表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/28

妖精の魔法

 ルナリアが寝静まった深夜。巧は、宝石箱のベッドからそっと抜け出した。彼の心は、一つの決意で満ちていた。


(ルナリアを助ける。そのためには、まず俺自身が、この世界の理――魔法について、もっと深く理解する必要がある)


 幸い、ここには最高の教材があった。ルナリアの机の上に、無造作に開かれたままになっている魔法理論の教科書だ。

 彼にとって、教科書の一文字一文字は、大人の掌ほどの大きさがある。全体を読むには、ページの上を歩き回らなければならない。


「魔力とは、万物に宿る生命エネルギーの奔流であり、術式とはその奔流を魔法の形に導くための『器』である……」


 文字を一つ一つ、指でなぞりながら読んでいく。それは、途方もなく時間のかかる作業だった。だが、巧は夢中になった。


(……面白い)


 心の底から、そう思った。いつ以来だろうか、こんな風に知的好奇心を揺さぶられるのは。

 元の世界での研究は、いつしか『仕事』になっていた。上司の思いつき、利益の追求、延々と続くデータ整理。学生の頃に抱いていたはずの、未知を探求する純粋な喜びは、疲弊した日常の奥底にしまい込まれ、存在すら忘れていた。

 だが、これは違う。目の前にあるのは、全く新しい物理法則。未解明のエネルギー体系だ。

 そこには、彼が元の世界で学んできた物理学や化学とは全く異なる、しかし、どこか通底する法則性を持った、未知の学問体系が広がっていた。


(なるほどな。術式を構成するルーン文字は、原子記号のようなものか。組み合わせによって、現象の性質が決まる。そして、詠唱は、その術式を起動させるための音声コマンド……いや、プログラミング言語における実行命令に近い)


 研究者としての血が騒ぐ。夜ごと、彼はルナリアが眠るのを待って、机の上の教科書を読み解くことを日課とした。



 そして、数日が経ったある夜。理論を学んだからには、実践してみたくなるのが人情というものだ。


(俺の体にも、G級とはいえ魔力は流れている。教科書に載っている、最も単純な術式なら、俺にも使えるかもしれない)


 彼は、床に座り込み、目を閉じた。そして、教科書に描かれていたあの「光の魔法」の複雑な術式の構造を、脳裏に寸分の狂いもなく思い描く。

 次に、教科書に書かれていた詠唱を、心の中で唱える。声には出せないが、魔力を練り上げるイメージは、授業やルナリアの練習を見て、すでに頭に叩き込まれていた。

 指先で、目には見えない、魔法の設計図を、構築していく感覚。体中の血液が、熱を帯びるような感覚。

 微かで、しかし確かなエネルギーが、胸の中心から湧き上がり、腕を伝って、指先へと集まっていく。

 ルナリアのそれが「奔流」だとするなら、彼のはか細い「せせらぎ」のようだった。


(――灯れ、小さなタイニーライト


 心の中で、そう命じた。構築した術式に、魔力をそっと流し込む。すると彼の指先に、ぽっと小さな光が灯った。

 それは、マッチの頭ほどの、今にも消えてしまいそうな、あまりにも頼りない光だった。


「……できた」


 声にはならないが、彼の心は確かにそう呟いていた。異世界に来て、初めて自分の力で成し遂げたこと。それは、途方もない達成感を彼にもたらした。

 だが、その喜びは、すぐに冷静な自己分析によって打ち消された。


(……だが、これが限界か)


 何度試しても、生み出せるのは、この豆粒のような光だけ。教科書によれば、これは魔法学校の生徒が、最初の授業でクリアするレベルの、さらに下。赤ん坊の魔法だ。

 戦闘能力はゼロ。何かを照らすことすら、おぼつかない。G級妖精。その評価が、いかに正確であるかを、彼は自分自身で証明してしまった。


(無意味だ。こんな力じゃ、ルナリアを守ることも、助けることもできやしない)


 絶望が、彼の心を支配しかけた。元の世界での無力な自分。そしてこの世界での無力な自分。何も変わらないじゃないか、と。

 彼は力なく、自分の指先でか細く燃え続ける豆粒のような光を、ただぼんやりと見つめていた。


(……待てよ)


 彼の研究者としての脳が、一つの些細な事実に気づいた。


(……おかしい。簡単すぎる)


 教科書で学んだ理論、授業で見たルナリアたちの魔法。魔法の「術式」の構築とは本来、魔力を制御しながら同時に精密な設計図を組み立てるような、極めて困難な作業のはずだった。

 だが、今自分がやっていることは全く違った。彼は試しに意識を集中させてみた。

 まず頭の中で、教科書にあった光の術式の完璧な幾何学模様を、寸分の狂いもなく静かに思い描く。

 そこには魔力という邪魔なエネルギーのノイズは一切ない。ただ論理的な設計図があるだけだ。

 そして、彼は初めて自分の体に意識を向け、ごく僅かな魔力をその設計図に向かってそっと流し込んでやる。


(……点け)


 ぽっと、また完璧な球体の光が灯る。


(……消えろ)


 魔力の供給を止める。光はふっと消える。構築と供給。情報とエネルギー。彼はその二つを完全に『分離』して扱っていたのだ。

 それは彼が、魔力のない世界で二十八年間、ひたすらに思考の精度だけを鍛え続けてきたからこそ可能な、この世界の誰も気づいていない絶対的なアドバンテージだった。


(……これは)


 巧は戦慄した。彼の脳裏に、二つの対照的なイメージが浮かび上がった。

 一つはルナリアが魔法を使おうとするたびにポケットの中まで伝わってくる、あの巨大だが制御不能な『奔流』。

 そしてもう一つは、今自分の指先で完璧な均衡を保ち続けている、この微弱だが完全に制御下にある、精密な『流れ』。


(これなら)


 絶望の闇の中に、一つのあまりにも馬鹿げた、しかしあまりにも美しい仮説が、閃光のように彼の脳を貫いた。

 過飽和溶液に、一粒の種結晶を落とすように――。

 学生時代の実験の光景が脳裏をよぎる。不安定な液体の中に投じられたたった一粒の結晶が、連鎖反応を引き起こし全てを美しい結晶へと変えていく、あの神秘的な光景。


(俺の、この完璧に安定した術式が『核』となる設計図になることで、彼女のあの暴走する魔力ですら正しい形へと導けるかもしれない……!)


それは、あまりにも突飛で無謀な仮説だった。だが、彼の心に確かな希望の灯がともった瞬間だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ