当然の挫折
ケーキを食べ終え、一息ついたルナリアはふと真剣な表情に戻った。
彼女の視線が、机の上に置かれた一枚の羊皮紙に向けられる。そこには、『中間実技試験・要項』という、堅苦しい文字が書かれていた。その紙を彼女はまるで憎い敵でも見るかのような目で見つめている。
彼女は、胸ポケットから巧を取り出すと、自分の掌に乗せた。
「ねえ、タク。私、どうしよう……」
その声は震えていた。
「この試験で、もし、また赤点を取ったら……。奨学金を、打ち切られちゃうの」
彼女は、それだけ言うと、言葉を、飲み込んだ。以前にはなかった、確かな信頼の色が宿っていた。
「……お願い。試験の時も、今までみたいに、ただ、そばにいてくれる?」
それは、初めての彼女からの明確なお願いだった。
弱さを見せることを何よりも嫌う彼女が初めて見せた、誰かに寄りかかりたいという心の叫び。
巧は、力強くこくりと頷いた。
その小さな肯定に、ルナリアはほっとしたように心の底から美しい笑みを浮かべた。
彼女は、まだ気づいていない。自分が本当に頼るべき力が、その小さなパートナーの声にならない想いの中にあることを。
◇
その夜から、二人の特訓はさらに熱を帯びた。
ルナリアは、次の課題である水の雫の練習を始める。
「光ができたんだもの。水だって、きっとできるはずよ!」
意気揚々と、彼女は詠唱を始める。
「――来たれ、水の雫!」
巧も、光の魔法の時と同じ要領で、彼女の指先に構築されようとする術式の中心に、核を撃ち込んだ。
その瞬間、ルナリアの指先にぷるんと美しい水の雫が生まれた。
「できた!」
ルナリアが歓喜の声を上げる。だが、その声が終わるか終わらないかのうちに、水の雫は形を失ってぱしゃりと弾け、ただの水滴となって彼女の指を濡らした。
「え……?」
ルナリアは、呆然と自分の濡れた指を見つめる。
「どうして……? 一瞬、できたのに……」
(……やはり、そうか)
ポケットの中で、巧は自分の仮説が正しかったことを確信していた。光の魔法と違い、水の魔法は術式の核を魔法が続いている間、常に完璧な形で維持調整し続けなければならないのだ。
それは、砂で城を建てるようなもの。一瞬でもバランスが崩れれば、すぐに形を失って崩れ落ちてしまう。
「もう一度!」
ルナリアが、悔しげに再び詠唱する。巧も、全神経を集中させて、術式の核を形成し、それを維持しようと試みる。
雫が生まれる。直後、雫の右側が、ほんの僅かに膨らんだ。
(まずい、崩れる!)
巧は、慌てて核の右側の強度を上げる。だが、彼の反応はコンマ数秒遅かった。雫はバランスを失い、ぱしゃりと弾ける。今度は、1秒も持たなかった。
「くっ……!」
ルナリアが唇を噛む。巧もまた、ポケットの中で、自分の無力さに歯噛みしていた。
(……見えない。外からでは、雫の内部で何が起きているのか、その予兆が全く読み取れない……!)
術者であるルナリアは、きっと肌感覚で理解しているのだろう。自分の魔力が、今、術式の中でどのように振る舞っているのかを。だが、外部の補助者である巧には、それが分からない。
彼に見えるのは、ただ『雫の形が崩れた』という、結果だけ。
車の外からエンジン音を聞くだけで、内部のどの部品が摩耗しているかを当てろと言うような、無謀な挑戦だった。
(このままでは、埒が明かない……! 俺の勘と反射神経だけでは、彼女の奔流を制御しきれない!)
ルナリアは以前と違い、失敗にもめげずに練習を続ける。
「むずかしいわね。でも光ができたんだから、きっとこれもできるはず!」
その前向きな姿が、逆に巧を追い詰めた。彼女が諦めない限り、自分も諦めるわけにはいかない。
その日から、巧の新たな挑戦が始まった。深夜、独りになった巧は机の上の教科書を読み解き、どうすればこの問題を解決できるのか、そのための新しい理論を模索し続けた。
(既存の術式の応用だけでは、限界がある。根本的に何かが足りない)
彼は、自分の弱点が『術式の内部の状態を、外側から感知できないこと』にあると結論づけた。
ならば、と彼は前代未聞の計画を立てる。
「魔力の状態を『可視化』あるいは『感知』するための、全く新しい補助魔法を、俺自身が開発する!」
研究者としての魂が、久々に燃え上がっていた。元の世界ではできなかった、ゼロからの法則発見と技術開発だ。
数日間、巧は夜な夜な机の埃の上に自作の魔法陣を描き、試行錯誤を繰り返した。
光の屈折率の変化を捉える術式と、微弱な魔力をアンテナのように使う術式を組み合わせ、彼は一心不乱に研究に没頭した。
だが、現実は非情だった。
(……これじゃない。この組み合わせでもない。くそっ、何が違う!?)
思考の袋小路に迷い込む。
新しい術式の開発は、新しい化学合成ルートを開拓するのと同じで、理論と実践が完璧に噛み合わなければ成功しない。ルーンの組み合わせ、魔力の流し方、ほんの僅かなズレが、全てを失敗に終わらせるのだ。
一朝一夕でできるものではない。
それは、彼が元の世界で嫌というほど味わってきた現実だった。一つの確かな成果を得るためには、膨大な仮説と数えきれないほどの失敗の積み重ねが必要なのだ。
だが、試験まではもう時間がない。焦りだけが空回りする。彼が何とか発動できたのは、指先に置いた水の粒がほんの僅かにキラリと光るだけの、全く意味のない現象だけだった。
それは、一人の研究者の当然の挫折だった。




