1.暴力
教室に入った洋子は、自分の机が無くなっていることに気がついた。しかしそれは洋子にとって別段珍しいことではなかった。私物が無くなるのはいつものことだったし、机が無くなっていることも今までに何回かあった。それは洋子の日常の一部といえた。彼女は自分の机を探し始めた。
「あれー、洋ちゃんどうしたの? 何か探し物?」
美奈が薄ら笑いを浮かべながら近づいてきた。美奈の後ろではさっきまで彼女と一緒に話していた3人の少女が、やはり笑いながらこちらをうかがっていた。
しらじらしいな、と洋子は思った。多分机を隠したのは彼女たちなのだろう。
別にだからといって文句を言う気もなかった。この教室にいる人間のほとんどが洋子の私物を隠したことがあるからだ。今回はそれが美奈だっただけの話だ。
「机」
洋子は簡潔に答えた。
「へえ、机。すごいな洋ちゃん、さすが。そんな大きなものなくすなんて。あなたどれだけ鈍いのよ」
ねえ? と美奈は後ろの少女たちに同意を求める。その仕草はとてもわざとらしかった。彼女たちはこらえきれずに大声で笑いだした。
「一緒に探してあげようかあ?」
少女のうちの一人が言った。高くハスキーな声だった。のっぺりした顔のその少女の名前を、洋子は憶えていなかった。
「だめよ。それじゃ洋ちゃんのためにならないもの。なくしものは悪いことなんだから、自分でみつけなくちゃ。なくすたびに探すの手伝ってたら、いつまでたっても洋ちゃんは愚図のままよ」
「そうでしょう?」美奈が顔を近づけて、にやりと笑った。
乾いた音が教室中に響いた。
洋子がとっさに美奈の頬を平手で叩いた音だった。
どうして美奈を叩いたのか洋子は分からなかった。
頭で考える前に、体が動いていた。
どうやら自分は腹を立てているらしいな、と洋子が思ったのは美奈がうずくまっているのをぼんやり見ているときだった。
洋子が見ていると、美奈がものすごい勢いで起き上がった。その顔には先ほどの余裕は全く見られなかった。眼が血走っていた。彼女はヒステリックに叫び、洋子を突き飛ばした。
「私を叩いたな、このアマ! 殺してやる!」
今度は洋子がうずくまる番だった。倒れた洋子に、美奈は容赦なく蹴りを浴びせた。
「死ね! 死ねこの豚!」
彼女は洋子の腹と顔を執拗に狙った。顔を蹴ると洋子はとっさに頭をかばう。すると今度は腹を蹴り上げる。それの繰り返しだった。
教室にいた人間は誰も口を出すこともなくただ二人のことを見ていた。それもまた、洋子の日常だった。どうやら口内を切ったらしく、血の味がした。固いコーンのようなものが舌の上を転がった。どうやら歯が一本折れたらしい。それが乳歯であることを祈りながら、洋子は意識を失った。
目が覚めた洋子が初めて目にしたのは、染みだらけの汚い天井だった。それが保健室の天井であることを彼女は知っていた。もうこの天井も数えきれないほど見ていた。
洋子は身体を持ち上げた。
見慣れた風景だった。
嗅ぎなれた消毒液の臭いがした。
洋子が目を覚ましたことに気が付いて保健室の先生がこちらに歩いてきた。
全てがいつも通りだった。
保健室の先生は洋子に優しく接してくれるので、彼女は先生のことが大好きだった。
もう遅いから帰りなさいねと先生は言った。
洋子が窓の外を見ると、既に夕闇が迫ってきていた。どうやら朝からずっと寝てしまっていたらしい。意識を失うことは珍しくないが、ここまで長い間眠っていたのは初めてだった。
「ありがとうございました」
保健室の先生にお礼を言って、洋子は傷だらけのランドセルを背負った。カッターやハサミで痛めつけられたそれは、原型をほぼ無くしており、赤いズタ袋のように見えた。
道を歩いていると、洋子は激しい吐き気に襲われた。
美奈に蹴られたのが悪かったのかもしれなかった。
我慢ができずに、彼女は電柱のそばで嘔吐した。
電柱の根元には犬の小便と思わしきものがかかっていた。犬は自分の小便で縄張りを主張するのだと洋子は聞いたことがあった。もしかしたら彼らの縄張りを一つ潰してしまったのかもしれないなと、洋子は申し訳ない気がした。
洋子は朝の出来事を思い出した。考えるたびに、心臓のあたりがもやもやとした。洋子は自分の感情が良くわからなかった。頭がひどく痛んだ。彼女は立ち上がると、再び歩き出した。
家に帰ると、義父が一人でテレビを見ていた。すでに空になったビールの缶が男の近くに数本転がっていた。義父は洋子が「ただいま」と声をかけても反応しなかった。洋子はそちらの方が嬉しかった。義父は機嫌が悪いときは洋子を殴った。反応がないというのは男の機嫌が悪くない証拠だった。
本当は洋子もこの男に声をかけたいと思ったことはなかった。しかしそれでも、洋子は学校から帰ってくると義父に「ただいま」と声をかけなくてはならなかった。もし彼女が声をかけずに自分の部屋に入ってしまうと、義父は機嫌が悪くなるからだ。
学校での暴力よりも、家庭内の暴力のほうが洋子は怖かった。この家には自分の居場所がある。確かに義父は邪魔な存在だったが、ここには自分の部屋がある。それに義父はしょせん一人だ。30人以上の敵がいる学校に比べれば、天国だった。
しかし義父は大人だ。
私よりずっと体が大きい。
私よりずっと力が強い。
私は義父にはかなわない。こいつからの暴力は、ただ耐えるしかない。今日学校で美奈にしたように義父を叩くと、あいつはとても怒るだろう。そうなると命が危ない。
洋子はすでに、一度義父からの暴力で一度死にかけていた。肋骨が折れ、腕が曲がった。足も砕けた。医者が、この子はもう歩けなくなるかもしれないと言ったぐらいひどい怪我だった。
洋子はそれでも少しうれしかったのを覚えている。
自分が病院に運ばれたことで、義父の虐待が周りの人間に知られることになったと思ったからだった。しかしそれは思い違いだった。
洋子は階段から転げ落ちたことになっていた。病院のベッドでそのことを知った彼女は、絶望した。そして彼女はすべてをあきらめた。
諦観だった。
やがて怪我は治ったが、体がわずかに歪んでしまった。今でも長距離を走ったりすると関節が痛む。
洋子が死にかけたからと言って、義父が反省した様子もなかった。相変わらず暴力は続いた。
洋子は階段を上り、自分の部屋に入った。
四畳半の小さな部屋だった。
暗く陰気な場所だったが、洋子はこの部屋が大好きだ。
学校の、そして義父の暴力から逃げられるこの世でただ一つの場所だった。彼女は自分の緊張がほぐれていくのを感じた。自分が自分でいられる唯一の場所。
ズタ袋のようなランドセルを放り出し、敷きっぱなしの布団に倒れ込んだ。自分の体臭が染みついた布団は、彼女を安心させた。足元にある毛布を手繰り寄せ、自分の身体にすっぽりとかぶせると、視界が布でいっぱいになった。思わず笑みがこぼれた。
「遅かったね」
突然声が聞こえた。義父のものでもないし、母のものでもない。初めて聞く声だった。声の感じから、洋子は自分と同じくらいの年齢の女の子を想像した。
恐る恐る毛布から顔を出して、彼女は部屋を見回した。
部屋の隅に誰かが立っていた。
どうやら、嗤っているらしかった。