しょぼくれサラリーマン救済事業、はじめました
一
死因は過労だった。まあ、そうだろうなと自分でも思う。
俺、田中吉郎、五十歳、独身。経理一筋二十八年。彼女いない歴、実に五十年。最後の記憶は、月末処理を終えた深夜のオフィスで、椅子から立ち上がろうとした瞬間だ。
気がつくと、真っ白な空間にいた。目の前には「神」と書かれた名札を付けた、やる気のなさそうな中年男が事務机に座っていた。神様というのは、存外うちの部長に似ている。
「田中吉郎さんね。はい、過労死。お疲れさまでした」 「……あの、天国とかですか、ここ」 「窓口です。で、あなた、生前の徳がまあまあ溜まってるんですよ。無遅刻無欠勤三十年、後輩の尻拭い百八十七件、送別会の幹事二十四回。地味ですけど、うちの査定では優良物件でして」
神様はファイルをめくりながら、事務的に続けた。
「特典付きで転生できます。希望は?」 「……はあ。じゃあ、普通に、健康な身体で」 「あー、それがですね」
神様は初めて申し訳なさそうな顔をした。
「今、空きがあるのが『二十歳・女子大生』の枠だけなんですよ。それも、ちょっと特殊な業務付きで」 「業務?」 「『しょぼくれサラリーマン救済事業』。疲れた勤め人に、ささやかな癒しを供給するお仕事です。あなた、適任なんですよ。なにせ五十年、供給される側の気持ちを研究し続けた」 「研究してません。ただ縁がなかっただけです」 「同じことです」
同じことなのか。
抵抗むなしく、書類には既に判が押されていた。うちの部長と同じで、この神様も、決裁が終わってから報告するタイプだった。
二
目が覚めると、俺は二十歳の女子大生・田中吉乃になっていた。
ワンルームの部屋、大学の学生証、通帳、そして枕元に一枚のカードが置いてあった。表には金色の文字でこう書いてある。
『救済事業者証 田中吉乃殿 業務内容:疲弊した勤労男性への目の保養の供給 報酬:対象者の癒され度に応じ、都度口座に振り込み ※特別加算:対象者が帰宅後、あなたを思い出して一人で元気を出した場合、回数に応じてボーナスが発生します』
「……最後のやつ、絶対言い方考えただろ」
鏡を見た。そこには、控えめに言って、とんでもない美人がいた。長い黒髪、大きな目、そして俺が五十年間縁のなかった曲線というものが、あるべき場所に全部あった。
正直に言う。三日間は鏡の前でただ混乱していた。四日目に通帳の残高(心細い)を見て、腹をくくった。五十年の社会人経験が言っている。配属されたからには、業務を遂行するしかない。
それに -俺は知っているのだ。
金曜の終電で、吊り革にぶら下がって死んだ目をしている奴らの気持ちを。誰にも労われず、誰の視界にも入らず、ただ消耗していくだけの中年の気持ちを。あいつらは俺だ。二十八年間の、俺なのだ。
あの頃の俺が何に救われていたかといえば、思い出したくもないが、本当にささやかなものだった。向かいのホームに立つ綺麗な人。風でふわりと揺れたスカート。それだけで、ああ明日も行くか、と思えた夜が、確かにあった。
よし、と俺は鏡に向かって頷いた。
「供給する側に回ってやろうじゃないか。同志たちよ、待ってろ」
三
業務初日。俺は入念に装備を選んだ。
デニムのミニスカート。上は白のブラウス。そして下着は、五十年の研究成果(つまり偏見)に基づき、純白一択とした。奇をてらってはいけない。疲れた男が求めるのは、変化球ではなく、ど真ん中の直球なのだ。
移動手段は自転車にした。これも計算のうちだ。徒歩では一瞬、電車では密室すぎる。自転車の、あの「一瞬だけど確かに見えた」という距離感こそが、罪にならない癒しの黄金比なのである。
夕方六時。駅前から続く帰宅ラッシュの歩道の脇を、俺はゆっくりとペダルを漕いだ。
デニムミニで自転車を漕ぐと、どうなるか。漕ぐたびに膝が上がり、裾が持ち上がり、俺の計算では「見えそう」の位置をキープするはずだった。
はずだったのだが。
信号で停まって足を着いた瞬間、ぐん、と裾が付け根までずり上がった。純白が、夕日を浴びて、堂々と世界に公開された。
「あっ」
声を出したのは俺ではなく、横断歩道の向こうにいた、くたびれたスーツの男だった。四十代後半、鞄はくたくた、靴は踵が減っている。かつての俺と同型機だ。男は目を見開いて硬直し、慌てて視線を空に逃がし、それからもう一度だけ、ちらっとこちらを見た。
その顔に、ほんの少しだけ、生気が戻った。
ピロンと頭の中で音がした。
『救済一件を確認。報酬三千円を振り込みました』
……なるほど、こういうシステムか。
俺は何食わぬ顔でペダルを漕ぎ出した。羞恥心が完全にないと言えば嘘になる。二十歳の身体は正直で、顔が勝手に熱くなる。だが、それを上回る手応えがあった。あの男の顔。あれは月曜の朝、まだ会社に行けるほうの顔だ。
その夜、風呂に入っていると、また頭の中でピロンと鳴った。
『特別加算が発生しました。本日分:一件。ボーナス五千円を振り込みました』
「…………」
通知の内容を三秒理解し、俺は湯船に頭まで沈んだ。誰だ。いや、たぶんあの同型機だ。おい、元気出しすぎだろ。俺はしばらく湯の中で悶えてから、浮上して、天井に向かって言った。
「……まあ、明日も頑張れよ」
それが供養というものだ。いや、保養か。
四
業務にも慣れてきた二週間目、俺は新装備を投入した。プリーツのミニスカートである。
デニムは硬い分、動きが読める。だがプリーツは風と物理法則に全面的に従う、上級者向けの装備だ。本来なら、自転車に乗るときは裾をサドルの下に挟み込んで固定する。それが女子の常識だと、大学の友人(俺にできた、人生初の女友達だ)が教えてくれた。
俺は、あえて挟まなかった。
プロ意識である。
金曜の夕方は、救済需要のピークだ。一週間分の疲労を溜め込んだ同志たちが、駅から吐き出されてくる。俺は坂の上から、駅前通りに向かって自転車を走らせた。
結果から言うと、計算を超えた。
坂の下りで速度が乗り、正面から風を受けた瞬間、プリーツスカートは布としての職務を完全に放棄した。裾は根元から真上にめくれ上がり、旗のようにはためき、純白は隠すという概念ごと置き去りにされた。周囲に公開されるどころの話ではない。掲揚されていた。
「ちょ、まっ……!」
片手で裾を押さえれば、ハンドルが暴れる。両手で押さえれば、事故る。五十年+二十歳の全人生で最も高度な判断を迫られながら、俺は駅前通りを白旗掲揚のまま突っ切った。
歩道のサラリーマンたちが、次々に振り返るのが見えた。
ピロン。ピロン。ピロンピロンピロンピロン。
『救済を確認』『救済を確認』『救済を確認』――脳内の通知が、月末の経理部のプリンターみたいに鳴り止まなかった。
坂の下でようやく停まり、真っ赤な顔でスカートを押さえる俺の頭に、締めの通知が響いた。
『大量救済を確認。本日の振込額:八万四千円。事業本部より:本日のあなたはとても輝いていました』
「うるさい黙れ!」
輝いていたのはスカートの中だ。俺はその日、帰り道でサドルに裾を挟む練習を三十分した。プロ意識にも、限度というものがある。
五
月末。通帳には、経理二十八年の俺が二度見する額が並んでいた。
だが不思議なもので、金額よりも思い出すのは、顔だった。信号の向こうで生気を取り戻した同型機。坂の下で「ぶはっ」と吹き出して、隣の同僚と久しぶりみたいに笑っていた若手の二人組。あの一瞬の顔のために、俺はどうやら明日もペダルを漕ぐのだ。
夜、白い空間の夢を見た。神様が事務机で判子を押しながら言った。
「事業、好調みたいですね。本部でも評判ですよ」 「……あの、一つ聞いていいですか。この仕事、意味あるんですか。俺のやってること、ただの目の保養ですよ」 「田中さん」
神様は判子を止めて、初めて真面目な顔をした。
「あなた、生前、駅のホームの綺麗な人に救われた夜のこと、査定表に自分で書いてたでしょう。『ああいうささやかなもので、人は案外、死なずに済む』って。……うち、あれ読んで、この事業を作ったんですよ」
目が覚めると、朝だった。
俺は身支度をして、純白を装備し、スカートの裾を――今日は気分で、挟まずに――自転車にまたがった。
月曜の朝だ。世界で一番、救済が必要な時間帯である。
「さて、同志諸君」
二十歳の声で、五十歳の心が言った。
「今週も、生きて帰ろうな」
(了)




