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妖精の決意

 閉館を告げる鐘の音に、ルナリアははっと顔を上げた。慌てて涙の跡を手の甲で拭い、何事もなかったかのように本を返却カウンターへと持っていく。その気丈な振る舞いが、かえって痛々しかった。

 寮への帰り道、彼女は一言も発さなかった。ポケットの中まで、彼女の沈んだ気持ちが重く伝わってくるようだった。

 部屋に戻ったルナリアの行動は、いつもと少しだけ違っていた。

 まず、机の上に山積みになっていた教科書や参考書を片付け、綺麗にスペースを空ける。そして、そこに図書館で借りてきた本を広げた。


「……妖精は、清浄な魔力を好み、召喚主の精神状態に強く影響を受ける……ね」


 彼女は独り言を呟きながら、本の内容を確かめるように指でなぞる。

 そして、ベッドサイドテーブルに目をやった。ハンカチを雑に敷いただけの、タクの寝床。


「……これじゃ、ダメ、なのかしら」


 ルナリアは小さく呟くと、おもむろに立ち上がり、自分のクローゼットを開けた。そして、その奥から小さな木箱を取り出してくる。それは、彼女が幼い頃に使っていた宝石箱か何かだろうか。ビロードが張られた、古びているが上質な箱だった。

 彼女はその箱の中に入っていた古びたリボンやガラス玉を丁寧に取り出すと、代わりに自分のハンカチの中から、一番綺麗で、肌触りの良いものを一枚選んで、丁寧に折り畳んで中に敷いた。


「……今日から、こっちで寝なさい」


 ぶっきらぼうな口調で、彼女はそう言った。そして、木箱をベッドサイドテーブルの、元のハンカチがあった場所に置く。

 それは、粗末な寝床から、少しだけ立派なベッドへの昇格だった。

 義務感からではない、彼女自身の意思による初めての明確な優しさ。巧は驚いて彼女の顔を見上げたが、ルナリアはバツが悪そうにそっぽを向き、決して目を合わせようとはしなかった。

 彼女は、胸ポケットからそっと巧をつまみ出すと、新しいベッドの中へと優しく降ろした。

 そして、すぐには立ち去らずまるで宝物を覗き込むかのように、その場に屈んで、中の巧をじっと見つめていた。


「……タク」


 昼間とは違う、静かで、少しだけ柔らかな声だった。


「……変な名前よね。フロルに言われて、咄嗟に出てきただけだから。でも……まあ、キラリンよりは、ずっとマシでしょう?」


 彼女は、ふふっ、と小さく笑った。今日、巧が初めて見る、彼女の心からの笑顔だった。


「ただ……少しだけ、思い出したの。ずっと昔、私の村に来ていた職人さんのことを」


 彼女の紫色の瞳が、遠い過去を見つめるように、少しだけ潤んだ。


「東の国から来た人で、『タクミ』とい呼ばれていたわ。無口な人だったけど、その人の作るものは、とても綺麗で……完璧だったの。子供心に、すごいなぁって、ずっと仕事を見てた」


 巧は、息を呑んだ。


「……でもよく見ると全然似てないわ。だから、あなたは『タク』よ」


 そこには、昼間の刺々しさも、夜の涙もなかった。ただ、一人の少女が誰にも見せたことのない、淡い思い出を小さなパートナーにだけ打ち明けている。そんな、穏やかで親密な空気が流れていた。

 そう言い残し、彼女は今度こそ立ち上がり自分のベッドへと向かった。

 残された巧は、驚きとそして今まで感じたことのない、胸が温かくなるような奇妙な感情の渦の中で、ただ呆然とするしかなかった。


 ◇


 その日の夕食後、部屋の扉がコンコンとノックされた。

 ルナリアが訝しげにドアを開けると、そこには満面の笑みを浮かべたフローラが立っていた。その両手には何やら大きな包みを抱えている。


「やっほー、ルナ!遊びに来ちゃった!」

「フロル!?どうして……」

「へーきへーき!寮監さんには『ルナに勉強を教えてもらいに来ましたー』って言っといたから!はい、これ、差し入れのケーキ!」


 フローラは強引に部屋に上がり込むと、テーブルの上にケーキの箱を広げた。そして、もう一つの包みを得意げにルナリアの前に差し出す。


「そしてこっちが本命!ジャーン!タクちゃんへのプレゼントよ!」


 包みを開けると、中から現れたのはレースとフリルで過剰に装飾された、小さなピンク色のドレスと、ドールハウスから持ってきたとしか思えない天蓋付きの豪華すぎるミニチュアベッドだった。


「どう!?可愛いでしょ!私が徹夜して、タクちゃんのために作ったのよ!」

「……は?」


 ルナリアの顔から、すっと表情が消えた。

 フローラはそんなことにはお構いなしに、ルナリアの胸ポケットを指差す。


「さあ、タクちゃんを出して!早速、試着させてみましょう!」

「……断るわ」

「えー、なんでよー!」

「私の使い魔に、そんな破廉恥な格好をさせるつもりはないわ。それに、寝床なら、もう私が用意したから」


 ルナリアは、ベッドサイドテーブルの宝石箱を指差した。フローラはそれを見て、ぱちくりと目を丸くする。


「へぇー、ルナがねぇ。意外。でも、私のこの天蓋付きベッドの方が、絶対タクちゃんも喜ぶって!」

「必要ないと言っているの。それに、私の使い魔に、勝手なプレゼントを持ってこないでくれるかしら。迷惑よ」


 ルナリアの声は、静かだが、明確な拒絶の色を帯びていた。二人の少女がケーキを囲む様子を、巧は宝石箱のベッドの中から、少しハラハラしながら見守っていた。


(……まずいな)


 巧は息を潜めていた。先ほどのルナリアの声の温度が、すっと下がったのが分かったからだ。それは親友に向けるには、あまりにも冷たい拒絶の色を帯びていた。

 フローラの善意――フリフリのドレスや、天蓋付きのベッド――は、巧を『可愛らしい愛玩動物ペット』として扱う行為だった。

 それを受け入れてしまうことは、ルナリア自身が使い魔の可能性を完全に放棄したと認めることだ。

 心のどこかで、まだ万に一つの奇跡を信じている。この小さな存在が、いつか自分を助けてくれるかもしれないという、最後のか細い一縷の望み。

 フローラの提案は、その最後の望みの糸を断ち切ってしまう行為に見えたのかもしれない。だからこそ、彼女は無意識にあれほど強く抵抗したのだ。

 自分のプライドと最後の希望を守るために。


「……なによー、ルナのケチんぼー」


 フローラは唇を尖らせたが、親友の纏う空気が本物だと察したのだろう。少しだけ気まずそうに言った。


「……分かったよ。じゃあ、ケーキだけでも食べて!」


 ◇


 その夜。フローラが帰った後、部屋には再び静寂が訪れた。ルナリアはいつもより早くベッドに入ったが、なかなか寝付けないようだった。

 巧は、新調された豪華なベッドの中から、彼女の様子を窺っていた。やがて、彼女は意を決したように胸に手を置いた。

 そして、誰にも聞かせられない本音を小さな声で吐露し始めた。


「……ねえ、タク」


 返事がないと分かっていながら、彼女は語りかける。


「あなたも、私のことが嫌い? 使えない主人だって、呆れてる……?」


 その声は、ひどくか細く、心細さに満ちていた。


「お父様と、お母様は、私に期待してくれてるのに……。なのに、私は何も応えられない……」


 嗚咽が混じる。


「昔は、少しだけ、魔法が使えたの。小さな光を灯したり、お花を咲かせたり……みんな、神童だって褒めてくれた」


 その言葉から、巧の脳裏に一つのぼんやりとした光景が浮かんだ。まだ、ずっと幼いルナリアの姿。

 彼女が楽しげに笑うたびに、その周りがきらきらと温かい光に満ちていく。たくさんの優しい笑顔が、誇らしげに彼女を見つめている。陽だまりのような、幸福な光景。


「でも、年々魔力だけが大きくなっていって、いつの間にか、何も制御できなくなっちゃった……」


 その呟きが、幸福な幻影を無慈悲に打ち砕いた。巧の目の前にいるのは、もはや、笑顔の神童ではない。

 ただ、薄暗い部屋の隅でシーツに顔を押し付け、自分の無力さに一人静かに涙を流す孤独な少女だけだった。


「ごめんなさい……こんな主人で、ごめんなさい……」


 最早誰に向かって謝っているのかも分からない彼女の姿は、あまりにも痛々しかった。

 巧は、宝石箱の中から、その光景をただじっと見ていた。


(謝るのは、俺の方だ)


 何もできない、ただの無力な元サラリーマンで、ごめんな。心の中で呟いても、その声は彼女には届かない。

 だが、決意は固まった。何としても、この少女を助けなければならない。自分の持てる知識と、この微弱な魔力の全てを使って。それはもう、同情や、大人としての義務感だけではなかった。

 一人の人間として、彼女の涙を、これ以上見過ごすことはできない。そう、強く思った。

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