妖精熱
その夜、ルナリアは疲れ果てて、ベッドに倒れ込むように眠りについた。巧は一人、宝石箱のベッドから彼女の机の上を見つめていた。
そこには、『炎の槍』のページが開かれたままになった魔導書が、静かに置かれている。
彼は、その魔導書から静かに目を逸らした。
そして、その隣に置かれている、もっと基礎的な『魔法理論』の教科書へと、視線を移す。
(何か、あるはずだ)
彼は、ベッドから飛び立った。音を立てず『魔法理論』の教科書の上に着地する。そして彼は、ただひたすらに、そのページを歩き始めた。答えを探して。彼女を救うための、たった一つの光を求めて。
一歩、また一歩。だが、彼の体はもう限界だった。
これまでの、寝る間も惜しんだ研究と彼女の過酷な練習への補助。その日々が、彼の小さな体に蓄積した疲労は、彼が思うよりもずっと深かった。
視界がぐにゃりと歪む。足がもつれる。教科書の上に描かれた巨大な文字が、まるで底なしの闇のように彼に迫ってくる。
(まずい……意識が……)
どさり、と。
小さな体が、音を立てて開かれたままの教科書の上に倒れ込んだ。彼の体は、ありえないほど熱く呼吸も荒い。
背中の羽は、力なくインクの染みの上に垂れ下がっている。そして、そのことにまだ誰も気づいてはいなかった。
◇
巧は、夢を見ていた。
満員の通勤電車。吊革に掴まり、死んだ魚のような目をした大勢のスーツ姿に揉まれながら、ただ揺られている。
窓の外を、代わり映えのしない灰色のビルが流れていく。
(……今日も、昨日と同じ一日が始まる)
ふと気づくと、彼は会社のがらんとした研究室に一人で立っていた。時刻は、深夜。白衣を着て、顕微鏡を覗き込む。
かつて学生の頃、あれほどまでに胸をときめかせた分子の世界。
だが、今彼の目に映るその結晶構造は、何の感動ももたらさない、ただの無機質な『パターン』にしか見えなかった。
(……つまらない)
心の底から、そのたった一言が漏れた。研究室がぐにゃりと歪み、彼は色のない灰色の水の中へと沈んでいく。息ができない。体が動かない。
(……ああ、こうやって、終わっていくのか)
彼が全てを諦め、意識を手放しかけた。
暗い水の中から、ふと顔を上げると。
遠くの水面で、一人の少女が泣いていた。
ルナリアだった。彼女は、たった一人で「負けたくない」と必死に何かに抗っていた。その姿は不器用で危うい。
だが、そこには自分がとうの昔に諦めてしまった眩しいほどの光が、確かに燃えていた。
()
彼の沈みゆく心に、一つの醜い光が灯った。ただ、彼女の『物語』を見ていたい。主役になれない自分とは違う『物語』を。
そのどうしようもない真実に、魂が凍りついた。
「タクッ!!」
切羽詰まった少女の叫び声で、巧は現実に意識を引き戻された。目を開けると視界いっぱいに、涙で濡れたルナリアの顔が自分を覗き込んでいた。
(ああ、机の上で、倒れていたのか……)
体が燃えるように熱く、頭がガンガンと痛む。
「しっかりして! タク!」
彼女の必死な声が、まるで水の中から聞いているかように、遠くにくぐもって聞こえる。
「どうしよう……どうすれば……!」
ルナリアは、完全にうろたえていた。彼女は、巧をそっと宝石箱のベッドに寝かせると、ふとベッドの横に置かれた、小さな燕尾服に視線を止めた。
そして、何かを思いついたように、部屋を飛び出していく。
(どこへ、行くんだ……?)
朦朧とする意識の中で、巧はその小さな背中を見送った。部屋に一人取り残される。静寂が、自分の荒い呼吸の音を際立たせる。
夢の中で感じたあの灰色の無力感が、再び彼の心を支配しかけた。
バンッ!と、勢いよく部屋の扉が開かれた。そこに立っていたのは、息を切らせたルナリアだった。そして、彼女の後ろから心配そうな顔でひょこりと顔を覗かせたのは、フローラだった。
「ルナ! 落ち着いて! 大丈夫だから!」
フローラは、そう言うとパニックになっているルナリアの手を強く握りしめた。そして、巧が眠るベッドのそばへと彼女を導く。
フローラは、宝石箱の中を真剣な表情でじっと覗き込んだ。
そして、そっと自分の指先を巧の熱い額に触れさせる。
「どう、フロル?」
ルナリアが、祈るようなか細い声で尋ねた。
「この熱さ、ただの魔力切れじゃないかも。待ってて!」
フローラはそう言うと、自分のカバンから一冊の使い古されてボロボロになった小さな手帳を取り出した。表紙には、彼女の丸い字で『わたしの妖精図鑑』と書かれている。
彼女は、必死の形相でそのページをめくり始めた。
「高熱、魔力の急激な消耗、そして羽の輝きが失われている。あった! これ、もしかして……」
フローラの指が、あるページでぴたりと止まる。
「『妖精熱』よ。珍しいけど、大丈夫。ちゃんと、治せる病気だから」
その断定的な言葉に、ルナリアは少しだけ安堵の息を漏らした。フローラは、心配そうにルナリアの顔を見つめた。
「何か、変わったことはなかった? 最近の、タクちゃんの様子」
その問いに、ルナリアははっと息を呑むと罪悪感に顔を歪ませた。
「そういえば昨日の夜、練習が終わった後、少しだけ、ふらついていた、ような……」
彼女は、自分の記憶を探るようにそう呟いた。
「私、自分のことでいっぱいいっぱいで。全然、見てあげられてなかった」
その声が、罪悪感に震えるのを見てフローラは、強く首を横に振った。
「今は、後悔してる時じゃないでしょ!」
彼女のいつもより少しだけ厳しい声が部屋に響く。
「今はタクちゃんを助けることだけ考えなさい!」
その言葉にルナリアは、はっと顔を上げた。
フローラは頷くと、手帳のあるページをルナリアに見せた。
「見て、ルナ。妖精熱には『月雫草』が一番効くの。滋養があって魔力を穏やかにしてくれるから」
「月雫草」
「ええ。すぐに、私の家から一番良いものを持ってこさせる。だからルナはお湯を沸かして、薬を煎じる準備をしてて!」
「う、うん……!」
フローラの的確で頼もしい指示。巧は朦朧とする意識の中で(すごいな、この子)と、ぼんやりと思った。
そして二人の、必死の看病が始まった。
小さなスポイトが、巧の口元にそっと差し入れられる。苦い薬草の味が口の中に広がる。
熱い額に、冷たくて気持ちのいい濡れた布が優しく置かれる。
巧はほとんど動けないまま、ただその光景を見つめていた。いつもは気丈なルナリアが、自分のためになりふり構わず必死になってくれている。
その姿が熱でぼやけた視界の中で、とても尊いもののように見えた。
そして彼の意識は、薬の効果か安堵のためか、今度こそ穏やかな眠りの中へと沈んでいった。




