っていたが、彼女は冷静だった。冷たい怒りだった。大声でわめくことも、相手を叩いたりすることもない。
洋子は静かに怒っていた。
それとは対照的に美奈は怒りで落ち着きをなくしていた。
美奈は洋子に飛び掛かった。しかし彼女は洋子を捕らえることは出来なかった。身をかわした洋子は美奈を思いきり突き飛ばした。自分でも信じられないほどの力だった。美奈は簡単に飛ばされて机の角に頭を強く打ちつけた。
それだけだった。
美奈は動かなくなった。
洋子は彼女の顔を覗き込んで呼吸を調べた。
呼吸をしていなかった。
彼女は死んでいた。
美奈は死んだ。しかし洋子は落ち着いていた。なぜなら彼女は最初から美奈のことを殺そうとして突き飛ばしたからだ。
そして美奈は死んだ。あっけないものだと洋子は思った。
こんな簡単に人間は死んでしまうものなのか。
人間が死ぬなんてこの程度のことだ。
人間を殺すなんてこの程度のことだ。
洋子は笑った。とても楽しい気分だった。
「やっぱり殺したのね」
後ろから声がして振り向くとドロシーが立っていた。いつの間に現れたのか洋子には分からなかったが、驚いたりはしなかった。
もしかしたら来るかな? という予感はあった。
「それ、どうするの」
ドロシーは美奈を指さして言った。そのままにしておくわけにはいかなかった。洋子の椅子を隠していった少女がいつ戻ってくるかも分からないし、みんなが登校してくるかもしれない。あまり時間はなかった。
幸い出血はほとんどない。口から微量な血が出ているだけだった。これなら服を汚すこと無く死体の運搬が可能だと洋子は考えた。
洋子は美奈の死体を引きずって体育館の裏まで移動した。途中で誰にも会わなかったのは幸運だった。ドロシーもついてきたが、死体運びを手伝ってはくれなかった。
「じゃあまずは心臓をちょうだい」
ドロシーが言った。洋子は大振りのカッターナイフを取り出した。クラスメイトの智也の引き出しから拝借したものだった。以前そのカッターナイフを友人に自慢していたのを覚えていたのだ。
洋子はそれを使って美奈の腹を裂いた。洋子は自分の服を脱いで裸になっていた。美奈の血で服を汚してしまうわけにはいかないと考えたからだった。体育館の裏には水道があった。たとえ汚れても後で体を洗ってしまえば良い。しかし実際に解体してみると、思っていたような出血はなかった。美奈は痩せていてほとんど脂肪がなかったので、解体は順調に進んだ。脂肪の層にも悩まされることなかった。
ほどなくして洋子は彼女の心臓を取り出した。血に濡れた心臓は太陽の光を浴びてぬらぬらと光っていた。手で少し押してみると、赤い血が噴き出た。洋子はそれをきれいだと感じた。言葉にできないような達成感が彼女を包んだ。
ドロシーはとても喜んでくれた。それは洋子にとって何よりうれしいことだった。
「最高よ、ありがとう。これで私の友人も喜ぶわ。残り二つもお願いね」
ドロシーの言う残り二つとは、脳と筋肉のことだった。洋子も覚えていた。洋子はドロシーに向かって頷いた。迷いはなかった。
あと二人殺そう。そして私自身の願いを叶えようと洋子は強く思った。
ドロシーは満足そうにほほ笑むと心臓を片手にどこかへ消えて行ってしまった。
洋子は近くの水道で体を洗うと服を着た。ハンカチしか拭くものがなかったので水を拭ききれず、服が体に張り付いて不快だった。
洋子はランドセルを背負うと歩き出した。家に帰るつもりだった。今日この学校で洋子の姿を見たのは美奈だけだ。洋子が学校に来ていたという事実を知るものは誰もいない。
美奈の死体は放っておいた。