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人差し指より弱い

 ルナリアは逃げるようにその場を後にした。長い石造りの廊下を、ヒールを鳴らして早足で進む。コツ、コツという硬質な音が、周囲の好奇の視線をさらに集めているようだった。

 彼女の歩みに合わせて、手のひらの上の巧の体は大きく揺さぶられる。振り落とされないように、彼女の指の付け根にしがみつくのが精一杯だ。

 やがて、一つの古びた木製の扉の前で立ち止まると、彼女は乱暴にドアを開けて部屋に飛び込んだ。そして、背中でバタン!と大きな音を立てて閉める。

 部屋は、質素だが清潔に整えられていた。ベッドと、書き物机と、小さなクローゼット。華美な装飾は何一つない。

 嘲笑の内容から貴族の令嬢かと思ったが違ったのだろうか、あるいは家の財政はあまり豊かではないのかもしれないな、と巧は思った。

 静寂が訪れる。いや、静寂ではなかった。ルナリアの荒い呼吸と、歯を食いしばる音が聞こえる。彼女はドアに背を預けたまま、ずるずるとその場に崩れ落ちた。肩が小さく震えている。息を殺して、嗚咽を漏らしているのが分かった。


(……泣いているのか)


 嘲笑を浴びせられていた時も、気丈に前を向いていた彼女の、初めて見せる弱さだった。その嗚咽は、巧の胸を締め付けた。どうしようもない無力感が、小さな体を支配する。


(ああ、この感じどこかで……そうだ、部長の無茶な要求に応えられなかった時の無力感にそっくりだ……)


 断片的に蘇る、元の世界の記憶。だが、今はそれを整理している場合ではなかった。

 しばらくして、彼女は涙を乱暴に袖で拭うと、ゆっくりと立ち上がった。そして、手のひらの上の巧に視線を落とす。その瞳にはもはや涙はなく、代わりにやり場のない静かな怒りが見て取れた。

 儀式室での虚無は、怒りという第二段階に移ったらしい。


「あんたのせいで……!」


 失望に満ちた声と共に、巧を机の上にほとんど叩きつけるように置いた。そして、人差し指が伸びてくる。

 妖精サイズの巧にとって、それは巨大な肉の柱にしか見えない。指紋の渦が、まるで等高線のように立体的に見え、小さなささくれですら、鋭利な岩のように感じられた。

 ぐに、と。

 ワイシャツを着た胸の中央を、柔らかく、しかし容赦のない力で押された。


「うぐっ……!」


 声にならない悲鳴が漏れる。小さな体は簡単にバランスを崩し、机の上に仰向けに倒れた。その衝撃は、巧にとって軽自動車に軽く撥ねられたようなものだった。

 そこからが、本当の屈辱の始まりだった。


「私の期待を……私の努力を……全部、台無しにして!」


 指先で、まるで小さな虫けらのように、ぐりぐりと弄ばれる。横向きにされ、くるくると転がされた。うつ伏せにされ、背中を突かれる。抵抗しようと手足をばたつかせても、それは彼女にとって赤子の戯れにも等しい。


(やめろ……! やめてくれ……!)


 心の叫びは、もちろん届かない。

 成人男性がうら若き少女の指先一つで、こうも無力に嬲られるとは。プライドは粉々に砕け散り、ただただ無力感と屈辱が全身を支配した。抗う術のない、絶対的な力の差を見せつけられる行為だった。

 だが、その屈辱感と同時に矛盾した感覚が巧の脳を焼いた。押し付けられる指の腹は、驚くほど滑らかで温かい。ほのかに、彼女自身の甘い香りがする。久しぶりに触れる、女性の肌の感触。それが、こんなにも理不尽で屈辱的な状況で与えられているという事実が、倒錯した背徳感を伴って意識を侵食してくる。


「私の指一本より弱いなんて……最低……!」


 八つ当たりだと分かっている。彼女自身が一番傷ついていることも。彼女が弄んでいるのは、この小さな妖精の姿をした俺ではなく、自分の不運な境遇そのものなのだと。

 頭では理解できても、心が追いつかない。

 ひとしきり巧を弄んで、少しだけ気が済んだのか。ルナリアは、はぁと深いため息をついた。その瞳には怒りの炎は少しだけ収まり、代わりに深い疲労と諦観の色が浮かんでいた。


「……校則だから、仕方ないわね」


 彼女はそう呟くと、クローゼットから一枚の清潔なハンカチを取り出し、ベッドサイドの小さなテーブルの上に雑に敷いた。それが、今日から巧の寝床らしかった。

 食事として、小さな木の実が一つと、銀の指輪置きのような小さな器に汲まれた水が、コロンと横に置かれる。

 教師に釘を刺された通り、彼女は義務を果たそうとしていた。

 木の実を置いた後、彼女は一瞬だけ逡巡し、実が転がり落ちないように、ハンカチの端を少しだけ折り曲げて小さな壁を作った。その無意識の、ほんの僅かな気遣いに、巧は何も言えなかった。その小さな優しさが、かえって胸に刺さった。

 その夜。

 巧はハンカチの寝床の上で、途方に暮れていた。机の上に無造作に置いてある教科書はベッドより大きく、ランプはビルのようだ。このスケール感に慣れるだけでも一苦労だろう。

 そんな彼の前で、ルナリアは今日の屈辱を振り払うかのように、無言で制服のリボンを解き始めた。


(え……?)


 まさか、ここで着替えるつもりか。

 巧は慌てて顔を背けようとした。だが、好奇心という抗いがたい本能が、彼の動きを鈍らせる。見てはいけない。見るべきではない。分かっているのに、視線が縫い付けられたように動かせない。

 ブラウスがはだけられ、露わになる白い肩。スカートがふわりと床に落ち、月明かりに照らされた華奢な脚のシルエットが浮かび上がる。

 罪悪感と、男としての抗いがたい本能。その狭間で、元社畜・茅野巧の理性は、異世界初日の夜にして、早くも激しく揺さぶられることになった。

 寝間着に着替えたルナリアは、ベッドに潜り込むとすぐに壁の方を向いてしまった。小さな背中が、彼女の拒絶を表しているようだった。やがて、すぅ……すぅ……という穏やかな寝息が聞こえ始める。


(……眠ったか)


 巧はほっと胸をなでおろした。

 腹が、ぐぅ、と鳴る。そういえば、元の世界で昼食を食べてから何も口にしていない。

 彼は、置かれた木の実を手に取った。彼の手には、バスケットボールほどの大きさだ。一口かじってみる。ベリー系の甘酸っぱい味が口の中に広がった。水分も豊富で、意外に腹にたまる。


(美味いな、これ……)


 次に、器の水を飲む。両手で器の縁を持ち、ごくりと喉を鳴らした。ただの水のはずなのに、驚くほど澄んでいて、体に染み渡るようだった。

 食事を終え、ハンカチのベッドに横たわる。柔らかいが、心は休まらない。

 不意に、ルナリアが寝返りを打った。今度は、こちら側に顔を向けている。月明かりが、彼女のあどけない寝顔を照らし出していた。長い睫毛が頬に影を落としている。閉じられた瞼は、泣きはらしたのか少しだけ赤い。


「……ごめんなさい……お父様、お母様……」


 小さな、寝言が漏れた。その声は、悔しさと申し訳なさで震えていた。

 巧の胸が、チクリと痛む。彼女もまた何か重いものを背負って、この学園でたった一人で戦っているのだ。その重圧が彼女をあれほどまでに追い詰め、刺々しくさせているのかもしれない。

 この少女を、ただの理不尽な加害者として切り捨てることは、どうやら自分にはできそうにない。そう巧は諦めに似た気持ちで思った。

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