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小さな成果

 あの夜、初めて魔法を成功させてからルナリアの日常は少しずつ、しかし確実に変わり始めた。

 以前は、絶望と焦燥感から逃れるための苦行でしかなかった夜の自主練習。それが今では、彼女にとって希望へと繋がるかけがえのない時間となっていた。

 そして、その傍らにはいつも巧がいた。

 ルナリアが机に向かい練習を始めようとすると、巧は宝石箱のベッドからふらふらと飛び立ち、彼女の肩へと舞い降りる。それが、二人の間の新しい習慣の始まりの合図だった。

 ルナリアは、肩の上の小さな重みを感じながら教科書を開く。そして練習を始める直前に、肩の上の巧をそっとすくい上げ、胸ポケットへと収めるのだ。


「よし、今日もお願いね、タク」


 彼女は、ポケットに向かって小さく呟く。それは、彼女自身にも無意識の、ほとんどお守りに語りかけているようだった。

 彼女は、自分の力で成功していると信じている。だが、タクがこの『定位置』にいる時だけ、不思議と心が落ち着き魔法が成功しやすいことに、うっすらと気づき始めていた。


(お願い、ねぇ……)


 ポケットの暗闇の中で、巧は苦笑した。

 彼女がこの成功の本当の理由――小さな妖精が必死に術式の核を補強していること――を知ることは、おそらくないだろう。彼女の純粋な喜びと、芽生え始めた自信を、無粋な真実で汚すつもりは毛頭なかった。

 巧の補助も、日を追うごとに洗練されていった。光の魔法は、一度火をつけるだけの単純な化学反応に近い。もはや巧にとって、彼女の術式構築に合わせて完璧なタイミングで「核」を設置することは、難しいことではなかった。

 その成果は、目に見えて現れていた。最初は蛍のようだった光も、今では豆電球ほどの安定した輝きを放つようになり、夜の練習は小さな成功体験の積み重ねとなっていった。


 ◇


 そして、運命の日がやってきた。

 魔法実技の授業。その日の課題は、魔法の最も基本的な要素である『光の魔法タイニーライト』だった。

 教室の空気が、じわりと悪意に満ちていくのを巧はポケットの中から感じていた。

 ルナリアの番が回ってくる。


「どうせまた失敗するに決まってる」

「光すら出せないなんて、本当に魔術師の恥よね」


 生徒たちのひそひそ話が、遠慮なく耳に届く。これまで、彼女がこの魔法を一度たりとも成功させたことがないのを、ここにいる誰もが知っているのだ。

 教壇に立つ教師も、うんざりした表情を浮かべていた。

 そして、教室の隅ではイグニスが腕を組み、冷ややかな瞳で値踏みするようにルナリアを見つめている。

 ルナリアの手が、緊張で微かに震えていた。無理もない。ここは、彼女にとって処刑場にも等しい場所なのだから。

 彼女はぎゅっと目を閉じ、一度深く息を吸った。そして、自分の胸ポケットをそっと左手で押さえる。

 トクン、トクンと彼女の心臓が速鐘を打っている。だが、その下にいる小さな温かい存在が、彼女に最後の勇気をくれているようだった。


「――灯れ、小さなタイニーライト!」


 凛とした声が、教室に響く。

 ルナリアが右腕を前に突き出し、人差し指の先に意識を集中させる。ポケットの縁から顔を覗かせた巧もまた、彼女の指先に全神経を集中させていた。


(来るぞ……!)


 ルナリアの莫大な魔力が、奔流となって腕を駆け巡る。それと同時に、彼女の指先の空間に、光を生み出すための術式が構築されようとしていた。

 だが、その二つの作業の両立は、彼女にとってあまりにも困難だった。莫大な魔力の制御に意識を奪われるあまり、指先で構築されるべき術式が形を保てずに霧散しかけている。


(――今だ!)


 巧は、完璧なタイミングで、崩壊しかけている術式の中心に「核」を撃ち込んだ。

 今まで拠り所を失い、霧散していた彼女の魔力がその完璧な「核」に引き寄せられるように、次々と正しい流れを形成していく。

 『正解』の設計図を示すことで、奔流そのものに本来あるべき形を思い出させるのだ。

 ルナリアの人差し指の先にカッと。今までで最も強くそして安定した、太陽のかけらのような光が灯った。

 しん、と教室が静まり返る。誰もが、信じられないものを見たかのように、その確かな輝きに釘付けになっていた。


「えっ、できた!?」

「嘘でしょ、あのアシュフィールドが……」


 生徒たちの間に、驚愕と動揺が走る。だが、すぐに誰かが嘲るように言った。


「……でも、一番簡単なタイニーライトじゃないか。今さらできたところでねぇ」


 その声に、教室の空気は再び冷ややかなものに戻りかけた。


「……ふむ」


 教師が、初めて少しだけ驚いたような声を出した。


「ようやく及第点、といったところか。遅すぎるくらいだがな」


 巧は、ポケットの縁からそっとイグニスの様子を窺った。彼は、腕を組んだまま表情一つ変えていなかった。

 だが、その完璧な無表情が逆に彼の内心の動揺を雄弁に物語っていた。いつも浮かべている他者を見下すような冷笑が、完全に消え失せている。

 その代わりに、彼の灰色の瞳の奥にほんの一瞬だけ純粋な驚愕の色が灯った。そして、その驚愕はすぐにまるで獲物を見定めるかのような色へと変わる。

 彼は、成功して安堵の表情を浮かべるルナリア本人ではなく、彼女の胸ポケット――その中にいるであろう、G級の妖精の存在を確かめるかのように、一瞬だけその視線を鋭く細めた。

 そして、誰よりも早く興味を失くしたかのように、ふいと窓の外に顔を背ける。

 その横顔は、再び完璧な無表情に戻っていた。まるで、今起きた出来事など、彼の興味を引くには値しないとでも言うかのように。

 ルナリアは、自分の指先で輝く光を、ただ、呆然と見つめていた。


 「……もう、よろしい」


そう教師が声をかけると、彼女ははっとしたように光を霧散させた。そして、震える声で「……はい!」とだけ答え、自分の席へと戻る。

 その背中は、いつもよりほんの少しだけ、まっすぐに伸びているように巧には見えた。

 席に着いたルナリアは、自分の胸を強く押さえまだ速い鼓動を必死に鎮めようとしていた。

 そして、誰にも気づかれないように、彼女の指先がそっと巧のいるポケットの上を、一度だけ優しく撫でた。

 その仕草に巧の小さな心が、トクンと小さく跳ねた。

 彼女の表情は、まだ硬い。だが、その瞳の奥に今まで見えなかった確かな自信の灯火が、微かに揺らめいているのが見えた。

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