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新しい一歩

 次の日、二人はいつもの練習場に向かっていた。ルナリアは魔術の練習を再開することを決めたらしい。

 いつもと違うのは、巧が胸ポケットではなく、彼女の肩の上に乗せられていることだった。


「その方が、あなたもよく見えるでしょう?」


 少しだけ照れくさそうに、彼女はそう言った。すぐそばから感じる彼女の体温と真剣な息遣い。

 これまで、ただポケットの中から世界を見ていた。だが今は違う。彼女と同じものを、同じ高さで見つめている。

 そのささやかだけれど決定的な変化が、巧の胸を温かいもので満たした。


 練習場に着くと、彼女は一度深く息を吸った。そして肩の上の小さなパートナーに声をかける。


「……タク。発表会の練習で無理をするつもりはもうないわ」


 彼女はそう切り出した。その声は驚くほど穏やかだった。


「それよりも、自分の力で魔法を使えるようになりたい。あなたの助けがなくても、ちゃんと一人で立てるように」


 そして彼女は、少しだけ躊躇うように続けた。


「……だから、その第一歩として。この光の魔法から、もう一度始めるわ」


 その真摯な問いかけ。巧は、彼女の静かな覚悟にただ力強く頷いた。


「――お願いね、タク」


 ルナリアが詠唱を始める。

 巧もそれに合わせ、彼女の指先に完璧に安定した術式の『核』を灯した。それはこれまで、彼女に気付かれていなかった、彼だけの秘密の光。

 今は、その全てを彼女に見せる。


「……これが、あなたの……」


 彼女は目を閉じたまま、その美しく頼もしい光の『核』を、自分の魔力で感じ取っていた。まるで暗闇の荒野で、たった一つの道標となる灯台の光を見つけたかのように。


 そして彼女は、自分の暴れ狂う奔流をその完璧な光の流れにゆっくりと、そして慎重に寄り添わせていく。

 だが、焦りすぎたのだろうか。彼女の純粋な想いが逆に魔力の奔流を加速させてしまう。光は一瞬だけ激しく輝いた後、ぱちんと弾けるように消えてしまった。


「……ごめんなさい! 力が入りすぎたわ……」


 巧は大丈夫だとでも言うように、彼女の指先を自分の小さな手でぽんと叩いた。そして自分の胸を指し、そこからゆっくりと息を吐くようなジェスチャーをしてみせる。


『もっと優しく、穏やかに』と伝えるために。


 その健気なパートナーの姿に、彼女の張り詰めていた心が少しだけ解きほぐされる。彼女はふふっと小さく笑った。


「……そうね。ありがとう、タク」


 そして二度目の挑戦。

 彼女は巧のアドバイスを思い出し、ゆっくりと、そして優しく魔力を注ぎ込む。彼女の指先に、柔らかな光が灯る。それは今までで一番穏やかで、そして温かい光だった。

 ただ寄り添い、そして共に在ることで生まれる、調和の光。


「……できた」


 彼女のその震える声に、巧は肩の上でこくりと頷いた。その成功の喜びに浸っていた彼女は、ふと悪戯っぽく笑った。


「ねえ、タク。この光、少しだけ動かしてみない?」


 その無邪気な提案に、巧の研究者としての魂が燃え上がった。彼は力強く頷くと、彼女の肩から飛び降り、練習場の隅に置かれた教科書の上に着地する。


 彼は教科書のあるページを必死に叩いてみせた。ルナリアは彼の意図を汲み取り、そのページを開く。そこには「指向性を持たせるための誘導ルーン」の複雑な術式が描かれていた。


 巧はそれだけでは足りないとでも言うように、今度はルナリアのインク壺と羊皮紙を指差した。彼女は戸惑いながらも、それらを彼の前に広げてやる。

 巧は自分の小さな指先にインクをちょんとつけると、羊皮紙の上に、彼にしか描けない完璧な術式の図を描き始めた。


 それは教科書の誘導ルーンを基にしながらも、彼独自の科学的な解釈によって、より洗練され効率化された、全く新しい応用の術式だった。


「……これが、あなたが考えていることなの……?」


 彼女はその緻密で美しい術式の図を、ただ息を呑んで見つめていた。そして彼女は、巧のその完璧な設計図を信じて、もう一度詠唱を始めた。巧はその術式に核を添える。


 指先に光が灯る。ルナリアはその指をゆっくりと動かした。

 すると光は、彼女の指の動きに合わせ、まるで生きているかのように夜空を自由に舞い始めた。まるで生まれたての蝶のように、練習場の中をふらふらと飛んでいく。


 その、ささやかだけれど美しい光の軌跡。


「……きれい……」


 彼女のその、うっとりとした呟き。

 だが巧の目は、夜空を舞うその光ではなく、ただ一点――その光を操る彼女の指先だけを食い入るように見つめていた。


 美しい、と思った。

 自分の知識と理論が、彼女の魔力と結びつくことで、こんなにも美しい現象を生み出すことができる。

 その奇跡のような光景に、彼の研究者としての魂が震えていた。


 ふと、光がその動きを止めた。巧がいぶかしげに顔を上げる。そして目が合った。


 ルナリアが夜空の光ではなく、羊皮紙の上にいるこの小さな存在をじっと見つめている。

 その紫色の瞳が、ほんの少しだけ大きく見開かれる。次の瞬間、彼女の頬が少し赤く染まった気がした。そして慌てたようにふいと視線を逸らす。

 巧は、きょとんとした。


(なんだ? どうしたんだ、急に)


 彼女が何に照れているのか、最初は分からなかった。だが、ふと気づく。

 さっきまで自分は、夜空の光ではなく、ずっと彼女の指先ばかりを――彼女自身を――見つめていたのだ。そして、その視線に彼女が気づいた。


(ああ、そうか)


 巧の小さな体も、じんわりと熱くなる。

 彼女は魔法を見ていた。だが自分は、魔法ではなく、魔法を生み出す彼女を見ていた。その事実が、二人の間に、言葉にならない何かを生んでいた。


 少しだけ気恥ずかしい沈黙が流れる。だが、その気恥ずかしさすらも、心地よかった。


(ああ、そうだ。これだ)


 元の世界で失いかけていた、何かを誰かと共に創り上げるという、その純粋な喜び。

 ただ目の前にいるパートナーと同じ夢を見て、同じ壁にぶつかり、そして共にそれを乗り越えようとする。

 その、どうしようもないほどの幸福な時間。彼は今、その幸福感の只中にいた。

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