【第五話】その名前、俺以外に呼ばせるな ◇◇高峰蒼視点
◇◇高峰 蒼視点
夏休み中は、プレスの知人に招待されたファッションショーを見にパリへ行っていた。
旅行がてらのつもりだったが、ついでに現地ブランドの関係者とも何人か会うことが出来た。
飛行機が遅れて日本に到着したのは夜遅くになってしまい、昨夜は空港近くのホテルに宿泊した。
その為今朝は、ジムを休むことにした。
(餅田は俺がいなくても、頑張っているだろうしな。)
出発前に自分で体重を暴露してしまい、誤魔化すように必死でランニングマシーンを走る彼女が脳裏に浮かぶ。
(…あれは面白かったな。)
「…くくっ、」
思い出して、ついつい口角を上げてしまう。
会社のエントランスに到着すると、空気がざわついていた。
(…なんだ?)
「今の誰?」
「やば、めっちゃ可愛い!」
「おい、お前っ、声かけてこいよ!」
「無理無理っ!オーラ凄すぎっ!」
男性社員達の小声が次々と耳に入る。
視線の先には、颯爽と歩く一人の女性がいた。
仕草も、笑顔も、完璧に洗練されている。
(――あれは)
俺に気づくと、その女性はまるで花が咲くように笑った。
「高峰さんっ!おはようございますっ!」
(――嘘だろ…)
「…餅田?」
「もー、高峰さんっ、今日はジムお休みだったんですか?言ってくださいよー。」
いつもの距離感のはずなのに、なぜか胸が騒めく。
俺は気づけば、ただ呆然と彼女を見つめていた。
「…ああ、昨日飛行機が遅れて、空港の近くに泊まったんだ。」
声が思った以上に、低く掠れていた。
「あ、例のファッションショーの帰りですか?…大変でしたね。お疲れ様です。」
そう言って心配そうに眉を下げる彼女から、目が離せない。
チン、と到着音が響き、俺と彼女と知らない社員の三人が、エレベーターに乗り込んだ。
ドアが閉まり、密室になる。
ふわっと狭い空間に、ほのかに甘い香りが漂った。
――夏休み前にはなかった匂いだ。
餅田はカバンから仕事用のタブレットを取り出そうとして、ペンを落とした。
「あっ…」
俺は反射的に拾い上げ、手渡した。
「ありがとうございますっ。」
無邪気に笑うその瞳に、思わず息を呑む。
……瞳、こんなに大きかったか?
――違う。カラコンか。
メイクも髪型も服装も、全て彼女に似合うように計算し尽くされている。
けれど、夏休み前に毎日顔を合わせていた時と、人の良さそうな優しい眼差しは変わっていない。
「高峰さん?」
名前を呼ばれ、はっと我に返った。
「……いや、何でもない。」
思わず視線を逸らしてしまった。心臓の音がやけに煩い。
チン、と再び到着音がしてドアが開いた瞬間、もう一人いた社員がエレベーターを降りていく。
すれ違う際、少しぶつかって餅田がバランスを崩した。
「わっ…!」
思わず腰に手を回して支える。
「だ、大丈夫ですっ。すみません。」
二人きりになったエレベーターで真っ赤になって見上げてくるその顔に、今度は俺の方が固まってしまう。
(…こんなに変わるもんかよ。)
動揺する俺を尻目に、餅田は意を決したように話しかけてきた。
「あのっ!な、夏休み中、橘さんに色々教えて貰いながら頑張ってみたんですけど…。どうでしょうか?
――その、高峰さんを、驚かせたくて!」
その言葉に胸の奥が甘く締め付けられる。
「俺を、驚かせたくて…?」
「は、はい!!ご、合格でしょうか?」
真剣な目で見つめてくる彼女に、気づいたら笑いかけていた。
「…ああ。合格だ。」
――そう言った瞬間。
「…やった!!」
拳を握りしめる彼女を見て、思わず口の端が上がる。
(――今俺、コイツのこと、『可愛い』って思わなかったか…?)
…思わず口元を抑える俺に気付かずに、彼女は嬉しそうに言った。
「なんだかこれで、やっと『JOUR』の一員になれた気がしますっ!高峰さん、これからも宜しくお願いします。」
「…ああ。宜しく。よし、行くぞ。」
エレベーターを降りると、俺は彼女に背を向けてスタスタと歩いていく。
「あ、待ってくださいよー。」
追いかけてくる彼女に赤くなった顔を見られないように、俺は必死に誤魔化すのだった。
◇◇
――7階の『JOUR』のオフィスに餅田が入ると、一瞬シーンと静まり返った。
彼女が元気に『おはようございますっ。』と言って席に着くと、皆がポカンと口を開ける。
「も、餅田さんっ?!」
「嘘でしょ?!」
そんな中、新人の西山が満面の笑みで餅田の席に近づいて来た。
「餅田さんっ!
夏休み中にめっちゃ可愛くなりましたね?!あの、良かったら今度二人で食事にでも行きませんか!」
餅田は、どうしていいかわからないような顔で困っている。
「え、えーっと…。」
「――おい、西山。オフィスにプライベートを持ち込むな。」
俺が威圧をすると『ひいっ!』と言って、自分の席に戻って行った。
席についても、彼女の事を何故かずっと目で追ってしまう自分がいた。
資料棚まで歩いて行く姿や、髪を耳にかける仕草の一つ一つが、何故かとても色っぽく感じてしまうのだ。
(…一体俺はどうしてしまったんだろうか…。)
悶々としながらも、一週間後に行われるレセプションパーティーの招待客一覧に目を通していたのだが。
橘が、資料を渡しながらこそっと
「高峰さん、まどかのこと見過ぎ。可愛くて見ちゃうのはわかりますけど、集中して下さいよっ。」
と言って来た。
「っな!!」
思わず動揺して声を上げると、
「…あら?何か資料に不備でもありました?」
と言ってきたのだった。
「…何でもない。」
(…くそ、上司を揶揄うなよ…。)
思わず睨みつける俺を、橘はニヤニヤとしながら見てきたのだった。
その後もついつい餅田を目で追っていると、ふと顔を上げた彼女と目が合ってしまった。
餅田は大きく目を見開いてから、ジワジワと顔を上気させていく。
「っ!!」
そんな彼女に俺は息を呑むのだった。
◇◇
――昼休みになり、ランチを買いに行こうと廊下を歩いている時だった。
「まどか!ランチ行こっ」」
目の前で橘が餅田をランチに誘っている。
思わず見ていると、なんと橘が
「高峰さんもどうです?!」
と誘って来たのだ。
その横で餅田が、俺のことをじーっと見つめている。
(…っく。)
「――ああ。行く。」
気づけばそう答えてしまっていた。
社屋を出て、楽しそうに話す餅田と橘の後ろを歩いていく。
橘のお気に入りだという定食屋に向かっていると、大学生風の男二人が俺の目の前で二人に声をかけて来た。
「お姉さん達、今からランチですか?!良かったら一緒に…」
「私の部下達に何か用ですか?」
俺が睨みつけると、男達は一目散に逃げて行った。
「なんだったんですかね?あの人達…。」
「餅田は知らなくていい。」
キョトンとする餅田に、俺はそう答えるのだった。
定食屋に入ると、餅田が焼き魚定食、橘が日替わり定食、俺が刺身定食を注文する。
「まどか、ほんっと可愛くなったよね!高峰さんもそう思いません?」
(なんで橘はいちいち俺に振るんだよっ!)
そう思いながらも口が勝手に
「…ああ、可愛くなった…。」
と答えていた。
「美波と高峰さんのお陰です…。二人とも、本当にありがとうございます。」
感極まったのか、潤んだ瞳で俺のことを見つめて来た。
――ゴクリ。
思わず生唾を飲み込んでしまう。
俺は余計な事を考えないように、懸命に取引先の禿げたオッサンの頭を思い浮かべていると。
「まどか、最近モテモテだよね!昨日も一緒に行ったプールで声かけられてたじゃん。」
と突然橘がぶち込んで来た。
俺は思わずゴホッとお茶を吐き出しそうになった。
「え?そ、そんなこと…」
餅田はそう言いながら焦った顔をしている。
(ぷ、プールだと?!餅田の水着姿を他の男が見たってことか?!)
俺は何故かモヤモヤして、無表情のまま定食を平らげたのだった。
――結局餅田と橘の分も俺が払い、定食屋を出て、三人で会社のエントランスに入ろうとしていた時だった。
「っまどか!!」
今度は同じ社内の者だと思われる男が、なんと餅田を下の名前で呼び捨てで呼んできたのだ。
(は?何なんだ、コイツは。)
めちゃくちゃイライラして、睨みつけようとした時だった。
「…俊…」
餅田が反射的に足を止め、振り返ったのだ。
胸の奥に嫌な気持ちが広がる。
(――元カレか。)
「久しぶりだな。…雰囲気、変わったな。もしかして俺のために変わってくれたの?」
そいつははためらいもなく距離を詰め、餅田を上から下まで値踏みするように見た。
餅田はどこか怯えるような顔をして、目を見開いている。
「ち、ちが―」
「ちょっと黒田先輩。今は野球部に彼女いますよね?まどかに一体何の用ですか?」
橘がキッと睨みつける。
すると、俺達の存在に気づいた黒田が、ゆっくりとこちらを向いた。
「えーと、どちら様ですか?」
「彼女の上司ですが。」
意識せず声が低くなる。視線を外さず、間を取らずに答える。
「へえ…」と黒田は意味ありげに笑い、再び餅田だけに視線を戻す。
「なぁ、ちょっと今から二人で話せないか?」
餅田がびくりと肩を震わせる。
俺は一歩、餅田と黒田の間に割って入った。
「彼女、この後打ち合わせがあるんですよ。申し訳ないですけど厳しいですね。」
すると、わずかに黒田の眉が動く。
「そうですか。ではまた後日声をかけますね。」
そう言って去って行った。
横で餅田が、小さく『ふぅーっ』と、息を吐く。
「……すみません、高峰さん…。助けて下さってありがとうございます…。」
「…いや。」
後ろで橘が憤慨している。
「何なの?!アイツ!!まどかっ、絶対二人きりになんてなったりしちゃ駄目だからねっ!」
「うん…。」
餅田が小さく頷く。
俺の耳には、黒田が餅田を呼ぶ声がこびりついて離れない。
(……まどか、か。――二度と呼ばせるか。)
◇◇
――その日の夕方。
俺が資料室で昨年度のレセプションパーティーの反響を確認していた時だった。
「あれ?高峰さん…。」
目の前には、恐らく去年の原稿を探しに来た餅田の姿があった。
「餅田か。そう言えば、サロンのクライアントへの挨拶周りだが…。いつ行けそうだ?」
俺が尋ねると、餅田はスマホのスケジュール帳を開く。
「…来週なら水木の午後が空いてます。」
「わかった。じゃあ木曜日に行くか。」
俺が答えると、餅田は頷いてから顔をあげる。
「…高峰さん。昼間おかしな所を見せてしまって、申し訳ありませんでした。」
その言葉に俺は苦笑する。
「…あー、気にするな。餅田じゃなくて悪いのは向こうだろ。」
俺がそう答えると、彼女は真っ直ぐに俺を見た。
「あの!私が変わったのはあの人の為なんかじゃなくて!
高峰さんに、認めてほしかったからなんですっ!」
彼女がそう言い切った瞬間、心臓が跳ねた。
そのまま考えるより早く、俺は彼女の肩を引き寄せて抱きしめていた。
「――っはぁ…」
腕の中で、驚いたように短い息が零れる。
細い背中が少し震えて、シャツ越しにその熱が伝わってくる。
そのとき――
ガチャ。
「……あれ? 高峰さん、いますー?」
…しまった。
すぐさま背中に回した手で彼女を壁側に押しやり、顔を近づける。
「……シッ、黙ってろ。」
耳元で低く囁くと、餅田の頬が一気に赤く染まった。
「……どこ行ったんだろ。」
バタン、とドアが閉まる。
ふっと息を吐いた瞬間、彼女と目が合った。
瞳は潤んで頬は真っ赤に上気している。
――理性が一気に崩れ落ちる。喉の奥で熱が弾けるような感覚と共に、気づけば――
「…まどか。」
そう呼んで、彼女の唇を奪っていた。
唇を離した時、『…高峰さん。』と言いながら、震える彼女にハッとする。
「…餅田、もう戻れ。」
顔を真っ赤にした彼女が頷いて、バタバタと去っていくのを見送った。
(…やっちまった…、)
俺は頭を抱えるのだった。