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妖精のお風呂

 寮へと戻る途中、ルナリアはふと足を止めた。そして、何を思ったか、胸ポケットからタクをつまみ出すと、自分の顔の前に掲げた。

 アメジスト色の大きな瞳が、至近距離からじっとこちらを見つめてくる。


(な、なんだ……?)


 巧は身じろぎもできずに固まった。彼女の長い睫毛の一本一本までが見えるほどの距離。ふわりと、彼女自身の甘い香りが鼻腔をくすぐる。

 彼女は、くんくん、と小さな鼻を動かした。


「……気のせいかしら」


 一度はそう呟いたものの、もう一度、今度はさらに顔を近づけて、タクの匂いを嗅ぐ。

 そして、眉間にくっきりと皺を刻んだ。


「……気のせいじゃない。ちょっと、汗臭いわね」

(なっ……!?)


 巧は声にならない衝撃を受けた。汗臭い。二十八年間、女性から面と向かって言われたことのない、最も破壊力のある言葉。

 考えてみれば当然だった。召喚されてから二日。風呂になど入っているはずがない。この小さな体でも、代謝はしているのだ。


「校則第17条には、使い魔の衛生管理も含まれてるはず……。不潔にして病気にでもなったら、私の責任問題になるわ」


 ブツブツと独り言を呟きながら、彼女は何かを決心したように、寮の部屋へと足を速めた。

 部屋に戻るなり、ルナリアは洗面所へと向かった。そして、陶器の洗面台に、栓をして水を張ろうとする。


(まさか、ここに俺を入れる気か!?)


 巧にとってそれは巨大なプール。彼は必死に手足をばたつかせ、無言の抵抗を示した。

 その必死さが伝わったのか、ルナリアは「……そうよね。あなたには深すぎるわよね」と呟き、一度水を抜いた。

 どうするのだろうかと巧が見守っていると、彼女は部屋に戻り少しだけ考え込んだ。その後、食器棚から、彼女がスープを飲むのに使っている、木製の小鉢ボウルを取り出してきた。

 そして、その小鉢ボウルを、慎重に洗面台の中に置く。

 彼女は、やかんで沸かしたお湯を注ぎ、指先で温度を確かめながら、慎重に水でぬるま湯に調整していく。


「……これなら、大丈夫でしょう」


 木製の小鉢ボウルは、巧にとって、ちょうど良いサイズの、完璧な一人用の湯船となった。

 深さは、彼の胸のあたりまで。これなら、溺れる心配はない。

 そう言うと、彼女はタクのワイシャツとスラックスを、器用な指先で、しかし何


(うおおおい!?)


 抵抗も虚しく、巧はあっという間に丸裸にされてしまう。そして、彼女の指でそっとつまみ上げられると、温かい湯が張られた小鉢ボウルの中へと、ゆっくりと降ろされた。

 ちゃぷん、と小さな音がした。足先に、心地よい温かさが広がる。深さは、ちょうど彼の腰のあたりまで。これなら溺れる心配はない。

 体の汚れが、じわりと湯に溶けていくのが分かった。生き返る心地だった。ルナリアは、指先に石鹸をほんの少しだけつけると、その指でタクの背中を優しく洗い始めた。

 その指の腹の感触は、昨日、机の上で嬲られた時のものとは全く違っていた。壊れ物を扱うかのように、どこまでも優しく、慎重で。

 巧は、背徳感と羞恥心で顔が真っ赤になるのを感じながらも、その心地よさに身を任せるしかなかった。

 彼女の顔を見ると、その頬も、ほんのりと赤く染まっているように見えた。

 洗い終わると、彼女は清潔なタオルの一角で、タクの体を優しく包み込むようにして水分を拭き取ってくれた。そして、丁寧に服を着せ直してくれる。


「……これで、よし」


 満足げに頷く彼女の顔には、いつものような刺々しさはなかった。

 このささやかな入浴タイムは、二人の間のギスギスした空気を、ほんの少しだけ和らげてくれたようだった。


 ◇


 その後、ルナリアは図書館へと向かった。

 天井まで届く本棚が迷路のように立ち並び、古い紙とインクの匂いが満ちている。彼女は使い魔に関する書棚の前で足を止めると、背伸びをしながら目当ての本を探し始めた。

 清潔になった巧は、少しだけ気分の良い状態で、ポケットの中からその様子を見守っていた。

 彼女が借り受けた本を数冊抱え、閲覧用の大きな机に陣取る。そして、熱心にページをめくり始めた。

 夕日がステンドグラスを通して、色とりどりの光の筋を床に落とす。図書館には、カリカリとペンを走らせる音と、時折ページをめくる音しか響かない。

 ルナリアは、まるで何かに取り憑かれたように文献を読み漁っていた。その真剣な横顔を見ていると、巧は胸が締め付けられるような気持ちになった。

 彼女は諦めていない。G級の妖精という、誰もが使えないと断じる存在の中に、万に一つの可能性を見出そうと必死にもがいているのだ。

 その時だった。ルナリアの向かいの席に、すっと人影が落ちた。彼女が読んでいた本の上に、影が差す。


「ほう、まだそんな無価値な本を読んでいるのか」


 聞き覚えのある、不快な声。イグニス・ド・ヴァレンシュタインだった。彼は、ルナリアが見ていた本のタイトルを一瞥すると、嘲るように鼻で笑った。


「妖精の育成法だと?無駄なことだ。そんなものに時間を費やすくらいなら、魔力制御の基礎でも見直したらどうだ?……ああ、君にはそれすらも難しい相談だったか」

「……あなたに関係ないと言っているでしょう。邪魔をしないで」


 ルナリアは顔を上げず、低い声で言い放った。彼女の声が、怒りで微かに震えている。

 だが、イグニスは意に介さず、彼女の向かいの椅子に音もなく腰掛けた。そして、テーブルに肘をつき、探るような目で彼女を見つめる。


「君を見ていると、苛々する。その有り余るほどの才能を、なぜドブに捨てるような真似をする?」

「……才能なんて、私には」

「あるだろうが」


 イグニスの声が、有無を言わせぬ響きでルナリアの言葉を遮った。


「僕が、この僕が、誰よりもそれを知っている。……だからこそ、許せんのだ。今の君が」


 その瞳には、単なる侮蔑とは違う、もっと複雑な感情が渦巻いていた。期待を裏切られた者の、失望と怒りが入り混じったような色だった。


「……昔の話は、しないで」

「なぜだ?君にとっては、栄光の記憶ではないのか?『アシュフィールドの神童』と呼ばれ、皆にちやほやされていた、あの頃の記憶が」


 イグニスの言葉は、静かだが鋭利な刃物のように、ルナリアの心を切り刻んでいく。


「せいぜい足掻くがいい。だが、忘れるな。君はそんなところで、そんなくだらない妖精と朽ち果てるような存在ではないはずだ」


 そう言うと、イグニスは音もなく立ち上がり、去っていった。

 残されたルナリアは、しばらくの間、うつむいたまま動かなかった。やがて、彼女がめくっていた本のページに、ぽつり、と小さな染みができた。

 彼女が、静かに涙を流していることに、巧は気づいていた。

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