彼女の贈り物
目の前に横たわるそれは杏子のカタチをしていた。
見間違えるはずはなかった、俺は杏子の恋人なのだ、見間違えるはずがない。白いシーツを被せられたまま無言で眠る横顔は、生気を感じさせないぐらいに、とても美しい。
杏子の頭の上に置かれた二本の蝋燭が揺れ、花瓶の樒から葉が一枚落ちた。
「事故にしては不思議なくらいに損傷が少ない、いやほとんど見当たらない。たぶん打ち所が悪かったのでしょう。ご愁傷様です」
粛々として言葉を垂れた後、白衣の壮年の男は部屋を辞した。看護師もそれに続いた。部屋には俺と杏子だけが残った。
「なんでだよ、なんでだよ、杏子……」
俺は項垂れるしかなかった。手の甲に何か濡れたものを感じた。あしたまた会おうね、て約束したじゃないか。確かに、ついさっきそのあしたになって、俺は杏子と再会していたけど、こんな再会ってないんじゃないかな。きょうはクリスマスだった。
俺にはなんだか罰のように感じられた、咎められる謂れのない罪のための罰。
世の恋人がそうするように俺たち二人もクリスマス・イヴにデートをした。俺はプレゼントを買うために十二月の初めごろからバイトを増やし、杏子もなんだかんだと忙しそうで、昨日は約一ヶ月ぶりの再会だった。会えない間、電話やメール交換とかはしていたけど、でも実際に会うとそれまでの一ヶ月間の相手の不在を埋め合わせずにはいられなかった。渋谷駅前で待ち合わせをしてから、ずっと二人で取り留めのない会話を続けて、東京スカイツリーの展望室から一望する東京の景色に二人ではしゃいで、そしてちょっと背伸びをしたレストランで夕食を取り、クリスマス・イルミネーションの下でお互いにプレゼント交換をした。
この日のため、杏子にプレゼントをするために俺はバイトを掛け持ちして頑張った。秋口に二人でデートしていた時、杏子は街路に臨むウィンドウの中の鼈甲の髪留めに釘づけになっていた。俺がどうしたのって聞いてもしばらくは反応を返さなかった。それぐらい見とれていた鼈甲の髪留めだったが、値段も結構なもので、杏子の溜息といっしょに俺たちはその場を後にした。
「さっきの、ほしいの?」俺は訊いた。
「ううん。なんだか素敵だなぁ、て思って」見上げる笑顔が秋の日差しの下で寂しそうな陰影を刻んでいた。
「俺もちょっと無理をすれば出せなくもないとは思うけど」と財布を覗き込むと、樋口一葉さんと何人かの夏目漱石さんが仲良く文学論談をなさっていた。肩を落とす俺。
「ほんとにいいよぉ、ヒロ君」
そういう杏子だが、俺はいつか杏子にあの鼈甲の髪留めをプレゼントしたいと思った。だからクリスマスのプレゼントを何にしようと思い悩むことは俺にはなかった。そしてバイトを増やすことにした。
そもそも、杏子がそれまでもらってきたプレゼントはどれも質素なものばかりだった。日用品や学用品などなど、俺が誕生日とか事あるごとに「何かほしいものある」って訊くと「う~んとねぇ、あ、そうだ、そろそろ台所の洗剤が切れるところだったんだ。ヒロ君、あたし食器用洗剤がほしい」なんて満面の笑みで答えるような女の子だった。ゲームセンターにいっしょに行った時なんて、クレーンゲームでとったピンク色のクマのぬいぐるみをあげただけで飛び跳ねるように「あたし、これ一生大事にするね」と喜んでいた。もちろん、そのぬいぐるみを洗濯して外に干している間に強風に煽られ帰らぬクマさんになった時、杏子は滂沱の涙を流して、俺はあやすのに苦労した。
生まれがそうさせるのかもしれない、と思ったことがないといえばウソになる。彼女はまだ物心つく前に両親とは死別し、高校入学までずっと施設で育てられてきた。そのことを初めて聞いた時、俯き影をつくる杏子を俺は他人のように思えなかった。自分とそっくりな、まるで鏡を見ているような気分だった。俺はきっとものすごく間抜けな顔をしていたに違いない。だから、初めてのデートの時、杏子は自分の生い立ちについて話してくれたあと「変な話はやめるね。ごめんね、突然。なんだかヒロ君には前々から知り合っていたみたいな安堵感があって、つい」と言って気を使ってくれた。俺は、そんな杏子に気を遣わせてしまったことが何だか恥ずかしかった、俺も杏子と同じさ、ということが喉から出てこず、さらに間抜けな面になっていたように思う。
杏子は、いま天国の両親――声も顔も温もりも知らない両親――と再会しているのだろうか。項垂れる俺はふと顔を上げて杏子を見た。艶めく黒髪は、杏子が唯一誇っていたものだ。俺はそれ以外に杏子のいいところをいくつでもあげることができたが、杏子自身は自分のいいところをその黒い長髪以外にあげることができなかった。
杏子にプレゼントしたあの鼈甲の髪留めはどこだろう、俺は気付かぬうちに鼈甲の髪留めを探していた。顔をめぐらすと、すぐ近くの荷台に杏子の持ち物は置かれていた。ただ一つの使い古したよれよれのバックの口から、包装した箱が顔をのぞかせている。俺はそれを手に取り白布をそっと払うと、箱の中の鼈甲の髪留めを杏子の髪につけてあげた。とても似合っていた。
「杏子、とても」俺は髪留めから流れる髪を梳く「とてもきれいだよ」
返事はなかった。
艶めき立つ桃色の唇は今にも動き出しそうだったが、杏子は無言を貫いていた。
俺は杏子の頭を愛でるように一つ二つと撫でると、ふと背後でドアが軋む音がした。振り返ると、ドアが半分開いていた。何か気配を感じた。呆然とする中、気になって俺は霊安室を後にした。
昔のことが、唐突に思い出された。
あれは、二人でドライブした時のことだ。国道二四六号線を御殿場に向かっているなか、俺たちは他愛もない会話に講じていた。やれ仏文科の教授がどうの、やれバイト先の店長がどうの、やれ同級生が云々、昨日見たテレビ番組が何とか。
「でも、俺、ああいうオカルト系とか、ダメなんだよね」ハンドルに手をかけながら、俺。
「え、意外。ヒロ君の弱点だ。これはメモしておかなくちゃ」お道化るようにして助手席の杏子はメモを取るふりをする。
「おいおい、やめれ」
その日はよく晴れていて、視界は上々だった。左右に密に群がる雑木林が抜けていく。先行車も後続車も対向車もなく、人気はあまりなかった。催眠術をかける前のように、密生する木々がリズム正しく後方へ流れていった。
「なんだか人気がないな」山道だから当たり前と言えば当たり前だが。
「なに、怖くなっちゃったの」にやりとした雰囲気が伝わってきた。
俺は強がろうとして短い逡巡に言葉を詰まらせた後、溜息を洩らすように「そうかもしれない」と力なく言った。
「あ、ごめん。冗談だよ冗談。それともなにかあったの」
「いや、大したことじゃないんだけど」白い靄の中で死んだ両親の顔が脳裏をよぎる「でも、俺、ほんとオカルト系ダメなんだ」
「そうなんだ、ごめんね」しゅんとした空気が伝わってきた。
何かを感じ取ったのか杏子は黙ってしまった。こういうことに関して杏子の勘は鋭いことを何度か杏子と接するうちに俺は理解していた。だから杏子は俺の短いこの言葉から、何かを読み取ったのかもしれなかった。それが具体的な言葉として表わされるたぐいのものではなく、彼女自身の言う「何となく」というものなのかもしれない。この世には往々にして言葉では表せないものがあるのだ。
あるいは、俺の考え過ぎで、杏子が静かになったのは単に決まりが悪かったからかもしれない。それこそ俺は「変な話はやめやめ」と空気を払拭するべきだったのかもしれない。
何となく居心地の悪い沈黙があった。長い沈黙だった。
雲が出てきたのか、視界が少し暗くなった。しばらくするとトンネルがあり、中に入るとオレンジの常夜灯の明滅が規則正しく、なんだか俺は落着かなくなってきた。
トンネルを出ると一瞬目が眩んだが、視野が徐々に回復してくると、辺り一帯は深い霧に包まれていた。真っ白な世界だった。
「なあ、杏子」
声をかけるも返事がなかった。俺はそっと隣に視線をやると、杏子はぐったりと助手席に凭れかかり項垂れていた。いままでそんなそぶりがなかったから忘れていたけど、杏子は乗り物が苦手だって言っていたことをふと思い出した。
ラジオを入れてみるもノイズばかりでどこの電波も拾えなかった。山道だから、当たり前と言えば当たり前なのかもしれないが。
右に左にうねる道をひたすらに走った。地図によればしばらくは脇道もないはずだから、このまま道なりに行けばよかった。
白い靄以外に変化のない道は、なんとなく俺を不安にさせた。父さんと母さんが心中した時も、俺はこんな白い霧の中を迷子になった。その時は、気がつくと俺は誰かに手をひかれていたが、いまは俺を探し出してくれた誰かの温もりはない。
突然、目の前に強力な二対の光が迫ってきた。ファーンという空気を震わす音とともに地響きが近づいてきた。咄嗟に俺はハンドルを左に切った。瞬時に橙色の分離線が右に流れて行く。隣を4tトラックが荷台に建築物の巨大な鉄骨を乗せて走り去って行った。
動悸が激しかった。相変わらず隣は静かだったが、霧は少し薄くなったみたいだった。俺は心配になって車を路肩に止めようとスピードを緩めたとき、思い出したかのように杏子は目を覚ました。
「むぅ~、ごめん、寝てた」こともなげに目をこすりながら杏子は言った。
俺は安堵の息を吐くと、緩めていたスピードを元に戻す。霧が晴れて来ていた。
「ヒロ君、さっきの話だけどね」
「なんだよ、突然」まだ少し心臓が落着かない。
「私ね、霊感、結構強いんだ」本当に唐突な話だった。「だからね、もし、ヒロ君が何か大変なことに巻き込まれても、あたしが守ってあげる」
なぜか胸を張って杏子は言った。さっきの話をまだ心配しているのだろうと簡単に予想がついた。本当に心配して言ってくれているんだと思った。杏子はそういう女の子だ。けれど、そんな杏子に何かしてあげられていただろうか、と俺は情けなくなった。いまだって気付かずに対向車線を走ってしまっていたのに。
「なんだよ、それ。俺、守られてばっかでちっとも杏子のためになってないじゃん」
「ううん、ヒロ君があたしの隣にいてくれる、それだけであたしとっても救われてるって思うの」
なんだよそれ、ともう一度繰り返すと山道を抜けた。霧は晴れていた。まぶしさに目が眩みそうだった。しばらくして御殿場のアウトレットについた。二人でソフトクリームをなめながら富士山を見た。霊峰富士。その姿は圧巻だった。
取っ手をつかみドアを開くとのっぺりとした廊下があるだけだった。
窓もなく左右に伸びる廊下が蛍光灯に照らされているだけの、真っ白の世界があった。純白、純粋、イノセンスを体現したような空間はひどく空虚な感じがした。
俺は一歩廊下に出る。不思議な気がした。知らせを受けて俺は病院のこの部屋に駆け付けた。切羽詰まっていたからかもしれないが、この廊下がこれほどまでのっぺりとしたものだとは気がつかなかった。左に首を巡らすと廊下の先は霞んで見えた。どこまでも伸びる廊下だ。へんなものだ、ここは廊下をこんなに長くして一体どうしようというのだろうか。患者が逃げられないようにでもしようと言うのか。患者? ここはどこだったっけ。右を向く。左側と変りはなかった。
何の前触れもなく俺の脳裏に反物質や陽電子なんて単語がよぎった。ここは俺たちがいた世界が裏返った世界なのだろうか。すると、俺はこのまま異物としてエネルギーに変えられてしまうのだろうか、両親のように、俺と言う存在は消失するのだろうか。しかし一向にそのような気配はない。ただ廊下があるだけだった。
そんな考えが去来する中、俺は廊下を歩いていた。ずっと続くのっぺりとした廊下。天井に規則正しく配された蛍光灯の光を受けてリノリウムの床が反する変な光沢を見ながら、ゆっくりと歩いていた。振り返ると俺の出てきた部屋はもう霞の向こうのようだった。
不思議なことに部屋は俺が出てきたもの以外にないようで、廊下と一緒にずっと壁が続くだけだった。はて、なんで俺はこんなところに来たんだ、と疑問が頭をよぎる。
きょうはクリスマスのはずだった。杏子ときょう会う約束をしているんだ。きのうもデートしたけど、だからといって毎日会ってはいけないということもないだろう。なんだろう、毎日会う、といったところに甘美な響きを感じた。朝起きたら杏子の寝顔が隣にあって、一緒に朝食をとって、一緒に仕事に出かけて、一緒に帰宅して、一緒に夕飯を作って食べて、一緒に寝る。最高に幸せじゃないか。とにもかくにも俺は杏子に会いたかった、いや会わなくてはいけないんだ。俺は杏子を求めて廊下を彷徨した。
そんな折、廊下に変化が現れた。目の前に壁が見えたのだ。もう少し行くとそれが丁字路だということがわかった。廊下が左右に折れているのだ。目の前の壁にはどちらに何があるのかという案内板があるかと思ったが、やはり無表情な壁があるだけだ。丁字路までまだ少しあるので、ここからでは角に隠れて丁字路のその先に何があるのかは分からない。
別段俺は歩みを早めたりはしなかった。しかし杏子を求める心は猛らんばかりだった。丁字路につこうとした時、「ヒロ君」と右の方から声がした。俺は角を曲がると、そこには俺を見上げる杏子が居た。お下げに編んだ髪は何も纏わぬ艶やかな黒一色だった。
「杏子」俺は呻くように呟く。よほど長い距離を歩いたらしく喉はからからだった。
「もう、ヒロ君、どこ行ってたの。ずいぶん探したんだよ」
「ああ、ごめん。ずっと歩いてたんだ」
「歩いてた?」
「うん、この廊下を」といっていま来た廊下を振り返ろうとすると、そこには壁があるだけだった。「あれ、おかしいな」
「ヒロ君、そっちじゃなくて向こうの廊下じゃない」
杏子は俺の背後を指さす。俺は杏子の指先を追ってみると、また例の終わりの見えない廊下が続いていた。
「そうだな。うん、そうだ。なんだろう、俺、疲れてるのかな」
「きっとそうだよ。ヒロ君、今月中ずっとバイトしてたんでしょ?」
「ああ、杏子にどうしてもプレゼントしたくてな」プレゼント?
杏子ははにかんだ。嬉しかったよ、と呟く声が聞こえた。
「じゃあ、ヒロ君、行こう」
「行くって、どこに?」
俺には杏子とどこに行くのかさっぱり見当がつかなかったから、何気なくそう訊いた。
「どこって、この廊下の、ずっと先よ」
杏子が言うのは、彼女の後ろに伸びる廊下のことだったが、こちらの廊下にはしばらくすると出口のような光がしっかりと見てとれた。杏子とはその光のずっと先に行くことになっているらしかった。
そうだな、と言って俺は一歩を踏み出す。杏子は俺を導くように先を歩く。杏子のお下げが左右に揺れる。その時、俺の足に激痛が走る。一瞬のことだった。声を上げる間もなく去っていった痛みは右のポケットから発せられた。
俺はポケットに手を突っ込むと、綺麗に包装された手のひらサイズの四角い包みが出てきた。俺はそれをそっと開けてみる。中には、表紙にメリークリスマスと書かれたメッセージカードと鈍い銀色の懐中時計が入っていた。杏子は先に進んでいる、背後の俺を気にする様子はなかった。
懐中時計を開くと、その時計は壊れていた。長針は左に回り、短針はありえない速さで右に回り、秒針は十二の文字とそのすぐ隣の一分角をせわしなく行ったり来たりしていた。俺は光の向こうに出たら真直ぐに修理屋に行こうと思い、懐中時計をポケットに戻した。メッセージカードを開いてみる。
メリークリスマス! これからもよろしくね 杏子
小さな丸っこい文字でそう書かれていた。杏子直筆のメッセージだった。俺の方こそ、よろしく頼む、という思いとともに、猛烈に杏子を抱きしめたくなった。先に行く杏子の背中を追いかけるようにカードをしまおうとした時、ふと異様なものを目にした。カードに書かれた手書きのメッセージが滲み、折れ曲がり、そして再びはっきりとした小さな丸っこい文字になった。
ついて行っちゃダメ! ヒロ君、気をつけて 杏子
現実離れした光景に、俺は一瞬息がつまる。
「どうしたの?」
目の前から振り向きざまの杏子の声がかかる。カードに目を落としながら驚愕の表情をする俺を訝しんでいるようだった。
「いや、なんでもない」
俺は咄嗟にカードを後ろ手に隠した。
「ふーん。ま、いいわ。それよりもヒロ君、今度は迷子にならないでね。捜すのにどれだけ苦労したか。うんと長い時間がかかったのよ。ちゃんと付いて来てね」
そういうと杏子は踵を返し、また光の方へ歩き始めた。
嫌な汗が俺の頬を伝う。
向かう廊下の先の方に目をやると、先ほどまで光があったところが、今度は原油をさらに濃くしたような、何か黒く粘性の強い水面の壁のようになっていた。背中を向ける杏子の黒髪はそれに重なり、黒と黒のコントラストが不思議な感じがした。壁の地獄を体現したような黒と、髪の黒曜石のような玲瓏といた黒。
そうだ、俺たちはプレゼント交換をしたじゃないか、という何とも場違いじみたことを俺は思い出した。杏子は俺にこの懐中時計をプレゼントしてくれた。それでは、俺は杏子に何をプレゼントしたんだっけか。
不意に白い布を被せられた杏子の姿がフラッシュバックする。俺は何か重大なことを忘れてしまっている、そんな気がした。
「そうだ」杏子へのプレゼントを思い出した「杏子、俺のプレゼントはどうだった」
杏子が欲しがっていた鼈甲の髪留めだ。
「うん。素敵だったよ。ありがとうね、ヒロ君」杏子は振り返らずに言った。
「いや、まあ、うん」
腑に落ちない。俺はもっと杏子が喜ぶと思ったんだけど。ならばいまここでつけてあげるのもいいかもしれない。そんな思いが浮かぶと、俺は杏子に鼈甲の髪留めをつけてあげたことを思い出した。どの杏子に? 俺は混乱しているのかもしれない。なぜ?
「杏子、そのプレゼント、出してよ」
「どうして」
「いや、つけてあげようと思って。絶対杏子に似合うからさ」
杏子は立ち止ると、こちらに近づいてきた。
「ごめんなさい、いま持ってないの。家においてきちゃった。だから向こうに一緒に取りに行こう」
ね、と首を傾げて下から俺を覗き込んでくる。その双眸には不思議と生気を感じなかった。
「お前は誰だ」俺は意識せずにそんなことを口走っていた。背筋に冷たいものを感じる。
「何よ、あなたの恋人の広瀬杏子よ。恋人の顔も忘れちゃったの?」確かに容貌は杏子と瓜二つだった。
「いや、俺は杏子に鼈甲の髪留めをつけてあげたはずだ。おかしい、どうして杏子はそれをしていないんだ?」
目の前の杏子は理解できないというように首を傾げるだけだった。
「杏子は、杏子は――」
俺は何か重大なことを忘れている、いや、認めようとしていない。何をだ?
いままでことに考えを巡らす、ここに至るまで何があっただろうか。徐々に鮮明さをますその光景に俺は怖気が走った。
霊安室に横たわる杏子の身体。俺はそれに鼈甲の髪留めをつけてあげたのではなかったか?
俺が言葉を繋がずに黙っていると、目の前の杏子はぐっと身を屈める。まるでいまにも飛びかからんとしているようだ。
杏子は、杏子は――
「杏子は死んだんだ!」
そう、杏子は死んだ、死んだんだ、交通事故で……
再びポケットに激痛が走った。俺は後ろ手に隠していたメッセージカードを見ると書かれていた小さな丸っこい文字は、大きな殴り書きになった。
逃げて!
俺は駈け出した、杏子、いや、杏子の偽物とは反対の方へ。
手と足が千切れてしまいそうなほど力を振り絞って走った。背後を振り返る余裕もなく、また振り返る勇気もなかった。ただただ、恐怖心が身を蝕んだ。
「待って。どうして逃げるの、ヒロ君」
杏子の声で、杏子の偽物は俺を追ってくる。肩を掴まれる感触。そのままつんのめるように地面に倒される。俺は必死に手足をもがき、仰向けになると、杏子の偽物はマウントポジションで俺を捉える。細い腕からは想像もできない膂力だった。杏子の偽物は口の端を釣り上げて笑う。人間のそれを越えて、口角は目尻の近くまで上がっていた。鋭い歯が並ぶ。戦慄した。
――ヒロ君が何か大変なことに巻き込まれても、あたしが守ってあげる
遠くで、声が聞こえた。耳の奥だったかもしれない。それでもその声の優しさに、俺の強張った筋肉が一瞬弛緩した。
その瞬間、俺を食らわんと口を大きく開けた杏子の偽物が、はるか向こうに吹き飛んだ。仰向きに倒れる杏子の偽物は、立ち上がろうと身をよじり震えていた。
これはチャンスだ、と分かった。この隙に逃げ出さなくては。そうは思うも、俺の脚は動かない。手も震えが止まらない。完全に腰が抜けてしまっていた。
杏子の偽物が立ち上がった。ゆらりゆらりとこちらに近づいてくる。俺は覚悟した、自分の消失を。
「ど、どどどうして、ヒヒヒ、ヒロ君はwaたしを拒むのnonnonnnn。む、向こudえヒロ君のおおおお父さんmo母さnもhiro君が来るのを待っているのに」
ねえ、と近づいてくる杏子の偽物。俺は堅く眼を瞑った。目を閉じる一瞬、俺と杏子の偽物の前に立ちふさがる鼈甲の髪留めをした女の子が見えた気がした。誰だろうと考える前に急速に俺の意識は遠退いて行った。
耳元に温かくて柔らかいものと、そして居心地の良さを感じた。まるで陽だまりの中にいるようだった。
俺は身じろぎをして、この温もりを確かめようとした。
「起きた?」囁くような声が降ってきた。
俺は目を薄く開けると、ナースキャップをつけた看護師の顔がぼんやりと見えた。どうやら俺は看護婦さんに膝枕をしてもらっているらしかった。
「悪い夢を見ていた気がする」
「そう」
「恋人が死ぬんだ」
「そう、悲しいわね」
「ここはどこ?」
「斉藤記念病院の待合所」
ふと周りを見ると、焦点の合っていない視界に、確かに待合番号の電光表示板があり、俺はそのいかにも待合所にある安っぽいベンチに横になっているのだった。
俺は訝しんだ。どうしてそんなところに俺はいるんだろう。
ふとポケットを確認してみる。中には六時十八分を刻む懐中時計と、折れ曲がってしまったメッセージカードがあった。開くと、「メリークリスマス ずっと見守ってるよ 杏子」と小さな丸っこい文字で書かれたメッセージがあった。
大丈夫、と問う声が聞こえた気がした。俺は窓の外の暁光を呆けるように見詰めていた。
「ヒロ君」
声に振り向くと、輪郭のぼんやりとしたナースが居た。俺はわけもわからずそのナースにしがみつくと、彼女も俺を優しく抱いてくれた。
結局俺は杏子に何もしてあげられなかった。
なんだかこみあげてくるものを全て出しつくすかのように、俺は声を上げた泣いた。時間が止まったような空間でずっと、ずっと。俺は杏子に何かしてあげられただろうか、と。
「身寄りのない私に優しくしてくれたのは、ヒロ君だけだったよ、うれしかったんだ、家族ができたみたいで」
自分の泣き声で誰の声かはわからなかった。
懐中時計の長針が一歩を刻んだ。
長い一日が、はじまる。