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しょぼくれサラリーマン救済事業、はじめました

作者: らび
掲載日:2026/07/26

 死因は過労だった。まあ、そうだろうなと自分でも思う。

 俺、田中吉郎たなか きちろう、五十歳、独身。経理一筋二十八年。彼女いない歴、実に五十年。最後の記憶は、月末処理を終えた深夜のオフィスで、椅子から立ち上がろうとした瞬間だ。

 気がつくと、真っ白な空間にいた。目の前には「神」と書かれた名札を付けた、やる気のなさそうな中年男が事務机に座っていた。神様というのは、存外うちの部長に似ている。

「田中吉郎さんね。はい、過労死。お疲れさまでした」 「……あの、天国とかですか、ここ」 「窓口です。で、あなた、生前の徳がまあまあ溜まってるんですよ。無遅刻無欠勤三十年、後輩の尻拭い百八十七件、送別会の幹事二十四回。地味ですけど、うちの査定では優良物件でして」

 神様はファイルをめくりながら、事務的に続けた。

「特典付きで転生できます。希望は?」 「……はあ。じゃあ、普通に、健康な身体で」 「あー、それがですね」

 神様は初めて申し訳なさそうな顔をした。

「今、空きがあるのが『二十歳・女子大生』の枠だけなんですよ。それも、ちょっと特殊な業務付きで」 「業務?」 「『しょぼくれサラリーマン救済事業』。疲れた勤め人に、ささやかな癒しを供給するお仕事です。あなた、適任なんですよ。なにせ五十年、供給される側の気持ちを研究し続けた」 「研究してません。ただ縁がなかっただけです」 「同じことです」

 同じことなのか。

 抵抗むなしく、書類には既に判が押されていた。うちの部長と同じで、この神様も、決裁が終わってから報告するタイプだった。

 目が覚めると、俺は二十歳の女子大生・田中吉乃たなかよしのになっていた。

 ワンルームの部屋、大学の学生証、通帳、そして枕元に一枚のカードが置いてあった。表には金色の文字でこう書いてある。

『救済事業者証 田中吉乃殿  業務内容:疲弊した勤労男性への目の保養の供給  報酬:対象者の癒され度に応じ、都度口座に振り込み  ※特別加算:対象者が帰宅後、あなたを思い出して一人で元気を出した場合、回数に応じてボーナスが発生します』

「……最後のやつ、絶対言い方考えただろ」

 鏡を見た。そこには、控えめに言って、とんでもない美人がいた。長い黒髪、大きな目、そして俺が五十年間縁のなかった曲線というものが、あるべき場所に全部あった。

 正直に言う。三日間は鏡の前でただ混乱していた。四日目に通帳の残高(心細い)を見て、腹をくくった。五十年の社会人経験が言っている。配属されたからには、業務を遂行するしかない。

 それに -俺は知っているのだ。

 金曜の終電で、吊り革にぶら下がって死んだ目をしている奴らの気持ちを。誰にも労われず、誰の視界にも入らず、ただ消耗していくだけの中年の気持ちを。あいつらは俺だ。二十八年間の、俺なのだ。

 あの頃の俺が何に救われていたかといえば、思い出したくもないが、本当にささやかなものだった。向かいのホームに立つ綺麗な人。風でふわりと揺れたスカート。それだけで、ああ明日も行くか、と思えた夜が、確かにあった。

 よし、と俺は鏡に向かって頷いた。

「供給する側に回ってやろうじゃないか。同志たちよ、待ってろ」

 業務初日。俺は入念に装備を選んだ。

 デニムのミニスカート。上は白のブラウス。そして下着は、五十年の研究成果(つまり偏見)に基づき、純白一択とした。奇をてらってはいけない。疲れた男が求めるのは、変化球ではなく、ど真ん中の直球なのだ。

 移動手段は自転車にした。これも計算のうちだ。徒歩では一瞬、電車では密室すぎる。自転車の、あの「一瞬だけど確かに見えた」という距離感こそが、罪にならない癒しの黄金比なのである。

 夕方六時。駅前から続く帰宅ラッシュの歩道の脇を、俺はゆっくりとペダルを漕いだ。

 デニムミニで自転車を漕ぐと、どうなるか。漕ぐたびに膝が上がり、裾が持ち上がり、俺の計算では「見えそう」の位置をキープするはずだった。

 はずだったのだが。

 信号で停まって足を着いた瞬間、ぐん、と裾が付け根までずり上がった。純白が、夕日を浴びて、堂々と世界に公開された。

「あっ」

 声を出したのは俺ではなく、横断歩道の向こうにいた、くたびれたスーツの男だった。四十代後半、鞄はくたくた、靴は踵が減っている。かつての俺と同型機だ。男は目を見開いて硬直し、慌てて視線を空に逃がし、それからもう一度だけ、ちらっとこちらを見た。

 その顔に、ほんの少しだけ、生気が戻った。

 ピロンと頭の中で音がした。

『救済一件を確認。報酬三千円を振り込みました』

 ……なるほど、こういうシステムか。

 俺は何食わぬ顔でペダルを漕ぎ出した。羞恥心が完全にないと言えば嘘になる。二十歳の身体は正直で、顔が勝手に熱くなる。だが、それを上回る手応えがあった。あの男の顔。あれは月曜の朝、まだ会社に行けるほうの顔だ。

 その夜、風呂に入っていると、また頭の中でピロンと鳴った。

『特別加算が発生しました。本日分:一件。ボーナス五千円を振り込みました』

「…………」

 通知の内容を三秒理解し、俺は湯船に頭まで沈んだ。誰だ。いや、たぶんあの同型機だ。おい、元気出しすぎだろ。俺はしばらく湯の中で悶えてから、浮上して、天井に向かって言った。

「……まあ、明日も頑張れよ」

 それが供養というものだ。いや、保養か。

 業務にも慣れてきた二週間目、俺は新装備を投入した。プリーツのミニスカートである。

 デニムは硬い分、動きが読める。だがプリーツは風と物理法則に全面的に従う、上級者向けの装備だ。本来なら、自転車に乗るときは裾をサドルの下に挟み込んで固定する。それが女子の常識だと、大学の友人(俺にできた、人生初の女友達だ)が教えてくれた。

 俺は、あえて挟まなかった。

 プロ意識である。

 金曜の夕方は、救済需要のピークだ。一週間分の疲労を溜め込んだ同志たちが、駅から吐き出されてくる。俺は坂の上から、駅前通りに向かって自転車を走らせた。

 結果から言うと、計算を超えた。

 坂の下りで速度が乗り、正面から風を受けた瞬間、プリーツスカートは布としての職務を完全に放棄した。裾は根元から真上にめくれ上がり、旗のようにはためき、純白は隠すという概念ごと置き去りにされた。周囲に公開されるどころの話ではない。掲揚されていた。

「ちょ、まっ……!」

 片手で裾を押さえれば、ハンドルが暴れる。両手で押さえれば、事故る。五十年+二十歳の全人生で最も高度な判断を迫られながら、俺は駅前通りを白旗掲揚のまま突っ切った。

 歩道のサラリーマンたちが、次々に振り返るのが見えた。

 ピロン。ピロン。ピロンピロンピロンピロン。

『救済を確認』『救済を確認』『救済を確認』――脳内の通知が、月末の経理部のプリンターみたいに鳴り止まなかった。

 坂の下でようやく停まり、真っ赤な顔でスカートを押さえる俺の頭に、締めの通知が響いた。

『大量救済を確認。本日の振込額:八万四千円。事業本部より:本日のあなたはとても輝いていました』

「うるさい黙れ!」

 輝いていたのはスカートの中だ。俺はその日、帰り道でサドルに裾を挟む練習を三十分した。プロ意識にも、限度というものがある。

 月末。通帳には、経理二十八年の俺が二度見する額が並んでいた。

 だが不思議なもので、金額よりも思い出すのは、顔だった。信号の向こうで生気を取り戻した同型機。坂の下で「ぶはっ」と吹き出して、隣の同僚と久しぶりみたいに笑っていた若手の二人組。あの一瞬の顔のために、俺はどうやら明日もペダルを漕ぐのだ。

 夜、白い空間の夢を見た。神様が事務机で判子を押しながら言った。

「事業、好調みたいですね。本部でも評判ですよ」 「……あの、一つ聞いていいですか。この仕事、意味あるんですか。俺のやってること、ただの目の保養ですよ」 「田中さん」

 神様は判子を止めて、初めて真面目な顔をした。

「あなた、生前、駅のホームの綺麗な人に救われた夜のこと、査定表に自分で書いてたでしょう。『ああいうささやかなもので、人は案外、死なずに済む』って。……うち、あれ読んで、この事業を作ったんですよ」

 目が覚めると、朝だった。

 俺は身支度をして、純白を装備し、スカートの裾を――今日は気分で、挟まずに――自転車にまたがった。

 月曜の朝だ。世界で一番、救済が必要な時間帯である。

「さて、同志諸君」

 二十歳の声で、五十歳の心が言った。

「今週も、生きて帰ろうな」

(了)



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