もう一度ゼロから
そんな穏やかな日々が、数日続いた頃。部屋の扉が、元気よくノックされた。巧は、宝石箱のベッドの中からそっと顔を上げた。
ルナリアがドアを開けると、そこにはフローラが立っていた。その手には、小さな麻袋が握られている。
「ルナー! 頼まれてたもの、持ってきたわよ!」
フローラが、小さな袋のようなものをルナリアに手渡すのが見えた。
「ありがとう、フロル。助かるわ」
「それにしても、急にどうしたの? 南の国の木の実が欲しいなんて」
フローラの無邪気な問いかけ。それにルナリアは、少しだけ視線を逸らした。
「……別に。少し興味があっただけよ」
フローラは一瞬、不思議そうな顔をしたが、すぐに何かを察したようにサイドテーブルの宝石箱へと視線を移す。そして、悪戯っぽく笑った。
「あーっ! わかった! タクちゃんのためでしょ!」
「ち、違うわよ! 勝手なこと言わないで!」
顔を真っ赤にして、慌てて否定するルナリア。そのあまりにも、分かりやすい反応に巧の心まで少しだけ温かくなった。
フローラは、そんな親友の姿に満足そうに頷いた。しかし、その表情が少しだけ曇るのを巧は見た。
親友だからこそ、分かるのだろう。今のルナリアの静かな変化が。
「……ルナ。練習、どう? 順調?」
フローラのその何気ない問いかけ。巧はそこに親友への深い気遣いを感じ取った。ルナリアは、静かに首を横に振った。
「……ううん。もう、していないの」
「えっ……!? じゃあ、発表会は……。もしかして、辞退するつもり?」
それは、巧自身がずっと胸に抱いていた不安でもあった。ルナリアは、静かに首を横に振った。
「いいえ。辞退はしないわ」
その声には、もう以前のような焦りも虚勢もなかった。ただ静かな水面のように穏やかだった。
フローラは、その落ち着いた親友の姿に、少しだけ戸惑ったように首を傾げた。
「でも、それじゃあ発表会どうするの?」
ルナリアは答える代わりに、ベッドの上にいる巧の姿をちらりと見た。その優しい眼差しに、巧の小さな心臓がとくんと跳ねる。
「派手な魔法は、今の私には使えない。それは、もう分かっているの」
「ルナ……」
フローラの心配そうな声。それに、応えるように彼女は続けた。
「だから、何を見せるかなんて、もう考えないことにしたの」
「今のありのままの私たちを見せるだけよ」
その力強い言葉。それは、巧があの夜必死に伝えようとして、伝えきれなかった言葉だった。
「――うん! それが、一番素敵よ、ルナ!」
フローラは優しい笑みを浮かべた。
◇
ある日の夕暮れ。部屋にオレンジ色の西日が、差し込んでいた。
巧が宝石箱のベッドの中からぼんやりと外を眺めていると、ルナリアは静かに机に向かった。
そして、彼女は数日前からずっとそこに置かれたままになっていた『中級攻撃魔法』を手に取った。
彼女は、ただ静かにその表紙を一度だけ指でなぞる。そして、その魔導書を机の引き出しの一番奥にそっとしまった。
その何かを断ち切るかのような仕草に、巧は息を呑んだ。彼女は、過去と訣別しようとしている。どうするつもりなのだろうか。
次に彼女は宝石箱から巧をそっと取り出すと、机の上に優しく立たせた。そして、彼女は机の前に静かに腰を下ろした。
二人の視線が同じ高さで交錯する。彼女は、まっすぐに彼の顔を見て言った。その声は、か細く震えていた。
「……ごめんなさい、タク」
彼女は、深く頭を下げた。その蜂蜜色の髪が、机の上にはらりと垂れる。
「私、あなたのこと何も分かっていなかった……。ただ、自分のことばかりで……」
その痛々しい謝罪は、巧の胸を締め付けた。
(違う……謝るのは俺の方だ)
声にならない叫びが、喉まで出かかった。彼は、彼女の前に歩み出ると、彼女の下げられた頭にそっと自分の小さな体を寄り添わせた。そして、小さく一度だけ頷いてみせる。
そのささやかな温もりに、顔を上げたルナリアの瞳から堪えていた涙が一筋、零れ落ちた。
「……ありがとう」
彼女は、そう呟くと震える声で続けた。ただ一人のパートナーに対する、切実な願いだった。
「……あのね、タク。もう一度ゼロから、私と一緒に歩いてくれませんか?」
巧は、彼女の涙に濡れた紫色の瞳をまっすぐに見つめ返すと、力強く何度も頷いた。
彼女の唇が、ゆっくりと綻んだ。
「――よろしくね、タク」
涙に濡れた小さな声。だがその響きは、驚くほど真っ直ぐに巧の心に届いた。




