3.欲しいもの
「私が欲しいものはね、人間よ」
ドロシーは洋子の目を覗き込むようにして言った。洋子には彼女の言葉の意味がわからなかった。人間が欲しいというのはどういうことだろうか。
「……人間?」
「そう、人間が欲しいの。正確に言えば、脳と心臓、そして筋肉」
「……それは必要なものなの?」
「私の友達が欲しがっているの」
友達。一緒に旅をしているという人たちのことだろうか。そのドロシーの仲間が、なぜ人間を、それも体の一部を欲しがっているのか。
洋子にはさっぱり理解できなかった。彼女が理解できていないのを感じたのだろう。補足するような感じでドロシーが言った。
「私の友達は、一人一つずつ欲しがっているものがあるのよ。それが脳、心臓、筋肉」
理解を促すための説明だったのだろうが、洋子の混乱は深まるばかりだった。
「私のお願い、聞いてくれる?」
「……無理だよそんなの」
洋子は思わず答えていた。自分の声が震えているのが分かった。そんなものが手に入るはずがない。もし、それらを手に入れようとするならば、人を殺さなくてはならない。
人殺し。
洋子は背中が粟立つのを感じた。
「私は人殺しじゃないから、そんなことはできない」
洋子が言うとドロシーは高い声で笑った。きりきりと鼓膜を刺すようなその笑い声に、彼女はまた不安を感じた。
「あなた、つらいんでしょう?」
ドロシーはまだ笑いながら聞いた。洋子の目に涙が溜まった。
「殺しちゃおうよ、そいつら」
「そんな……」
殺人は悪いことだ。
誰からも習った記憶などないが、洋子はそう考えていた。
それは自明のことだ。
反論の余地などない。
それなのにこの少女は。
こんなに簡単に。
なんでもないことのように。
人殺しを勧めてくる。
この少女は……。
洋子は耳をふさいで目をつむった。あまりに怖かったからだ。
「いいじゃない、別にさ。そいつらのことが嫌いなんでしょう? 顔も見たくないんでしょう? もうこんな生活は嫌でしょう?」
耳をふさいでもドロシーの声は聞こえ続けた。まるで脳に直接話しかけられているようだった。言葉が体中にまとわりつくようだった。ねばついた言葉は洋子の身体にへばり付き、離れない。蜘蛛の巣にかかってしまったような錯覚を覚えた。洋子はこらえきれなくなって叫んだ。
「やめて!」
声がやんだ。
部屋が静寂に包まれた。聞こえるのは、洋子の呼吸音だけだった。
恐る恐る目を開けるとドロシーがこちらを見ていた。彼女は無表情だったが、洋子が見ていることに気付くと、すぐに張り付けたような笑顔になった。
「残念ね。じゃあとりあえずあきらめるわ」
ドロシーは言った。
「でももし気が変わって、私の欲しいものを手に入れてくれる気になったら、いつでも言ってね。つぶやくだけで良いわ。私はすぐに駆けつけるから」
じゃあね、と言ってドロシーは部屋から出て行った。洋子はすぐに追いかけたがドロシーはいなくなっていた。洋子は階段を下りて、玄関を確認した。しかし玄関を開けた形跡はなかったし、音も聞こえなかった。
自分の部屋に帰る途中で居間にいた義父に誰か通らなかったかと聞いたが、義父は「お前以外は通っていない」と言った。
洋子はさらに「人を殺すことはいけないことなの?」と義父に聞いた。いつもなら義父に自分から話しかける気になることなど考えられなかった。
学校から帰ってくるとドロシーと名乗る少女が部屋にいた。
彼女は、人間の脳と心臓と筋肉が欲しいのだと言った。
そして彼女は誰にも気付かれることもなく消えた。
洋子はとにかく混乱していた。その激しい混乱が、洋子の義父に対する嫌悪感や不快感を一時的に麻痺させていた。
義父はかなり酒を飲んでいたが、奇跡的に機嫌が良かった。洋子の質問に怪訝な顔をしたが、すぐに顔を醜く歪めた。それが義父の笑顔であることに気付くのに、彼女は少し時間がかかった。ああそういえばこの男はこんな顔で笑うのだったなと洋子は思い出した。こいつの顔を最後に真正面から見たのは、もうずいぶん前のことだった。
「お前は、殺人は悪いことだと思うか?」
義父は聞いた。
「……うん、悪いことだと思う」
洋子の答えに義父はさらに顔を歪めた。彼女の返答が嬉しくてたまらない様子だった。
「いいや、違うね。それは全然悪いことじゃない」
義父はビールを飲んだ。
「気に喰わない奴がいたら殺したらいいんだ。この世で一番大切なのは自分が楽しく生きることだ。誰かのせいで自分が楽しくないのならば、そいつを殺したらいい。ただし、ばれちゃいけない。捕まったら楽しくないからな。俺だったら、気に喰わない奴は殺してやるね」
下品な笑い声をあげて義父は笑った。当然ながら義父は人を殺したことなどなかった。それどころか彼が暴力をふるうのは、自分より絶対的に弱くてしかも暴力行為に及んだことが発覚しにくい人物。つまり洋子と、洋子の母親だけだった。威勢がいいのは口だけで一歩外に出れば何にもできない、屑のような人間だった。
しかし、義父の言葉は洋子を怯えさせるのに十分だった。彼女には義父は恐怖の対象であり、絶対的な存在だった。その彼が人を殺していいと答えたのが、洋子には怖かった。義父からの暴力で死にかけたときのことを思い出した。怯えた洋子は目を伏せて自分の部屋に帰って行った。洋子の後ろで義父が笑うのが聞こえた。洋子を怖がらせることができて、満足したようだった。
部屋に帰った洋子は考え続けた。それはドロシーのことであり、彼女の欲しいものであり、殺人についてであり、義父についてだった。
考えれば考えるほど、分からなくなった。
自分の信じていた世界がひっくり返されたような気持だった。
殺人が悪いことなんて分かりきったことだと思っていた。
しかしドロシーや義父は洋子の言葉を否定した。
どうして。
数えきれないほどに「どうして」が、洋子の頭の中にはじけた。
やがて彼女は考えることをやめた。自分ひとりが考えたところで、答えが出るとは思えなかった。洋子は布団に横になり、毛布をかぶった。視界が毛布でいっぱいになり、洋子は自分の匂いで包まれた。
やっぱりここが一番いい、と洋子は思った。
安心すると眠たくなった。
目を閉じると、何も見えなくなった。
暖かくなった。
この毛布の中にいれば安心だ。
明日はまた学校に行かなくちゃならない。そうしたらまたつらい思いをすることになる。せめて今ぐらいは何も考えずに眠っていたい。できればもう二度と目を覚ましたくはない。
机は戻っているかな?
戻ってなかったらどうしよう。
そんなことを考えながら、洋子は眠りに落ちた。