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胸ポケットは拷問部屋!?

 翌朝、巧が目を覚ましたのは小鳥のさえずりよりも先に聞こえてきた、微かな衣擦れの音だった。ハンカチの寝床から身を起こすと、ルナリアはすでにベッドから起き上がり、静かに身支度を整えていた。

 朝日が差し込む窓辺に立つ彼女の姿は、どこか儚げに見えた。蜂蜜色の髪を整えながら、鏡に映る自分を睨みつける。早くも今日一日を戦い抜くための、硬い決意のような色が浮かんでいるようだった。


(毎朝、こんな顔をしてるのか……)


 まるで戦場に向かう兵士だ。巧は、彼女が背負っているものの重さを垣間見た気がした。

 やがて、巧の存在に気づいたルナリアがこちらを向く。その視線は昨日よりも幾分か和らいでいたが、それでもまだ冷たさを帯びている。


「……おはよう」


 ぼそりと呟かれた不機嫌な挨拶に、巧は小さく頷いて返した。声が出せない以上、これが彼にできる唯一の返答だった。

 彼女は机の上の木の実と水がなくなっているのを確認すると、昨日と同じように、新しいものを用意してくれた。無言の、しかし確実なルーティン。それが、二人の間の奇妙な共同生活の始まりだった。

 ルナリアは登校の準備を始めている。手持ち無沙汰となった巧はサイドテーブルの上を見回す。そこには教科書、羊皮紙、ペンが置いてあった。脳裏に、一つの閃きが走った。


(そうだ、声が出せないなら、字を書けばいい!)


 それは、絶望の中に差し込んだ、一条の光だった。

 彼女たちの話す言葉は、巧にはごく自然な日本語として聞こえている。教科書に書かれている文字も、見慣れた、日本語そのものだ。


(これだ!)


 ついさっきまで使われていたであろう、細いペンを抱えて、羊皮紙の上に乗った。


(時間がない。彼女が戻ってくる前に、書かなければ。)


 全身の力を使い、床に置かれたペンの先端部分を、ぐっ、と押し引きする。彼にとっては、重い家具を動かすような、重労働だった。

 インクが、彼の思った通りの線を、羊皮紙の上に描いていく。


(なんて書くべきだ?)


 自分は、何者なのか。なぜ、ここにいるのか。そして、何よりも、助けてほしい、と。

 巧は、渾身の力を込めて、ペン先を、羊皮紙の上で滑らせた。彼が書き終えたのは、『たすけて』という、四文字の、ひらがなだった。

 インクが滲み少し不格好だったが、それは紛れもなく魂からの叫びだった。

 ちょうどその時、身支度を終えたルナリアが、ベッドサイドテーブルに教科書を取りに来た。

 彼女は、インクで少しだけ汚れた小さな使い魔と、彼が書いたらしき、奇妙な線のかたまりに気づく。


「……何してるの、あなた。インクで汚して……。それに、これは何?」


 彼女は、羊皮紙の切れ端を、怪訝そうにつまみ上げた。

 巧は、期待を込めて、彼女の顔を見上げる。


(そうだ、それを読んでくれ!)


 しかし、彼女の口から出たのは、あまりにも無慈悲な言葉だった。


「……何なの、この、変な落書き。ミミズが這った跡みたい」


 彼女は、そう言うと、全く興味を失くしたように、その羊皮紙の切れ端を、くしゃりと丸めて、近くにあったゴミ箱へと、無造作に放り投げてしまった。巧は、その光景を、ただ、呆然と見つめることしかできなかった。

 そして、戦慄と共に、真実を理解する。


(……そうか。俺には、この世界の全てが、日本語に見えて、聞こえている。だが、この世界の人間にとって、俺の『日本語』は、ただの、意味のない『落書き』でしかないのか……)


 声だけでなく、文字によるコミュニケーションの手段すらも、完全に断たれている。芽生えかけたほんの僅かな希望は、完全に打ち砕かれた。

 ルナリアの準備が終わり登校の時間がやってきた。


「あなた、飛べるの?」


 ルナリアが低い声で尋ねる。

 巧は背中にある、トンボのような半透明の羽を動してみた。昨日よりは少しだけ、動かし方のコツが掴めてきた気がする。背中の肩甲骨のあたりにある、未知の筋肉に意識を集中させる。

 羽がぶるぶると震え、バタバタと不格好に空気を打った。体がほんの数ミリ、ふわりと浮き上がる。だが、それだけだった。まるで初めて自転車に乗ろうとする子供のように、すぐにバランスを崩してハンカチの上に着地してしまう。

 その無様なホバリング未遂を見て、ルナリアは心の底から、という形容詞がぴったりな、盛大なため息をついた。


「……やっぱり、使えない」


 もはや挨拶代わりとなったその言葉に、巧の心も少しずつ耐性ができてきた。いや、慣れてきただけで、傷ついていないわけではないのだが。

 彼女はそう吐き捨てると、巧をひょいとつまみ上げた。その指先は、昨日とは違う、壊れやすいガラス細工でも扱うかのような、慎重な手つき。そのぎこちなさが、彼女の不器用さを物語っていた。

 そして、何のためらいもなく、自分の制服の胸ポケットに無造作に放り込まれた。


「うわっ!」


 声にならない声が漏れる。突然の暗闇。視界が完全に奪われる。そして、そこはとんでもない空間だった。

 トクン、トクン、トクン……。

 まず、耳元で彼女の心臓の鼓動が大きく響く。まるで、巨大な太鼓が一定のリズムを刻んでいるようだ。次に、彼女の体温がポケットの布地を通してじんわりと伝わってくる。生きている人間の温もり。そして、昨夜から巧の意識を何度もかき乱した、あの甘い香りが、この密閉された空間には充満していた。ラベンダーと蜜の香り。それは間違いなく、彼女自身の香りだった。

 さらに、彼女が歩き出すと、状況は悪化した。一歩進むたびに、体が揺れる。そして、その振動と共に、ポケットの背後にある柔らかく、しかし確かな弾力を持つナニカが、ぐにゅりと巧の背中を圧迫するのだ。


(こ、これは……!)


 まだ発達途上にあるとはいえ、それは紛れもなく女性の胸だった。

 鼓動と体温と甘い香りに満たされ、時折柔らかな膨らみに押しつぶされる。ここは特等席か、あるいは拷問部屋か。

 巧はポケットの暗闇の中で必死に平静を装い、ただただ耐えるしかなかった。雑念を振り払うため、頭の中で必死に元素の周期表を暗唱し始める。


(スイヘイリーベ、ボクノフネ……ああ、ダメだ。雑念が、元素記号の形をして襲ってくる……!)


 自分の顔がこの暗闇の中で真っ赤になっているであろうことだけは、嫌でも自覚できた。


 ◇

 やがて、ルナリアの足が止まる。重厚な木製の扉が、ギィと音を立てて開かれた。ポケットの縁から、巧がそっと外を覗き込む。

 そして、彼は、息を呑んだ。そこは、彼が想像していた教室とは、あまりにもかけ離れた場所だった。

 シャンデリアのように輝く魔光石の照明。磨き上げられたマホガニーの机。窓には、美しいステンドグラスがはめ込まれている。

 そして何より、そこに座る生徒たちの纏う空気が、違っていた。誰もが、高価そうな装飾品を身につけ、その立ち居振る舞いには、育ちの良さからくる、絶対的な自信が満ち溢れている。


(……なんだ、この場所は。まるで、貴族のサロンじゃないか)


 彼は、ルナリアが、なぜあれほどまでに硬い表情で、誰とも視線を合わせようとしないのか、その理由の一端を、肌感覚で理解した。

 ここは、彼女のような落ちこぼれが、安穏と息をできる場所ではないのだと。

 ルナリアは、誰にも声をかけられることなく静かに自分の席へと着いた。周囲の生徒たちは、ひそひそと囁き合う。その視線は、彼女だけでな巧にも向けられていた。


「あれが噂の……」

「G級妖精なんて、初めて見たわ」


 好奇と侮蔑が入り混じった視線に、ルナリアは唇を固く結び分厚い魔導書を開いて壁を作った。

 授業が始まった。黒板に、複雑な魔法陣がチョークで描かれていく。魔法理論の授業だ。


「――良いかね、諸君。この術式は『光』の属性を持つ魔力を収束させ、物理的な輝きへと変換するための、最も基本的な構造だ。重要なのは、この第三円環に刻まれた誘導ルーン。ここで魔力の流れを一度絞り、指向性を持たせなければ、エネルギーは拡散し、霧散してしまう。アシュフィールド、分かるかね?」


 教師が、意地の悪い笑みを浮かべてルナリアを指名した。彼女はびくりと肩を震わせたが、すぐに立ち上がり凛とした声で答えた。


「……はい。誘導ルーンは、魔力という奔流に対する『堰』の役割を果たし、魔力を光エネルギーへと効率的に変換するためのものです」

「その通りだ。理論だけは、実に優秀だな」


 教師の言葉に、教室でくすくすと笑いが起こる。完璧な答えだったにも関わらず、それは彼女への当てこすりにしかならなかった。


(面白い……。これはまるで、高分子化学の構造式だ。ルーンの配置で、出力される現象の特性が変わる。あの誘導ルーンは、化学反応における触媒そっくりじゃないか)


 巧はポケットの中から、興奮を覚えていた。未知の学問体系が、彼の知的好奇心を強く刺激する。

 だが、その一方で、他の生徒たちが指先に豆粒ほどの光を次々と灯してみせる中、ルナリアだけが俯き、唇を噛み締めている。その対比が、巧の胸を締め付けた。


 問題の実技の時間。


「――来たれ、水のアクア・ドロップ!」


 彼女が詠唱すると、体内の魔力が大きくうねるのが、ポケットの中にいる巧にも伝わってくる。それはまるで、ダムが決壊する寸前のような、途方もないエネルギーの奔流だった。

 しかし、その莫大なエネルギーは彼女の指先で制御を失い、霧散してしまう。何も起きない。


「また失敗か、アシュフィールド」


 その声は、他の生徒たちの嘲笑とは質の違う、冷たく刺すような響きを持っていた。

 声の主は、銀色の髪を靡かせた貴公子然とした男子生徒だった。確かさきほどイグニス・ド・ヴァレンシュタインと呼ばれていた。

 彼がルナリアに向ける視線には、侮蔑だけでなく何かどす黒い執着のような色が混じっていた。


「貴様のその莫大な魔力は、ただそこにあるだけの無価値な泥水だ。制御できぬ力など、無能の証でしかない」

「……あなたには、関係ないでしょう」


 ルナリアは低い声で言い返すが、その顔は悔しさで青ざめている。ポケットの中まで、彼女の心臓が早鐘を打っているのが伝わってきた。


「関係なくなくはないさ。貴様は唯一私の顔に泥を塗ったのだ」


 イグニスはそれだけ言うと、ふいと顔を背けた。彼の言葉は少ないが、その一つ一つがルナリアを抉る刃となっているようだった。彼の指先からは、教科書通りの完璧な水の雫が、きらきらと輝きながら現れている。その光景が、ルナリアの惨めさをより一層際立たせていた。

 ルナリアは唇を強く、血が滲むほど噛み締めていた。その小さな肩が、悔しさに震えているのが、ポケット越しに痛いほど伝わってくる。


(あいつとルナリアの間に、過去に何かあったのは間違いないな)


 巧はポケットの暗闇の中で、その名を記憶に刻み込んだ。

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