優しい指のぬくもり
その夜、部屋に戻ってもルナリアの興奮はまだ冷めやらないようだった。巧は、宝石箱のベッドの中からそんな彼女の姿を見つめていた。
彼女は机に向かうと、試験官からもらった羊皮紙を何度も広げては見つめている。そこに書かれた『合格』というたった二文字。それを指でそっとなぞっては、ふふっと子供のような嬉しそうな声が彼女の唇から漏れた。
その心の底から幸福そうな横顔を見ているだけで、自分の胸の中まで温かいものがじんわりと広がっていく。
(よかったな、ルナリア)
彼の心を満たしていたのは、生まれて初めて感じる種類の温かい感情だった。
元の世界では、どうだったろう。学生の頃、自分の知識が認められれば、もちろん嬉しかった。会社に入って、難しい研究がうまく結果に繋がれば胸を撫で下ろした。
だが、今この胸にあるこの温かさは、それらとは全く違うものだった。誰かのために、自分の力を使う。そして、その誰かが心の底から笑ってくれる。
ただそれだけのことが、これほどまでに自分の心を満たしてくれる。そのことを、彼は知らなかったのだ。
ただ一人の孤独だった少女を笑顔にできた。それが、乾ききっていた彼の魂を静かに潤していく。
やがて彼女はその羊皮紙を宝物のように机の引き出しへ大切にしまった。そして巧のいるベッドサイドテーブルへとやってくる。宝石箱の蓋がそっと開かれた。
「……タク」
彼女の声が夜の静寂に清らかに響いた。
「……ありがとう」
彼女の指先がそっと伸びてくる。そして巧の小さな頭を、慈しむようにゆっくりと撫でた。その指の腹から伝わってくる温もり。
(……ああ)
巧の脳裏にあの最初の日の記憶が蘇る。
同じこの部屋で。
同じこの指で。
自分は無力に弄ばれた。
だが、今は違う。
「あなたがいなければ私、きっと心が折れていたわ。……本当にありがとう」
そのどこまでも温かい感触に、巧の小さな胸は今まで感じたことのない甘い感情で満たされていく。
(……俺は、この瞬間のためにここに来たのかもしれない)
彼はただ黙って、その穏やかな指先に身を任せていた。ただ満たされた時間が静かに流れていくだけだった。
◇
実技試験から一夜が明けた翌朝。ルナリアが教科書を抱えて、廊下を歩いていた。
前から数人の《薔薇クラス》の女子生徒が、楽しげに談笑しながら歩いてくる。以前のルナリアであれば、きっと壁際に寄り彼女たちが通り過ぎるのを、俯いて待っていただろう。
だが、今の彼女は違った。彼女は背筋を伸ばし、まっすぐに前を向いたまま歩き続ける。女子生徒たちは、ルナリアの姿に気づくとぴたりと足を止め、その会話を中断した。
ルナリアが、彼女たちの横を通り過ぎるそのほんの一瞬。巧は、ポケットの中から確かに感じた。
ひそひそと、何かを囁き合うその声。そして、ルナリアに向ける値踏みするような視線。そこには、もはや以前のようなあからさまな嘲笑はない。その代わりに焦りと当惑が入り混じった感情が渦巻いているように感じた。
ちょうど、廊下の曲がり角に差し掛かったその時。角の向こうから、一人の生徒が静かに現れた。イグニス・ド・ヴァレンシュタイン。その姿を認めた瞬間、ルナリアの歩みが一瞬だけ止まった。
イグニスは、彼女が立ち止まったことなど全く意に介さない。ただその冷徹な視線だけが、まっすぐにこちらを射抜いていた。彼は何も言わず、ただルナリアの横をすれ違い通り過ぎていく。
彼が完全に見えなくなった後、ルナリアは何事もなかったかのように、再び歩き始めた。
他の生徒たちの視線は、全てルナリアへと注がれていた。だが、イグニスの視線は違った。彼の視線はただ一筋。ルナリアの胸ポケット――その中にいる、巧自身にだけ向けられていた。その事実に、彼は気づいてしまった。
(……あいつだけは、違う)
巧は胸ポケットの暗闇の中で、静かな戦慄を覚えるのだった。
◇
昼休みに食堂で、ルナリアが一人で食事をしていると、太陽のような明るい声が彼女の名前を呼んだ。
「ルナー! お待たせー!」
声の主は、もちろんフローラだった。彼女は、いつものように笑顔を振りまきながら、ルナリアのテーブルへとやってくる。
その隣には少し気の弱そうな女子生徒が、緊張した面持ちでフローラの後ろに隠れるようにして立っていた。
「フローラ……。その子は?」
ルナリアは、訝しげに尋ねた。
「えへへ、紹介するわね! この子は、私のクラスの友達のアンナちゃん! どうしても、ルナに話したいことがあるんだって!」
フローラはそう言うと、アンナの背中をぐいっと優しく押した。アンナは、びくりと肩を震わせると、おずおずとルナリアの前に進み出る。
彼女は、そばかすが少しだけ残る人の良さそうな丸い顔立ちの少女だった。長く伸ばした栗色の髪をきつく三つ編みにしており、その指先が緊張でスカートの裾を固く握りしめているのが巧にも見えた。
「あ、あのっ! と、突然、ごめんなさい。 わ、私、アンナって言います」
「……ええ。何か、ご用かしら?」
ルナリアの返事はまだ少し硬い。その冷たい響きに、アンナはさらに体を縮こませた。
「そ、その……こ、この前の、試験……見て、ました……!」
彼女の声は、か細く、途切れ途切れだ。
「……私も、魔力の制御が、全然、うまく、いかなくて……。もう、ダメかなって……諦めようって、思ってて……」
「…………」
ルナリアは何も言わず、ただ黙って彼女の次の言葉を待っている。
アンナは、一度ぎゅっと目を閉じると、意を決したように顔を上げた。その瞳には涙が浮かんでいた。
「で、でも、あなたが、成功、したから……っ!」
彼女の声に、確かな力がこもる。
「だから私も、もう一回頑張ってみようって……! そ、それで、あの……勇気を、もらいました……! あ、ありがとうございますっ!」
ルナリアは、驚きにただ目を見開いていた。どう返事をすればいいのか分からないのだろうか。いつもなら、「別に」と突き放してしまっていたかもしれない。
アンナのあまりにも真っ直ぐな瞳を前に、彼女は言葉を失いただ固まってしまっていた。ルナリアの肩が、微かに震えた。ポケットの中で、巧もまた固唾を飲んでその光景を見守っていた。
(……ルナリア。今だ。今こそ、お前が、勇気を出す時だ)
彼はその小さな手で、ルナリアの胸の辺りを内側からぽんぽんと、優しく叩いた。
「……っ」
そのポケットの中から伝わってくる、ささやかなしかし確かな鼓動。ルナリアは胸ポケットの巧に向かって頷いた。
そして、彼女はアンナと、そしてそのきっかけを作ってくれた親友――フローラにゆっくりと顔を向けた。
そこには、、穏やかな小さな笑みが浮かんでいた。
「……ありがとう」
彼女が絞り出したその小さな感謝の言葉は、アンナの心に確かに届いた。その一連の光景を、巧はポケットの縁から、じっと見つめていた。
そしてふと、隣に立つフローラの横顔に視線を移す。彼女は、何も言わなかった。
ただ、そのいつもは楽しげに輝いている瞳を、ほんの少しだけ大きく見開いた。まるで、美しい宝石でも見つけたかのように。
その真剣な眼差しが、ルナリアの胸ポケット――その中にいる、巧自身にまっすぐに注がれていた。
その今まで見たことのない視線に、巧はほんの少しだけ居心地の悪さを覚えるのだった。




