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水の雫

 実技試験の会場は、静まり返っていた。巨大な講堂に一年生の全生徒が集められ、その中央に設えられた一つの演台で、順番に課題の魔法を披露していく。

 その様子を教師たちが、厳しい表情で採点している。

 巧は胸ポケットの縁から、そっとその光景を盗み見ていた。試験は、まず《百合クラス》の生徒たちから始まっていた。

 彼らの多くは緊張に顔をこわばらせながら、必死に拙い魔法を紡いでいく。指先にようやく灯った、豆電球ほどの小さな光。生まれた瞬間に形が崩れてしまう、今にも弾けそうな水の雫。

 その一つ一つのささやかな成功に、彼らは安堵のため息をつき、あるいは失敗に悔しそうに唇を噛む。


(……これが、《百合クラス》のレベルか)


 巧は、冷静に彼らの実力を分析していた。

 そして、《百合クラス》の試験が全て終わると会場の空気が変わった。次に、演台へと向かうのは《薔薇クラス》の生徒たちだ。彼らの魔法は、全く違っていた。

 まるで呼吸をするかのように、当たり前にそして美しく魔法を成功させていく。その多くが、入学前から家庭教師による、先行学習を済ませているのだ。その揺るぎない自信と、洗練された技術。

 二つのクラスの間には、絶対的な『壁』が存在していることを、巧は痛感せざるを得なかった。

 そして、そのエリート集団の中でも、ひときわ異彩を放つ一人の生徒の存在に気づかざるを得なかった。

 イグニス・ド・ヴァレンシュタイン。

 彼は自分の番が来ると、まるで退屈な作業でもこなすかのように魔法を使った。一切の詠唱もなしに、指先から完璧な凝縮された光を出す。そして次に、寸分の歪みもない宝石のような水の雫を、いとも容易く生み出してみせた。

 そのあまりにも圧倒的な実力に会場からは、感嘆のため息が漏れる。

 そして、その完璧な演技が終わった後、司会役の教師が次の名を告げた。


「――次。ルナリア・アシュフィールド」

「課題、基本魔法二種。制限時間は、各種一分とする。始め」


 教師の、無慈悲な声が響く。最初の課題は『光の魔法』。これは、もう問題ない。

 ルナリアは胸ポケットの巧の存在を確かめると、深呼吸し詠唱した。彼女の指先に、安定した光が灯る。


「……よろしい。次」


 問題は次だった。教室の空気がじわりと悪意に満ちていく。


「光はまぐれでできたらしいけど、水は無理でしょ」


 ルナリアの手が、緊張で微かに震えていた。夜のレッスンでは、結局一度も水のアクア・ドロップを完全に成功させることはできていないのだ。

 しかし、彼女の瞳には以前のような絶望の色はなかった。光の魔法を成功させたという小さな自信が、彼女を支えていた。

 彼女はぎゅっと目を閉じ、一度深く息を吸った。


(タク……)


 彼女の祈るような想いが、巧に伝わってきた。


(……やるしかない)


 巧はポケットの縁から顔を覗かせ、彼女の指先に全神経を集中させていた。


「――来たれ、水のアクア・ドロップ!」


 凛とした声が、教室に響く。ルナリアが右腕を前に突き出す。

 彼はセンサー化した微細な魔力を、ルナリアの体内から指先へと向かう魔力の奔流へとそっと送り込んだ。

 その高い親和性のおかげで、巧の魔力は拒絶されることなく、彼女の奔流に完全に溶け込んでいく。

 その瞬間、巧の脳内に今までとは全く違う『感覚』が流れ込んできた。それは、物理的な感覚ではない。

 ルナリアが指先に構築した、目には見えない『水の雫の術式』そのものの状態が、まるで自分のことのように、鮮明に理解できるのだ。

 術式のどの部分の圧力が高いのか。どこが歪み、崩壊しかけているのか。

 これが、彼女だけが感じていた、魔法の『内側』の状態……!

 彼は、その情報に基づき、完璧な補助を行う。

 だが――

 ぱしゃり。雫は、生まれた瞬間に弾けた。

 練習なしのぶっつけ本番。二人の呼吸がまだ合わなかった。


「……残り、三十秒」


 教師の、冷たい声。ルナリアの顔に、焦りの色が浮かぶ。


「もう一度!」


 ぱしゃり。また、失敗。


「残り、十五秒」


 生徒たちから、くすくすと笑いが漏れる。


(くそっ……! 俺が、彼女の感覚に追いつけていない……!)


 巧は、歯噛みした。


(……信じるしかない)


 彼は自分の思考を、一度空っぽにした。

 そして、ただ脳内に流れ込んでくる彼女の術式の『状態』だけに、意識を集中させる。思考するな。ただ、感じるんだ。


「……っ、最後……!」


 ルナリアが、最後の力を振り絞って詠唱する。

 時間がない。その瞬間、巧の意識は完全にルナリアの魔法と同化した。


(右が、膨らむ!)


 術式の右側の構造が、魔力の圧力に負けて歪もうとする。その崩壊の予兆を、巧は『感じ取った』。

 そして、彼がそう知覚し外側から寸分違わぬ場所に術式の核で補強を入れるのと、ルナリアが内側から無意識に魔力を抑え込もうと調整するのが、奇跡的にほぼ同時だった。

 二人の意識が繋がっているわけではない。だが、同じ目的に向かう二つの意志が偶然、完璧なタイミングで重なり合った。

 結果、彼女の指先に今までで最も長く、そして最も美しい水のアクア・ドロップが生まれた。

 それは、まるで小さな宝石のように、教室の光を反射してきらきらと輝いていた。

 雫が安定して、その形を保ち続けている。


「――そこまで」


 教師の、硬い声が響いた。

 その声にはっとしたルナリアの集中が途切れ、指先の水の雫は、ぱしゃりと音を立てて弾けた。

 教室が静まり返る。誰もが固唾を飲んで、教師の次の言葉を待っていた。

 教師は厳しい表情のまましばらくルナリアを見つめていたが、やがて一度だけ小さく頷くと、厳粛な声でこう告げた。


「……水のアクア・ドロップ、合格だ」


 その瞬間、ルナリアの体からふっと全ての力が抜けた。

 彼女は、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死に机に手をついてこらえる。

 そして、自分の胸ポケットをぎゅっと強く握りしめた。


「……っ、……はい……!」


 絞り出した声は、まだ、感動に震えていた。

 その声に宿っていたのは、今まで巧が一度も聞いたことのない、確かな喜びの色だった。

 巧はポケットの暗闇の中で、彼女の力強く速い鼓動を聞いていた。その生命のリズムが、まるで自分への祝福のように感じられた。

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