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不格好な光

 その夜も、ルナリアは机に向かっていた。

 夕食を簡単なスープだけで済ませ、風呂もカラスの行水のように終えると、すぐに分厚い教科書を睨みつける。指で魔法陣をなぞり、ぶつぶつと詠唱を繰り返す。その姿は、鬼気迫るものがあった。

 机の上のランプが照らし出す横顔は、焦りと疲労で青白く、彼女がどれほど追い詰められているかを雄弁に物語っていた。


「どうして……どうして、できないの……!」


 ガタン、と椅子を蹴るようにして彼女が立ち上がる。その目には、こらえきれなかった涙が滲んでいた。教科書を机に叩きつけ、自分の才能のなさを呪うように、頭をかきむしる。

 見ていられなかった。心が悲鳴を上げていた。今しかない。巧は、宝石箱のベッドから意を決して飛び立った。

 この数日間、ルナリアが眠った深夜に彼は独りで練習を重ねていた。背中にある、未知の筋肉に意識を集中させ、羽を動かす。最初は数ミリ浮き上がるのがやっとだったが、今では短距離ならばおぼつかないながらも飛べるようになっていた。

 トンボがよろめくような、不安定で、頼りない飛行。だが、今の彼にできる、唯一の意思表示だった。

 巧は、床に蹲って嗚咽を漏らす彼女の肩を目指し、ふらふらと飛んだ。そして、危なっかしいホバリングの末、彼女の制服の肩の上に、そっと着地する。

 布越しに、彼女の体の震えが伝わってきた。巧は、彼女の濡れた頬に、そっと自分の体を寄せた。温もりを伝えるように。

「君は一人じゃない」と、声にならない声で、そう伝えるかのように。


「……え?」


 肩の上で感じた、小さな確かな温もり。ルナリアは、涙に濡れた顔を上げた。視界の端に、いるはずのない自分の使い魔の姿を捉える。


「タク……?どうして、ここに……。あなた、いつの間に、飛べるようになったの……?」


 巧は答える代わりに、彼女の机の方を小さな手で指し示した。そして、もう一度やってみろとでも言うように、こくこくと頷いてみせる。

 言葉はない。だが、その小さな体から発せられる真摯な想いは、確かにルナリアの心に届いていた。

 彼女はしばらくの間、呆然と肩の上のタクを見つめていた。その瞳が、諦観の色から、決意へとゆっくりと変わっていくのを、巧は見た。

 彼女は、自分の濡れた頬を乱暴に拭うと、ふっと少しだけ力のこもった笑みを浮かべた。


「……そう。そうよね。あなたも、飛べるようになったんだものね」


 彼女は、誰に言うでもなくそう呟いた。


「……分かったわ。あなたが、そこまで言うなら。もう一回だけ、やってみる」


 彼女は、震える手で、肩の上のタクをそっとすくい上げた。


「……そんな、ふらふらな飛び方じゃ、見てられないわ。こっちに来なさい」


 そう言って、自分の胸ポケットへと、彼を優しく収めた。


「いつもの場所が、一番安全だから」


 ポケットの中は、彼女の涙の匂いがした。しょっぱくて、悲しい匂い。

 だが、ポケット越しに聞こえる声は、もう震えてはいなかった。そこには、先ほどまでの絶望の色ではなく、小さなパートナーに応えようとする、確かな意志の色が宿っていた。

 巧は、このチャンスを絶対に無駄にはしないと、強く心に誓った。

 胸ポケットの中は、彼女の絶望と、ほんの少しだけ取り戻した希望が混じり合った、不思議な空間になっていた。

 トクン、トクン、と打つ鼓動は、まだ不安に揺れている。だが、彼女は深呼吸を一つすると、震える声で詠唱を始めた。


「――灯れ、小さなタイニーライト


 ルナリアが魔法を発動させるため、そっと右腕を前に突き出す。その動きに合わせて、巧は胸ポケットの縁からそっと顔を覗かせた。

 彼の視線は、ただ一点――巨大な彼女の腕を伝い、その先にある人差し指の先端へと注がれていた。

 そこが、ターゲットだ。魔法の発動とは、二つの異なる作業を同時に行う極めて高度な技術だ。

 一つは、体内の魔力を練り上げ、その出力を精密に調整する『魔力制御』。

 もう一つは、指先の空間に目には見えない魔法の設計図である『術式』を構築し、維持すること。

 巧には、それがまるで右手で円を描きながら、同時に左手で四角を描くような複雑なマルチタスクに見えた。

 他の生徒たちは、右手で小さな円を、左手で簡単な四角を描けばいい。

 だが、ルナリアは違う。彼女の右手は、莫大な魔力量のせいで、常に『複雑な図形を描く』ことを強いられている。その右手での高難度な作業に意識を奪われるあまり、左手で描くべき簡単な『四角』の術式が、ぐにゃぐにゃに歪んで崩壊してしまうのだ。


(――来る! 詠唱の最終節、彼女が術式の構築に失敗する!)


 巧は自らの微弱な魔力を、一本の極細の針のように絞り上げた。そして、ポケットの中から、ルナリアの指先のさらにその前方にある空間へと狙いを定める。

 彼が放った精密な魔力は、彼女が構築に失敗し崩壊しかけている術式の中核に、完璧に安定した「術式のコア」として滑り込んだ。

 ルナリアが描こうとしていた、崩れかけた術式。その中心に、巧が完璧な術式を描いてやったのだ。

 その『完璧な核』が、奇跡を起こした。

 今まで拠り所を失い、霧散しかけていた彼女の魔力が、その完璧な『核』に引き寄せられるように、次々と正しい流れを形成していく。たった一点の『正解』の設計図を示すことで、奔流そのものに、本来あるべき形を思い出させるのだ。

 しかし、もう一歩のところで魔力は霧散してしまう。


「――ビクッ!」


 ルナリアの体が、小さく震えた。彼女は驚いたように、自分の指先を見つめる。


(……な、なに、今の……? 術式の構築が、いつもより、少しだけ……楽だったような……?)


 その不思議な感覚はすぐに霧散し、後には何も残らなかった。


「……気のせい、よね」


 彼女は小さく首を振り、再び詠唱に意識を戻した。


(……今のは、少し干渉が強すぎたか。だが、方向性は間違っていないはずだ)


 巧は冷静に分析する。彼女がこの不思議な感覚の正体に気づくことはないだろう。自分の努力が実を結び始めたのだと、彼女はそう信じている。それでいい。いや、それがいいのだ。

 巧の目的は、あくまで彼女の魔法を成功させること。そのための最も合理的な手段が、この補助であるに過ぎない。

 そして、五回目の挑戦。巧は、術式のタイミングを完璧に見切った。


「――灯れ、小さなタイニーライト


 ルナリアが詠唱する。巧も、それに合わせて完璧なタイミングで、彼女の指先に構築されつつある術式の中心に、核を設置した。

 今度は、ルナリアも詠唱を止めない。巧の繊細なガイドが、彼女の制御不能だった魔力の奔流にあるべき道筋を与えていく。荒れ狂う流れは、まるで導かれるようにスムーズに形を整え、術式の定義通りにその性質を変換させていく――。

 詠唱が終わる。すると、ルナリアの人差し指の先に、ぽっ、と。夜を優しく照らす、蛍のような、暖かな光が灯った。

 静寂が、部屋を支配した。

 ルナリアは、信じられないものを見るかのように、自分の指先で輝く小さな光を、ただじっと見つめていた。

 それは、教科書の挿絵で見た魔法の光よりも、不格好で頼りない光だったかもしれない。

 だが、紛れもなく彼女自身の力で生み出した魔法の光だった。


「……できた……」


 か細い声が、震えながら漏れる。光を見つめる瞳から、大粒の涙がぽろりぽろりと零れ落ちた。


「できた……! 私の努力が、やっと……!」


 彼女は、自分の血の滲むような努力がようやく実を結んだのだと信じていた。

 嗚咽を漏らしながら、その場に崩れ落ちるようにして泣きじゃくる。その純粋な喜びと、今まで溜め込んできた悔しさが入り混じった涙に、巧は安堵の息を漏らした。


(ああ、よかった……)


 ひとしきり泣いて少しだけ落ち着きを取り戻したルナリアは、おもむろに胸ポケットへと手を伸ばした。そして、中の巧をそっと優しくつまみ出す。

 彼女は、巧を自分の手のひらに乗せると、涙で濡れた笑顔で、じっと見つめてきた。


「……ありがとう、タク」


 小さいけれど、はっきりと。初めて聞く、彼女からの素直な感謝の言葉だった。


「あなたが、そばにいてくれたから。……心が、折れずに済んだわ」


 そう言うと、彼女は巧を乗せた手のひらを、そっと自分の頬へと寄せた。頬の柔らかな感触と温もり。そして、彼女の涙のしょっぱい匂い。

 その全てが、巧の小さな体に直接伝わってくる。


(……ああ)


 巧は、今まで感じたことのない、胸が温かくなるような感情に包まれていた。

 この少女を助けたい。守りたい。その想いが、今、確かな形となって、彼の心に刻み込まれた。彼女がこの成功の本当の理由を知ることは、おそらくないだろう。

 それでもいい。巧は、この名もなき補助を、彼女が胸を張って笑えるようになるその日まで続けることを固く誓った。

 彼女を「理不尽な少女」ではなく、「不器用で追い詰められた子供」として理解したあの日から、巧の心は決まっていた。彼女は守るべき対象だと。

 そして今、そのためのささやかな、しかし確かな武器を手に入れたのだ。この声にならない想いを乗せて、この温もりを守るための。

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