妖精オタクと名づけの危機
昼休み。ルナリアは教室の喧騒から逃れるように、一人で中庭のベンチに座り、固いパンをかじっていた。誰とも話さず、ただ黙々と食事を済ませる。その姿は、痛々しいほどに孤立していた。
巧はポケットの縁からそっと顔を出し、周囲の様子を窺う。楽しそうに談笑する生徒たちの輪の中に、彼女の居場所はどこにもなかった。
そんな時だった。太陽のような明るい声が、静寂を破った。
「ルナー!こんなところにいたー!探したんだからね!」
声のした方を見ると、一人の少女が、こちらに向かって、大きく手を振っていた。わたあめのような、ピンク色のツインテールが、楽しげに揺れている。その少女の周りには、数人の友人たちがいた。
彼女は、その友人たちに「じゃあ、また後でね!」と告げると、こちらへ駆け出そうとする。
「フローラ、またねー!」
友人たちの声に見送られ、その少女――フローラは、一直線に、ルナリアのいるベンチへと駆け寄ってきた。
巧は、その少女が着ている制服の襟元の刺繍が、ルナリアや教室にいた他の生徒たちのものと僅かに違うことにふと気づいた。
ルナリアたちの制服には『金色の薔薇』が、今やってきた少女の制服には『銀色の百合』が、誇らしげに刺繍されている。
「フロル……。あなたのクラスは、今日は補講じゃなかったの?」
ルナリアが、少しだけ驚いたように、そう言った。
「もう終わったのよ!それより、ルナこそ、また《薔薇クラス》の嫌な奴らに、何か言われたんでしょ?」
フローラは、そう言うと、ルナリアの隣にどかりと腰を下ろした。
(……《薔薇クラス》)
巧の中で、点と点が、線で繋がった。あの、自信に満ちたエリートたちのクラス。
そして、この少女が所属するおそらくはそれ以外のクラス。制服の刺繍の違いは、その明確な区別なのだろう。
フローラは、持ってきたランチバスケットを広げた。中には、色とりどりのフルーツや焼き菓子が、まるで宝石のように詰め込まれている。
「はい、ルナの分!これ、うちの『ミリオン商会』で扱ってる、王都で一番人気のパティスリーのフルーツサンドよ!」
彼女は、得意げにおいしそうなフルーツサンドをルナリアの目の前に突き出した。だが、ルナリアは、力なく首を横に振る。
「……いらないわ。食欲、ないから」
「むっ」
フローラは、ぷくりと頬を膨らませた。
「こういう時こそ、美味しいもの食べなきゃダメなの!それに、ヴァレンシュタインにまた何か言われたんでしょ?」
フローラは、有無を言わせぬ勢いで、ルナリアの口にサンドイッチをぐいっと押し付けた。ルナリアは驚きながらも、その強引さに抗えず、それをモグモグと頬張る。
最初は無理やり食べさせられたことに、少しだけむっとした表情を浮かべていたルナリア。だが、一口二口と咀嚼するうちにその表情は見るからに明るくなった。
その変化を、巧はポケットの縁からじっと見ていた。
(……そんなに美味いのか、あれ)
鼻腔をくすぐる、甘酸っぱいフルーツと、クリームの香り。その香りが、巧の脳裏に、忘れかけていた記憶の断片を呼び覚ました。
(……ああ、そういえば、俺も一度だけ、食べたことがあったな)
それは、まだ研究室に配属されたばかりの、新人だった頃。プロジェクトの成功を祝って、先輩が買ってきてくれた、デパ地下の、少しだけ高級なフルーツサンド。
ふわふわのパン。甘すぎない、軽い生クリーム。そして、宝石のように輝く、大ぶりのフルーツ。
残業で疲弊しきった体に、その味が染み渡った時の、あの小さな幸福感。いつの間にか、そんなささやかな喜びすら忘れてしまっていた。
巧が遠い過去の記憶に浸っていると、目の前のルナリアが、ごくりとサンドイッチを飲み込むのが見えた。
そして、彼女は無意識のうちに、ぽつりと呟いていた。
「……おいしい……」
それは、本当に心の底から漏れたような、か細い声だった。彼女は、フローラの方をちらりと見ると、サンドイッチの残りを今度は自分から、小さな口で食べはじめた。
その様子にフローラは、太陽のように、にぱーっ!と笑った。
「でしょー!」
その隙に、フローラの視線は、獲物を見つけた狩人のように、ルナリアの胸ポケットに釘付けになった。
「それで?それで?昨日召喚したっていう、奇跡のフェアリーちゃんはどこ!?」
「……奇跡なんかじゃ、ないわよ。G級だったわ」
ルナリアは、苦虫を噛み潰したように呟いた。
だが、フローラは全く動じない。
「G級だからこそ、奇跡なのよ!」
彼女は、人差し指をぴんと立てて力説した。
「ルナのあの莫大な魔力に耐えたんでしょ?普通の低級使い魔なら、召喚陣に触れただけで消し飛んでるわよ!」
「……そう、なのかしら」
「そうよ!絶対、何か特別な力を持ってるに決まってる!」
フローラの瞳は、純粋な好奇心と妖精への深い愛情でキラキラと輝いていた。
ルナリアは、親友のあまりにもポジティブな解釈に少しだけ毒気を抜かれたように、渋々ポケットから巧をつまみ出した。
その瞬間、フローラのボルテージは最高潮に達した。
「きゃああああー!かわいいーっ!しかもワイシャツ姿なんて超レアじゃない!」
彼女はまるで稀少な宝石でも鑑定するかのように、巧を両手で優しく包み込むとうっとりと隅々まで眺め回し始める。
「私のコレクションブックの『珍奇フェアリー』のページに、絶対載せなきゃ!」
「……あんた、そんなものまで作ってるの」
ルナリアが、呆れたように言う。
「当たり前でしょ!妖精愛好家を舐めないでよね!……見て、ルナ!この羽の透明度!最高級のガラス細工みたい!」
「……言われてみれば、そうかも」
「でしょ!?こっちも見て!この革靴!信じられないくらい小さいのに、ちゃんと縫ってあるのよ!うちが取引してる東方の職人さんでも、これは無理だわ!」
フローラが興奮気味にまくし立てる。
「そうよ!それで、それで、お名前はなんていうの?こんなにスペシャルな子なんだから、ちゃんと素敵な名前、つけてあげたんでしょ?」
フローラの無邪気な問いに、ルナリアはハッとして言葉に詰まった。
「……名前なんて、ないわ」
その答えを聞いた瞬間、フローラの笑顔が固まった。そして、次の瞬間にはぷりぷりと頬を膨らませて憤慨し始めた。
「ひどい!ルナ!使い魔はパートナーでしょ!名前もつけないなんて、あんまりよ!」
「だ、だって……」
「この子が可哀想じゃない!見て、この困ったような眉毛!守ってあげたくなっちゃうじゃない!もういい、私がつけちゃう!」
フローラは、目を輝かせて提案し始めた。
「このキラキラした羽だから『キラリン』とか、お洋服が素敵だから執事さんみたいに『セバスちゃん』とか!」
(やめろ。本気でやめてくれ)
フローラの提案を聞きながら、巧は内心で絶叫していた。
(キラリン?セバスちゃん?俺は茅野巧、二十八歳だぞ)
巧が内心で必死に祈っていると、目の前のルナリアの顔が微かに引きつるのが見えた。
「……待ちなさい」
次の瞬間、巧はひったくるようにフローラの手から取り返された。
ルナリアの手のひらの上に乗せられ、下から彼女の顔を見上げる。彼女の瞳は、じっと自分を射抜いていた。
長い沈黙。何を考えているのか、全く読めない。ただ、その真剣な眼差しに、居心地の悪さだけが募っていく。
「……タク」
ぽつり、と彼女は呟いた。
「この子の名前は、タクよ」
(タク!?なぜだ!?どこからその名前が!?)
「タクちゃんね!うん、いい名前じゃない!ちょっと地味だけど、ルナらしいわ!」
フローラは満足げに頷いた。
巧は、訳が分からないまま人生最大級の混乱に陥っていた。だがもちろん、その声は誰にも届かない。
こうして、彼のこの世界での名前は、「タク」に決まったのだった。
昼休みの終わりを告げる鐘が鳴り響く。
「あ、やば!次の授業、あのネチネチ教官のだ!じゃあね、ルナ、タクちゃん!今度タクちゃんの可愛いお洋服、作ってくるからね!」
フローラは嵐のように去っていった。
一人残されたルナリアは、フローラが置いていった色とりどりのフルーツを一つ、小さな口で頬張った。そして、自分の胸ポケットに収められた、名前がついたばかりの使い魔に、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「……行くわよ、タク」
その呼びかけに、巧の小さな体が、ポケットの中でほんの少しだけ動いたのを、彼女は知る由もなかった。




