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おとぎ話

 食堂での出来事の余韻が、まだルナリアの心を温めていた。彼女は、部屋に戻ると、いつものように机に向かう…かと思いきや、ふと足を止め、小さな本棚の奥から、一冊の古びた本を、大切そうに取り出した。


 それは彼女が子供の頃から、何度も何度も読み返してきたのであろう、一冊の絵本だった。表紙は擦り切れ、ページの角は指の跡で丸く柔らかくなっている。

 彼女は、その絵本を胸に抱きベッドに腰掛けると、隣に巧をそっと座らせた。そして、宝物を見せるかのように、ゆっくりとその最初のページを開く。


「ねえ、タク。このお話、知ってる?」


 子供の頃に戻ったかのような、少しだけ弾んだ声。巧は、小さく首を横に振った。


「そっか。……じゃあ、教えてあげる。これはね、『白銀とグリフォン』っていう、この国に伝わる、古いおとぎ話なの。」


 彼女は、そのページを一枚、また一枚と指でなぞりながら、楽しげにその物語を語り聞かせる。


「この物語の魔女様とパートナーのグリフォンはね、たった二人で千もの軍勢を退けたのよ」


 彼女は、興奮に頬を上気させながら挿絵の一場面を指差した。そこには、炎を吐く勇壮なグリフォンの姿が描かれている。


「それだけじゃないの。その大きな翼で、枯れた大地に恵みの雨を降らせたんだって」


 彼女は、物語の挿絵に描かれた勇壮なグリフォンの姿に釘付けになっている。その横顔は、ただ純粋な憧憬の色にきらきらと輝いていた。


「すごいでしょう?私もね、いつかこんな風に立派なパートナーと、冒険がしてみたい」


 その言葉を聞いた瞬間、巧の思考が止まった。彼女の瞳には、天を翔け炎を吐く、伝説の聖獣が映っている。その眩しい理想と、G級妖精という自分のちっぽけな現実が、あまりにもかけ離れていた。


 そして、彼女は、最高の笑顔のまま、こう続けたのだ。


「今の私なら、きっとなれるかもしれない。この物語の魔女様みたいに」



 そのあまりにも無邪気な言葉。それが、巧の頭の中でこれまで聞き流してきた、他の生徒たちの何気ない会話の断片と残酷な線で結びついてしまった。


『はぁ……うちの使い魔、ほんとハズレ』

『わかる。うちもだよ。まあ、学年末の『契約の儀』で、お別れすればいいんだから』

『……それまで、ね。ほんと、それだけが救いだわ』


 出来の悪い使い魔への不満。年に一度だけ、パートナーを『選び直せる』という制度の存在に巧は気付いていた。

 そして、その先にある未来。巧の意識の底から、ゆっくりとあの灰色の光景が浮かび上がってくる。


 朝の通勤電車。死んだ魚のような目をした人々の群れ。情熱も喜びも全てを諦めていた無力な自分。あの、何も感じない空っぽの日常へ。

 巧の胸だけが、すうっと、温度を失っていく。


(ああ、そういうことか)


 彼女は、自分との契約を今年で終わらせ、この物語のグリフォンのような使い魔と契約し直す未来を夢見ているのだ。

 頭の片隅で、冷静な自分が囁く。


(……そうか。そうだよな。それが、彼女のためだ)


 いずれ、自分は彼女の成長の『足かせ』になる。もっと強くて、頼りになるパートナーを見つける方が、彼女のためになるに決まっている。頭では、痛いほど理解できる。

 だが、心がその正しい結論に、静かに悲鳴を上げた。


(……嫌だ)



 手のひらから伝わってくる、彼女の温かい体温。

 自分の名を呼んでくれた、あの優しい声。

 二人だけでページをめくった、この静かな時間。

 この色鮮やかな毎日。

 生まれて初めて見つけた、誰かのために生きるという、眩しいほどの『生きがい』。


 その全てを失い、またあの何も感じない、何も生み出せない、無力なだけの自分に戻ってしまう。

 その予感が、彼の小さな心を耐え難いほどに締め付けた。


(俺は、この子の物語のパートナーにはなれないのか……?)


 巧の葛藤に気づく様子もなく、ルナリアは夢見るような瞳で、絵本の最後のページをそっと撫でた。


「……そうしたら、私今度こそお父様とお母様を助けてあげられる。私たちの領地を、あの物語みたいに豊かな場所にしてみせるんだ」


 彼女の真っ直ぐな夢を、素直に喜ぶことができない。そんな自分が、どうしようもなく醜く思えた。

 彼は、寂しさと葛藤を悟られないよう、ただ静かに小さく頷いてみせるだけだった。

 やがて、ルナリアは宝物をしまうように、そっと絵本を閉じ本棚へ戻した。



 その夜、ルナリアはよほど今日の出来事が嬉しかったのだろう、穏やかな寝顔ですうすうと寝息を立てていた。

 だが巧は、眠ることができなかった。彼は、一人ルナリアが作ってくれた宝石箱のベッドの中で、暗い天井をただじっと見つめていた。


 彼女の無邪気な言葉が、頭の中で何度も、何度もこだまする。寂しさと自分の醜さに、胸が押しつぶされそうだった。

 彼は、そっとベッドの縁に立った。月明かりが、眠るルナリアの穏やかな横顔を照らし出している。


(……それでも、いい)


 彼はその寝顔を見つめながら、静かに覚悟を決めた。


(今は、まだ、隣にいる)

(この、小さな手でも、できることがあるはずだ)


 彼は、ただそれだけを思った。いつか、彼女がこの日々のことを、ふと思い出した時に『そばにいてくれたな』と、ほんの少しでも温かい気持ちになってくれたなら。

 それだけで、もう、十分すぎるほど、報われる。


 元の世界で何も成し遂げられなかった、空っぽの自分。そんな自分が、この子の物語のほんの一ページでも、意味のある登場人物になれるのなら。


 彼は、ベッドから抜け出すと、机の上へとふらつきながら飛んでいった。

 開かれたままの教科書。そのまだ見ぬより高度な術式のページを、彼は自分を削るように、ただひたすらに読み解き始めるのだった。

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