ルナリアとタク
夢と現の狭間で、巧は自分の額にひんやりとした感触が触れるのを、うっすらと感じていた。
そして、熱に浮かされて汗ばんだ体を、柔らかな布がそっと拭っていく感覚。知覚に誰かの静かな息遣いが聞こえる。
その穏やかな感覚に身を委ねるようにして、彼の意識がゆっくりと浮上する。
部屋は薄暗かった。ランプの魔力石が切れかけているのか、頼りない光が明滅を繰り返している。
その薄闇の中、ルナリアはベッドの脇に身をかがめるようにして座り、巧の看病に集中していた。部屋の光が、消えかけていることにすら気づいていないようだった。
不意に、巧が身じろぎしたのに気づき、彼女ははっと顔を上げた。
「……タク? 気がついたの?」
彼女はその頼りない光の中で、巧の顔色を確かめようと、必死に目を凝らす。そして、取り急ぎ灯りを確保しようと、指先を構えた。
それは、彼女にとって、今や呼吸をするのと同じくらい、当たり前の魔法のはずだった。
「――灯れ、小さな光」
しかし、光は灯らなかった。魔力は以前のように、指先で霧散し闇の中に消えていった。
「え……?」
ルナリアが、呆然と自分の指先を見つめる。彼女の顔から、さっきまでの安堵がすっと消え失せ、血の気が引いていくのを巧は見た。
(……まずい)
今の自分は、まだ熱っぽく魔力もほとんど残っていない。とても、彼女の魔法を補助できる状態ではなかった。
「どうして……?」
彼女はもう一度、今度は意識を集中させて詠唱する。
「――灯れ、小さな光」
結果は同じだった。彼女の表情が、絶望に染まっていく。まるで、数週間前の何もできなかった彼女に、逆戻りしてしまったかのように。
(ああ……)
巧の心の中で、後悔が嵐のように胸に吹き荒れた。なぜ、もっと早く伝えようとしなかったのか。
声が出ないから?
(違う)
筆談を彼女が「落書き」だと言ったから?
(それも、違う)
彼女のあの嬉しそうな顔を、自分の手で曇らせてしまうのがただ怖かったのだ。その臆病さが今、彼女を最悪の形で傷つけている。
彼女はベッドの脇に膝をついたまま、巧に視線を向けた。巧は心配そうに、彼女の顔を見上げる。彼女は、何も言わなかった。
ただ、その紫色の瞳が、何かを確かめるように、巧をじっと見つめていた。そして、彼女はもう一度祈るように、詠唱を行った。
だが、それでも光は灯らない。
(……くそっ!動け……!動け、俺の体……!)
巧は必死に、まだ熱っぽい体に鞭を打った。
今、助けなければ。
今、力を貸さなければ……!
彼は最後の力を振り絞って、彼女の指先へと意識を集中させた。彼の小さな手は、何かを掴もうとするかのように微かに空を掻き、そして力なくだらりと落ちた。
魔力は、一滴も生まれなかった。
その瞬間だった。ルナリアの見開かれた瞳が、自分を射抜くように見つめているのを、巧は見た。
彼女は、見ていたのだ。魔法を唱えた、そのほんの一瞬。目の前でぐったりしていたはずの、小さな妖精が必死に手を動かそうとしていたのを。
「……うそ……」
彼女の唇から、息のような声が漏れた。次の瞬間、彼女の体からふっと全ての力が抜けた。ずるずるとその場に座り込む。
彼女はまるで自分の心臓であるかのように、巧がいる宝石箱を胸に強く抱きしめた。
その中で、巧は彼女の胸の鼓動を感じていた。そして、彼女の口元から絞り出すような声が、彼の耳にかろうじて届いた。
「……ごめんなさい……」
それが、誰に向けられた言葉なのか、熱に浮かされた巧にはもう分からなかった。ただ部屋に響く、少女の押し殺した嗚咽だけが彼の耳に届いていた。
◇
翌朝、巧が目を覚ますと体の熱は完全に引いていた。だが、それとは裏腹に彼の心には、昨夜の光景が鉛のように重くのしかかっていた。
自分の臆病さが、彼女を深く傷つけてしまった。そのどうしようもない後悔が胸を焼く。
部屋の空気は、どこか張り詰めたように静かだった。ルナリアは既に制服に着替え、ベッドの端に静かに座っていた。その目は、泣きはらしたのかまだ少しだけ赤い。
しかし、その表情は不思議なほど静かだった。まるで、嵐が過ぎ去った後の朝の湖面のように。
巧は息を呑んだ。もっと、深く落ち込んでいるかと思っていた。あるいは、もっと取り乱しているか。
だが、目の前にいる彼女は落ち着いているようだった。彼女は巧が起きたことに気づくと、一度ためらうように視線を揺らがせた。
しかし、意を決したようにまっすぐに巧を見つめ返すと、ぎこちなく言った。
「……おはよう、タク」
そして、彼女は無言で立ち上がると食事の準備を始めた。巧の前に置かれたのは、いつもと少しだけ違う食事だった。
いつもの赤い木の実の隣に、見たこともない小さな青い実が一つだけちょこんと添えられている。
彼女は何も言わない。ただ少し離れた場所から、ちらりとこちらの様子を窺っていた。
いつもと何かが違う。巧は、そのぎこちない彼女の態度に、戸惑いを隠せなかった。彼はまずいつもの赤い実を一口かじる。そして、次にその青い実を手に取った。
その瞬間、彼女の肩がほんの少しだけ、ぴくりと動いたのを巧は見た。かじった青い実は、少しだけ酸っぱくて爽やかな味がした。
巧は彼女の方をちらりと見ると、小さく一度だけ頷いてみせる。彼女の強張っていた表情が、ほんの少しだけ和らいだようだった。
彼は彼女の様子に安堵したように目を閉じると、まだ疲れが残っていたのか静かに眠り始めた。
◇
次に巧が目覚めた時には辺りは暗くなっていた。ゆっくりと起き上がる。
ルナリアはそれに気付くと夕食の用意を始めた。
巧の前に置かれた食事には、今度は小さな器に入った甘い花の蜜が、そっと添えられていた。
ルナリアは、少し離れた場所からこちらの様子を窺っている。やがて、意を決したように彼女は尋ねた。
「……朝のと、どっちがおいしい?」
その不器用な『問いかけ』によって、巧はあの青い実の意味を理解した。彼女は、ただ知ろうとしてくれているのだ。自分という、声を持たないこの小さな存在のことを。
巧はまず器に手を伸ばし、花の蜜をゆっくりと味わうように舐めた。凝縮された花の香りが鼻腔を抜け、上品な甘さが舌の上でとろけていく。そして、彼は迷うことなく花の蜜が入った、その器の方を小さな指でとんと叩いてみせる。
彼女の口元にほんの僅かな小さな笑みが浮かんだ。
部屋の隅の机の上には、あの『攻撃魔法大全』が、固く閉ざされたまま置かれていた。魔法の練習はしていなかった。
二人の間に言葉は少なかった。ただ以前とは違う穏やかな時間が、静かに流れ始めていた。




